
リュウジの「至高のペペロンチーノ」を筆者が調理している場面。 パスタは熱湯に入れる段階で半分に折った。パスタおよび味付けのコンソメ顆粒にはトップバリュを使用。50円ほどのこの食事を、ヤマザキ春のパン祭りでもらった皿で食べた。
- 1.はじめに
- 2.家庭料理の手抜き
- 3.リュウジのバズレシピ
- 4.おわりに。暮らしに下限を設定してみた。
1.はじめに
この前の記事『今年読2021』で紹介した久保明教の『家庭料理という戦場 暮らしはデザインできるか』に触発されて本記事を書くことにした。この本に登場する人物は料理することを厭わなかったが、私たちは毎日進んで料理をしているわけじゃないと思ったからだ。私たちが料理する動機の大半は「腹が空いた」という受動的で義務感によるはずだ。どちらかというと著者もこっち派のような気がする。
久保は「暮らしはデザインできるか?」という問いに対し、答えることは難しいと結論した。暮らしのデザイン[1]は確かに主体的な営みであるが、その実自分ではどうしようもないものに翻弄される受動的なものでもあるからだ。暮らしをデザインしようとすればするほど、かえってそれ以外のデザインできない部分が立ち上がってくる。個性的な料理を作るべく特別な調味料を付け足そうと思いついたとき、その人はそれを求めてスーパーをはしごする不自由を味わう羽目になる。このように「暮らしはデザインできるか?」という問いはイエスかノーの二元論で答えられる単純なものではない(久保 2020)。
答えることの難しさは、「暮らしをデザインする」という発想が「暮らしが生存のために仕方なくするものである」という前提を忘れていることに由来するのではないか。もちろん、暮らしが生きるための欲求から生起する義務的な営みであり、また自分以外の都合により規定される受動的なものであることは久保もわかっている(久保 同書 : 3-5, 21-22)。というか、そもそも久保は「暮らしをデザインする」という世間の風潮に批判的なようである。にもかかわらず本書においてこの姿勢が後景化しているのが不思議で、暮らしのデザインを考えるうえで「実際使う上での妥協」みたいな視点は必須だ。なにせアートじゃなくてデザインだからね。美しさもさることながら、使われることも想定しないといけない。
この視点から暮らしを見ると浮かび上がる重要な営みがサボりである。すなわち、料理における手抜き。調理過程をいかに省くかは、食事が生きるために仕方なくする営みであることを思い出させる。と同時に、その引き算の過程をみていけば下限がわかるはずだ。
家庭料理が戦場なら、そこには志願兵も徴兵もいる。久保が取り上げたのは進んで料理を作りたがる人たち、いわば志願兵だ。私がこれから記述する徴兵とは、「コンビニ飯は健康に悪いし、何よりお金がかかる」のような理由で仕方なく料理をする人たちである。彼らの営みについては、久保にならって料理研究家の変遷の追跡と筆者の個人的経験をあわせることで明らかにする。そうすることで「暮らしをデザインするうえでの最低限クリアしておくべきポイント」を考えていく。
なお、目標が下限(本記事でいうこれは味と見映えと値段の3要素から成る)の設定なので中食については取り上げない。総菜や冷凍食品を買うと手間もかからないし、ものによっては作るより安い。だがこれを使うと容易く料理のクオリティが上がってしまう。同様の理由から、ホームベーカリーやレンジオーブンのような便利家電についても考えない。「金がないから家で料理する」というのが本記事のスタンスなので、課金する方向の話はしない。料理そのものに注目するので共食も考慮しない。これらの考察範囲の絞り込みは、そのまま本記事の限界を示している。
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