小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

小文化学会の案内

 みなさんはじめまして。小文化学会のブログへようこそ!

    小文化学会(以下小学)は2016年9月1日に設立された学生を中心とする、総合思考サークルです。関心領域は会員の自由。あなたの探求するものが、小学の探求するものになります。

 「学会」と称していますが、当然ながら実際に学会として運営される団体ではありません。あくまで「ごっこ遊び」のようなものだとお考えください。しかし模倣とはいえ「学会」の体裁を取る以上は真摯に活動していきたいと思っています。

 具体的には以下の活動を行う予定です。

・記事の作成と当ブログへの寄稿

・記事をまとめた冊子の作成、配布

・書物・アニメ等を用いた勉強会

 

 Twitterアカウントはこちらです

twitter.com

 当会へのご連絡は、本ブログの各記事のコメント欄(当記事でも差し支えありません)か、Twitterアカウントのツイートへのリプライ、またはDM、小学のeメールアドレス(shobunkagakkai☆gmail.comの☆を@に変更)にお願いいたします。いきなり入会をする必要はございません。興味、意見を少しでも持っていただいたら、お気軽にご連絡ください。

 

ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』を読む②

はじめに

 前回に引き続き、ウィル・アイズナーの『コミックス・アンド・シーケンシャルアート(Comics and Sequential Art)』を読んでいく。

 

sho-gaku.hatenablog.jp

 

 今回読んでいくのは第3章「TIMING」だ。本章でアイズナーはコミックにおける時間の表現について論じている。

続きを読む

白ポストの中身が知りたくて――

 ポストといえば白だ。誰がなんといっても白。私のクオリアイカれたわけではない。実際に白いポストはある。送る言葉ではなく唾棄すべき(と誰かが断定した)言葉を入れる、有害図書追放のために設置された通称「白ポスト」。

 白ポストは1950年代後半から盛んになった悪書追放運動の一環で、1960年代前半に尼崎市に設けられたのが最初とされている。以降、自治体や市民団体が各地でどんどん増やしていった。ここらへんの詳しい経緯はWikipediaWikiが参照した文献にあたってほしい。本稿の関心は白ポスト白ポストでも、その中身だ。

 中身を知りたければ、素直に管理団体へ問い合わせると同行できるらしい*1。回収数が増えている地域もあるようだが、インターネットという電子の大海が拡がる現状を鑑みると、一般的には利用数は減っているだろう。先の注釈の記事では、ゴミも捨てられているという。

 開けずに内部を見たいなら、本物の目ではなく機械の目に頼ることもできる。持っててよかったスマートフォン。あたりまえですが撮影しただけで当初の目的以外の使用はしていないし、中身をいじくるなんてこともしておりません。

続きを読む

ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』を読む①

 はじめに

 小文化学会では特に方針を定めず、会員がめいめい好きな事柄について筆を運んでいる。打ち合わせも特にない自由な空間で、だいたいの寄稿者が1度は焦点をあてているジャンル、それがマンガだ。おのずと手が伸びるほど読みなれているが、それゆえにマンガの分析は想像以上に難しい。

 アメリカン・コミックス界の巨匠、ウィル・アイズナーが1985年に著した『コミックス・アンド・シーケンシャルアート(Comics & Sequential Art)』は、アメコミを対象としたコミック研究の古典である。氾濫する解釈の渦へ身を投げだすまえに、古典の本扉を開いてみるのもひとつの手だろう。ひとまず今回は、1章と2章に目を通していきたい。

続きを読む

家庭料理という徴兵 暮らしに下限は設定できるか?

f:id:Sho-Gaku:20220224163116j:plain

リュウジの「至高のペペロンチーノ」を筆者が調理している場面。 パスタは熱湯に入れる段階で半分に折った。パスタおよび味付けのコンソメ顆粒にはトップバリュを使用。50円ほどのこの食事を、ヤマザキ春のパン祭りでもらった皿で食べた。

 

  • 1.はじめに
  • 2.家庭料理の手抜き
  • 3.リュウジのバズレシピ
    •  3-1.虚無シリーズ
  • 4.おわりに。暮らしに下限を設定してみた。

 

1.はじめに

 この前の記事『今年読2021』で紹介した久保明教の『家庭料理という戦場 暮らしはデザインできるか』に触発されて本記事を書くことにした。この本に登場する人物は料理することを厭わなかったが、私たちは毎日進んで料理をしているわけじゃないと思ったからだ。私たちが料理する動機の大半は「腹が空いた」という受動的で義務感によるはずだ。どちらかというと著者もこっち派のような気がする。

 久保は「暮らしはデザインできるか?」という問いに対し、答えることは難しいと結論した。暮らしのデザイン[1]は確かに主体的な営みであるが、その実自分ではどうしようもないものに翻弄される受動的なものでもあるからだ。暮らしをデザインしようとすればするほど、かえってそれ以外のデザインできない部分が立ち上がってくる。個性的な料理を作るべく特別な調味料を付け足そうと思いついたとき、その人はそれを求めてスーパーをはしごする不自由を味わう羽目になる。このように「暮らしはデザインできるか?」という問いはイエスかノーの二元論で答えられる単純なものではない(久保 2020)。

 答えることの難しさは、「暮らしをデザインする」という発想が「暮らしが生存のために仕方なくするものである」という前提を忘れていることに由来するのではないか。もちろん、暮らしが生きるための欲求から生起する義務的な営みであり、また自分以外の都合により規定される受動的なものであることは久保もわかっている(久保 同書 : 3-5, 21-22)。というか、そもそも久保は「暮らしをデザインする」という世間の風潮に批判的なようである。にもかかわらず本書においてこの姿勢が後景化しているのが不思議で、暮らしのデザインを考えるうえで「実際使う上での妥協」みたいな視点は必須だ。なにせアートじゃなくてデザインだからね。美しさもさることながら、使われることも想定しないといけない。

 この視点から暮らしを見ると浮かび上がる重要な営みがサボりである。すなわち、料理における手抜き。調理過程をいかに省くかは、食事が生きるために仕方なくする営みであることを思い出させる。と同時に、その引き算の過程をみていけば下限がわかるはずだ。

 家庭料理が戦場なら、そこには志願兵も徴兵もいる。久保が取り上げたのは進んで料理を作りたがる人たち、いわば志願兵だ。私がこれから記述する徴兵とは、「コンビニ飯は健康に悪いし、何よりお金がかかる」のような理由で仕方なく料理をする人たちである。彼らの営みについては、久保にならって料理研究家の変遷の追跡と筆者の個人的経験をあわせることで明らかにする。そうすることで「暮らしをデザインするうえでの最低限クリアしておくべきポイント」を考えていく。

 なお、目標が下限(本記事でいうこれは味と見映えと値段の3要素から成る)の設定なので中食については取り上げない。総菜や冷凍食品を買うと手間もかからないし、ものによっては作るより安い。だがこれを使うと容易く料理のクオリティが上がってしまう。同様の理由から、ホームベーカリーやレンジオーブンのような便利家電についても考えない。「金がないから家で料理する」というのが本記事のスタンスなので、課金する方向の話はしない。料理そのものに注目するので共食も考慮しない。これらの考察範囲の絞り込みは、そのまま本記事の限界を示している。

続きを読む

チ。あるいは、地、知、血、

 こんにちは、ヱチゴニアです。

 この記事は『チ。-地球の運動について-』という漫画の考察記事です。

 「サーチできにくくすることで、自分だけの意見を考えるきっかけに」してほしいとの考えから、作者の魚豊は本作を『チ。』と短く命名したそうです*1

 その思想に反するようで申し訳ないのですが、『チ。』について考えた事を書いちゃいました。

続きを読む

札幌スタートアップ雑感(2021.11-2022.01)

どうも、つおおつです。

 『小文化』2巻にも書いた通りですが、私がやっている会社である株式会社あるやうむが資金調達をし、自分のペースでのんびりやれるスモールビジネスから色んなステークホルダーを巻き込みつつ急成長を目指すスタートアップへと変化*1しました。

prtimes.jp

 一般的にスタートアップ企業が立地するのはほとんど東京であり、東京でなくても三大都市圏+福岡が殆どだと認識しております。わざわざ札幌に移住しスタートアップをやるというのはまあ狂気に近く、間違いなく小文化に該当するので今回はその雑感を、トピックベースでしたためられたらと思います。

 

  • 札幌スタートアップ雑感(2021.11-2022.01)
    • 1.Web3事業者への投資熱がすごい
    • 2.札幌(および道内)の人たちが声をかけてくれるようになった
    • 3.東京は金持ち
    • 4.投資家のほうが真面目
    • 5.明らかに出資前出資後の区別がされるように

*1:あえて変化という表現を使っているのは、スモールビジネスとスタートアップに優劣をつけたくないからです。

続きを読む

きれることの容易さ―きい作品を事例にⅡ―

 きい先生,単行本第3弾発売おめでとうございます。 www.wani.com

 

 本稿は前回*1にひきつづき,きい作品を題材に用いて,負けヒロインはいかなる存在として受け手の前に現れるのかという問いへの思索を行う。「特定のキャラクターが思いを寄せる相手と相互思慕になるのが失敗したと客観的に判断された時,その判断を下す者が特定のキャラクターを規定する際に用いる範疇」*2*3と,定義をひとまず付けた負けヒロインについて記述を試みる際,大雑把に分けると2つの工程へとりかかることとなる。すなわち,特定のキャラクターが好意を寄せるキャラクターとのあいだに相互思慕の関係を構こうとする過程を追う作業と,かかる過程と上記の定義を照らしあわせて,特定のキャラクターが負けヒロインであるかの判断を下す作業である。

 筆者はこれまで,どちらかというと前者に重点を置いた記述を行ってきた*4*5。一般的な負けヒロインへの言及は,後者ないしはかかる判断を前提とした各々の美的感覚にもとづく評価が目立つように思われたからだ。特定のキャラクターが負けヒロインであるという言明を事実とすることで生みだされるテクスト及びテクストの生成過程は,アフェクションを共有し,コミュニケーションの媒介となりうる有意義な事象(の成果物)である。いっぽうで,会話の蓄積や意思疎通を援助する新たな概念の提唱が先行し,キャラクターを負けヒロインとみなす認識過程については等閑視されてきたきらいを感じざるをえない。このような問題意識にもとづき,作品内描写の追跡に専従する形で,キャラクターが企図した恋愛関係の実現に失敗する=負ける経緯を記述し,負けヒロインと認知する過程の探究を試みてきた。

 かくして物語内容の分析を進めてきたが,しかしながら,下される判断の客観性を定位する困難さを折々で覚えた。思惟と言葉の叢を分け入っていく過程で,客観性を無意識のうちに薙ぐことがないよう,あらかじめ想起されうるふたつの語意に触れておくと,ひとつは文章やイラストを材料として行なわれる判断に対する客観性,いまひとつは特性を指し示すカテゴリに対する客観性である。

 負けヒロインの指示対象や含意の散乱は,後者にまつわる問題である。当項の客観性へ審問をはじめると,途端に意味は分散し,もはや雑談の俎上に載せる以外にカテゴリを設ける必要性はないような主観の並存が起きる。では前者の客観性を物語が担保してくれるのかというと,必ずしもそうはいかない。上で述べたように,負けヒロインの認知はテクストを読み,キャラクターの遍歴が負けヒロインの定義に該当するか考える二段階により構成される。片方のみで完結しない*6

 これまでのマンガやライトノベルを用いたケーススタディは,後者の焦点となる意味を冒頭の定義に固定することで,前者への照準を履行できた。時系列でみても,また指示内容の合意形成においても後者に関する論議を解体し,筆者の一存で統合的な内包を唱えるのは,かえって思索を後退させることとなる。本稿では冒頭の定義を前提としたうえで,カテゴリ付与の観点からみてより曖昧な事例に対して,キャラクター間の関係構築の記述を試みる。そして,負けヒロインとの邂逅という出来事を経験する際,読者が特定のキャラクターを負けヒロインと判断する過程の様態を検討していく。なお,取り扱う作品の性質上,未成年の閲覧は控えるよう,筆者からは言い添える。

続きを読む

今年はこういうの読みました2021

 早いもので2021年も終わりです。オリンピック・パラリンピックの開催、一昨年末から続くCOVID-19の世界的な感染拡大。世界で何が起きようと、世界がいかに変わろうと、結局は自分で決断して、生きていくほかありません。判断を他者に投げださないためにも、本から得られる知識や知恵はきっと有効な手立てとなるでしょう。もちろん、判断が求められつづけるばかりでは疲れてしまうので、休息のための読書もアリです。というわけで、今年も読んだ本の紹介で締めくくりたいと思います。よいお年を!

続きを読む

エロマンガレビュー 新堂エル『変身』-その魔力の根源と暴走―

f:id:Sho-Gaku:20211221213615j:plain

 

 

「変わりたいと思う気持ちは、自殺だよね」

 

西尾維新著『零崎人識の人間関係』より。いーちゃんのセリフ。

 

 

 

 いくつかのエロマンガには魔力がある。

 

 名作と呼ばれるそれらは、読者の心に何か残るものを突き刺し、彼らをして友達に勧めさせたり感想をブログや商品レビューに書かせたりする不思議な力をもつ。

 今回レビューする『変身』もその一つだ。魔力の効果とは人から人へ語り継がれることで、Dr.ヒルルク風に言うと「人に忘れられない、死なないこと」だといえる。

 では一体、新堂エル氏の『変身』の魔力はどこに由来するのだろうか。本レビューはそれを考える。

 ただし魔法という言葉に引っ張られて、作者や作品の描写に内旋していく旅に出かけはしない。それは出口のない迷宮で、堂々巡りを繰り返してしまう。
 そうではなくてもっと具体的な、作品に込められた意図というか設計を探るべきなのだ。摩訶不思議なマジックもタネはちょっとした仕掛けである。

 

(以下、敬称略)

続きを読む