小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

小文化学会の案内

 みなさんはじめまして。小文化学会のブログへようこそ!

    小文化学会(以下小学)は2016年9月1日に設立された学生を中心とする、総合思考サークルです。関心領域は会員の自由。あなたの探求するものが、小学の探求するものになります。

 「学会」と称していますが、当然ながら実際に学会として運営される団体ではありません。あくまで「ごっこ遊び」のようなものだとお考えください。しかし模倣とはいえ「学会」の体裁を取る以上は真摯に活動していきたいと思っています。

 具体的には以下の活動を行う予定です。

・記事の作成と当ブログへの寄稿

・記事をまとめた冊子の作成、配布

・書物・アニメ等を用いた勉強会

 

 Twitterアカウントはこちらです

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 当会へのご連絡は、本ブログの各記事のコメント欄(当記事でも差し支えありません)か、Twitterアカウントのツイートへのリプライ、またはDM、小学のeメールアドレス(shobunkagakkai☆gmail.comの☆を@に変更)にお願いいたします。いきなり入会をする必要はございません。興味、意見を少しでも持っていただいたら、お気軽にご連絡ください。

 

第三十一回文学フリマ東京に参加しました!

 予告していたとおり、11月22日に東京流通センター第1展示場で開催された文学フリマ東京に参加しました。ブースに来ていただいた方に、あらためてお礼申しあげます。初参加かつ従来とは違う状況でしたが、とてもいい経験になりました。備忘録も兼ねて、参加を決めてから冊子編集、作成、印刷、配布にいたるまでの道のりを残しておきます。

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推しの暗渠に有名になってほしくない

  それは、推しのアイドルに有名になってほしくないオタクの心情と少し似ている。アイドルだって地形だって、有名になって注目を集めれば否が応でも変わらざるを得ない。その変化を嘆く“古参ヅラ”はどこにでもいるのだ。

 今これを読んでいる貴方はラッキーだ。まだ有名になっていない素晴らしい暗渠が山ほどあるのだから。ただし油断してはいけない。情景は刻一刻と更新され続けている。今回は、その油断ならない一進一退の攻防を紹介したいと思う。

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第三十一回文学フリマ東京に参加します!

 当ブログ『小文化学会の生活』でトップに固定しているご挨拶の記事「小文化学会の案内」では、具体的にする活動のひとつに「記事をまとめた冊子の作成、配布」を掲げています。で、なんかつくって配ったの? ……ありません。1回もありませんでした。これまでは。

 

 2016年9月に設立して早や4年が過ぎ、満を持して会誌創刊&同人誌即売会への参加が決定しました。タイトルにもあるとおり、11月22日に催される第三十一回文学フリマ東京にて、冊子『小文化』創刊号を配布いたします。

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ママはママでもママじゃないママはな~んだ

 正解は崖です。

 「ママ」は長きにわたり関心を持たれてきた。たとえば、江戸時代後期の国学者は由来を「土が心のままに崩れるからだよ」と述べている。親父ギャグじゃん、と一笑に付している方に言いたい。私も同感だ。

 これを著書で引用した研究者もこじつけとみなし、そのうえで真面目な検討を重ねている。彼の名は柳田國男。日本の民俗学の先駆者のひとりで後代の人々におおきな影響を与えた。1937年に刊行された『地名の研究』は、地名に関する研究の基礎史料といってよい。

 「ママ」に関する論攷は同書のなかで短いながら堅実に展開された。「ママという地名は東部日本に充満している」。そして具体例をいくつも挙げて、「土堤の敷地と馬踏との間」、「高地の側面」、「崖のはずれ」、「時としては畦畔」と広い意味を持ち、「西へ進むにつれて傾斜地」を指すと分析している。分布に関しては要検討だが、原義の解釈に反論する余地はない。

 しかし、その表記の豊かさに柳田はあまり関心を向けなかったようだ。おそらく、地名が先に名付けられてからめいめいの漢字を与えられる過程や、用いられた漢字がまったく別の読まれかたをする等の誤った伝達が起きる可能性を鑑みて、まずは「音」に注目しようと考えたのだろう。もしくは端から興味を持っていなかったかもしれないし、現地の人に聞くか不鮮明な地図を頼るほか、正しい表記が把握できなかった困難さに起因していたとも考えられる。

 今回はいまいちどママの分布を確認したうえで、柳田が言及しなかった「ママ」の表記と共に、そこで用いられた珍しい漢字の意味についても考察を試みる。

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虚構の終身雇用の虚構 あるいはなぜ我々は仕事を辞めないのか

 サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ~♪

 ご存知かの有名な喜劇俳優植木等のサラリーマンどんと節の一節である。1962年の『サラリーマンどんと節気楽な稼業と来たもんだ』という映画で歌われ、当時人気だったらしい。

 ナウでヤングなみなさんにはむしろウッチャン出川哲朗のレモンサワーのCMでのパロディのほうに耳馴染みがあるかもしれない。

 サラリーマンは気楽な稼業と……いえねえよお!

 てやつ。 

 個人的にもこの類のパロディのが元ネタよりも聞いたことがある。特に、サラリーマンに批判的な意識高い新しい働き方を提案する系の本を読むと、この一節が良く引用されている。

 私が読んだことある限りでいうと、この歌をフックにして「昔はこうだったけど今のサラリーマンは……」と続くのがパターン。今のサラリーマンは安定してるとはいえず、かつてのように1つの会社に定年まで勤めあげて老後は年金生活というライフモデルは今や崩壊している。これからのサラリーマンは転職もするし、ネットを利用した副業もしていこう、さあ頑張ろう。

 割とマジでどの本もこんな調子。

 ネットに溢れるその手のブログを含めれば数えきれないくらいだ。試しに「サラリーマン気楽な稼業」でググってみてほしい。

 

 で。

 この歌ないし映画が本当に当時のサラリーマン像を描いているかどうかは本稿の関心じゃない。描いてないだろとは思う。だってコメディ映画だから。両津勘吉見て昭和の警官はみなああだったとは思わんじゃんね。

 本稿で考えたいのはこの歌の風景が所与のものとして働いていることだ。

 どんと節は現代と比較した過去のサラリーマンの象徴として引用され、彼らの論の出発点として扱われている。その際、「かつてサラリーマンが気楽だったこと」への疑いは封印される。

 コメディ映画のコミックソングをあたかも歴史記述かのように引用し疑うことなく前提として論じることは否定しない。それは興ざめなマジレスでしかないからだ。

 むしろ逆に、「そんなにいうなら気楽なサラリーマンとはいつ存在したのか」、本稿はそれを探していきたい。

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京阪京津線の車内広告と仮想通貨バブル崩壊

どうも、つおおつ(29おじ)です。
最近、普通四輪の運転免許を取得しました。
これで一番ありがたいのが、タイムズカーシェアのナイトパックが使えること。
今はキャンペーンで18:00-9:00の15時間がなんと770円……
移動手段と宿泊場所がくっついているのにこの値段ですから、破格という他はありません。
ミソなのが、日の出が5時なら日が出ている時間帯に4時間も運転できるということ。
アニメの聖地巡礼のために訪れた駅の駅前でナイトパックのカーシェアを借り、日没までにスポットにたどり着き現地で車中泊。日の出と共に巡礼を始めるというコスパ最強ムーブを思い付いたのでぜひ来年の夏至付近で実行したいです。

閑話休題
今回は仮想通貨バブルについての思い出を語る懐古記事です。

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『図書館の魔女』と地下水道

 こんにちは、暗渠が大好きなヱチゴニアです。これまで何度か暗渠を探索する記事を書いてきましたが、今回は少し趣向を変えて、小説の中に登場する暗渠についてです。

 2017年末の記事でわずかに触れましたが、暗渠は文学作品の中にときどき登場します。こういった文学作品を読み込むときの最もシンプルな方法論として対立軸に注目するやり方がありますが、例えば、暗渠は開渠であった頃と時間軸上で対比されることが多いものです。

 さて、今回は髙田大介による小説『図書館の魔女』を取り上げて、その中で暗渠がどのような役割を果たしているのか考えてみます。ただし、長い作品であり、全体を俯瞰 すると1つの記事におさまりが悪くなってしまうので、文庫版の1巻と2巻のみに言及します。ちなみに、続編の『図書館の魔女 烏の言伝』にも暗渠は登場します。暗渠という舞台装置が好きなのでしょうかね。

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名鉄小牧線でゆくOMMCツアー

 飲み会にはコールというものがあるそうだ。平凡な人生を送ると無縁の存在だが、その気になれば簡単に関わりを持てる。そもそも酒のなかにはコールがすでにあるとはいえ(「アルコール」だからね)、コールを唱えればもっと楽しくなるかもしれないし、虚しくなるかもしれない。すべては気の持ちようで変わる。

 代表的なコールは、と紹介しようとしたところでまったく知らないことを思いだし、ググってみた。ご丁寧にまとめてくれている方が何人もいるのでいくらでも引用できるが、活字にされたものに目をとおすと漫才をミュートで見るようなもどかしさが湧いてきて、すぐにブラウザを閉じてしまった。申し訳ない。「飲み会 コール」で検索するとわんさか出てくるので、気になったら各自で調べてほしい。

 ところで上記の検索ワードにはなかなかひっかからないが、話題になったコールがある。タイトルで挙げた“OMMC”だ。知らない方にごく簡単な顛末を述べると、2017年6月にインスタグラムに投稿された大学生の飲み会でのコールが話題となり、Twitterや動画サイトに「この世の終わりみたいなインスタの投稿」というコメントやタイトルと共に転載されて不特定多数に拡散した。こうした動画が即座に「コンテンツ」と化すのはインターネットの常で、3年経った現在でも風化したとはいいがたいのは、そうした「利用」がされているからだろう。

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「自称アスペ」はテリヤキバーガーか

 これはお前の話じゃない。

 

 コミュ障、アスペ、ADHD発達障害、鬱……あなたはどの病に苦しんでいるだろうか。

 いや、この聞き方は正しくない。あなたはどの病を選んだだろうか。

 本稿は上記の病気の存在を否定しない。

 理解なく甘えと切り捨てたりもしない。

 本稿で問いたいのは病を自称するという行為だ。ここでいう「自称」とは、その病気が自分にも当てはまる状況を経験しているが医学的な診断を受けてはおらず、自己認識に留まるという曖昧な領域だ。つまり、客観的に症状があるかどうかは関係なく、あくまでも自身でその病気にかかっていると思っていることが重要だ。

 病院で診察を受けたわけでもないのに、「私はコミュ障だから」とか「俺は発達障害かもしれない」という人間をけっこう見かける。そいつらを見ていて不思議に思うのが、彼らの態度から後ろめたさというか、苦しんでる感が感じられなかった。まあ見せないだけかもしれないけど、逆に「改善に向かってこういう努力をしてる」という話も聞かない。ただ「私はコミュ障だ」という自己診断で止まっている。さすがに霊が見えるレベルの嘘ではなく、生活のうえで経験した苦しみ、ある病気に当てはまるかのような状況が土台になっているとはいえ、主観の域を出ておらず、あくまでも自称アスペ・自称コミュ障でしかない。

 

 こいつらなんで自分の病気や障害を図々しく言って歩くんだ?

 病を公表するのにはリスクが伴う。ハンセン病患者は隔離という差別を受けてきたし、知的障害のある同級生のあいつは「たんぽぽ学級」という「特別扱い」を受けていた。精神病院は山奥に建てられている。なんらかの病、異常な状態にある人間は社会的な排除を受けるのだ。

 だから今、私たちは血眼になってマスクをつけている。

 このように隠すもの、遠ざけるものであるはずの病の中から、上記に挙げたようないくつかだけは積極的に選び取られ、公表できるという特権性を与えられている。

 病人とは思えないほど活発に自称して歩くが、そのエネルギーを改善には使わない。

 ならば彼らの目的は何か、あるいはこれらの病を自称することでいかなる効用が得られるのか、本稿はそれを探りたい。

 炎上するのが怠いから何度だって繰り返そう。私はこれらの病気の存在を否定しないし、苦しんでる人を傷つけたいわけでもない。

 本稿が対象とするのは自称〇〇だ。

 

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