小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

きい先生でヌきたい!ーエロマンガのエロいエロくないを分析する③ー

 

 

 

1.はじめに

 こんな記事を読むほどにエロマンガが好きなあなたにわざわざきいのことを説明するのもまだるっこしいが、きいはエロマンガ家で『放課後バニラ』、『群青ノイズ』、『不完全マーブル』の3冊を世に送り出した快楽天が誇る看板作家の1人だ。『放課後バニラ』の反響は把握していないが、『群青ノイズ』は近所のメロブで長い間平積みだったし、『不完全マーブル』もDlsiteやこの前行った近所のエロ本屋でランキング1位だった。2010年代後半から2020年代前半のエロマンガを語るうえで絶対に外せないエロマンガ家、それがきいだ。

 そんなトップエロマンガ家のきいだが、どういうわけか私はヌけない。エロいのはわかるがヌく気にならない。それが本記事の問いだ。エロマンガを考えるといったとき、ヌけるヌけないの問題はいつも避けられてきた。個々人の感性の問題だから扱っても不毛だからなのだろうか。けれど、エロマンガの実用性の側面を無視するのは分析として片手落ちだ。後述するように、マンガという媒体は読者の協力があって成立する媒体でもあるからだ。本記事では「ヌけない」といって捨ててしまったエロマンガを拾い上げて、どこがどうヌけなくてそれがなぜなのかを考えてみたい。

 

 

2.ヌけないエロマンガについての記述

 分析する前に、私がきいを読んで冷めていった過程を記述する。「ヌけない」というかなり不親切な気持ちの表現を丁寧に言語化したいからなのと、分析方法にも直接関連するからだ。

 私が初めて読んだきいのエロマンガは『不完全マーブル』の『日陰の詩』だった。それまできいの作品を読んだことは一回もない。せいぜい友達の『群青ノイズ』をパラパラとめくった程度だ。

 『日陰の詩』の1ページ目で一番目を引くのはヒロインの顔だ。絵を下手だとは思わなかったし、「『ザ・アニメ美少女』から微妙に外れ(新野 2022 : 148)」た丸っこい顔や大きすぎない目も可愛いと思った。冒頭ですでにヒロインのひなたと竿役の影山とが陰キャの高校生であるとわかるし、表紙イラストや単行本全体のデザインが醸し出す雰囲気をふまえれば、アオハルイチャラブセックスなのは予測できた。ジャンルも私の好みだった。

 続く2ページ目から3ページ目。いじめっ子たちに脅された影山が「マ〇コ舐めさせて」とひなたにお願いし、ひなたがOKする一連の流れを読んでも別にシラケることはなかった。陰キャ女子にこういうセクハラをするなんてともすればかなり不快なシーンにもなりうるが、そうは感じなかった。

 4ページ目で場所の移動を挟んで5ページ目からクンニのシーンに入っていく。気持ちが高まっていくと同時に、この作品の特徴に気づいた。セリフとコマが多い。だが肝心のエロいシーンは大きなコマで描かれている。小さいコマで何が描かれているのかというと、ひなたと影山の関係性の進展、ひなたのキャラ紹介、影山の日常だ。それらがエロいシーンにオーバーラップしながら、クンニ→顔面騎乗→69→学校のトイレでフェラチオと2人の行為が段階的に発展していく。このあたりからどことなく読みづらさを感じたが、それはこの先に待つセックスシーンへの期待で紛れる程度だった。

 13ページ目がセックスシーンの導入だった。20ページの作品だからもう終盤と言ってよい。影山の「今日ウチ一人なんだけど来る?」という問いに対し、ひなたがコンドームを握らせることで答えたのだ。ということは次のページからセックスが描かれる。

 やっとか。後半一気に盛り上げるなんて和牛の漫才みたいなスタイルだなあ。などと甘勃起しながらページをめくった14ページ目が私にとっての転機だった。

 

性器をはてブに載せると後々めんどくさいかと思い、断腸の思いで黒塗りにした。

 そこに描かれていたのはぶち抜きのひなたちゃん。照れた顔をしながら「行くー♡」と答えている。このとても可愛い立ち姿を見て、私は集中が途切れた。我に返ったとでもいおうか、「なんでここでわざわざぶち抜いてまで、裸でもない全身を描いたんだ?」という疑問が頭に浮かんだ。私の目にはひなたちゃんが他のコマから浮いているように、つまり他のコマと連動していないように見えたのだ。そう感じた瞬間、途端に読む順番がわからなくなってしまった。具体的に言うと、左上の三コマに目を運ぶことが出来ない。

 一度崩れたリズムはすぐ立て直すことができたものの、なんだか目が滑る感覚はぬぐえなかった。ひなたと影山のセックスも他人事のように感じ(事実そうなのだが)、頭でエロさを理解できても、感情移入することなく最後まで読んだ。

 

 以上が私のきいを読む間の違和感の記述である。念のため言っておくが、きいのマンガが下手だと言っているのではない。マンガが下手で快楽天のトップは張れない。これは、私という読者と『日陰の詩』が、途中まではいい感じに共振していたのだがある時点をもってその協力関係が破綻してしまったという話だ。

 『日陰の詩』はその時点がどこかはっきりしているが、他はそうではない。それらも同様に、絵柄が好みでないわけでも、ジャンルが合わないわけでもない。読んでいてなんとなく気持ちが入っていかないのだ。であるならば、ヌけない理由はコマの連続の中にあるのではないか。

 

 

3.兼ねコマ、LLマンガ、補完

 松井優征都留泰作スコット・マクラウドのマンガ論はある点で共通している。ジャンプと障害者向けマンガとアメコミ、それぞれの立場で漫画を論じていながら、みなマンガを読む際の読者の協力について論じている。彼らの議論を比較することでわかるのは、読者がマンガを読むときに使う力、言い換えるとマンガを読むために必要な技術だ。

 松井優征はおもしろいマンガには攻撃力だけでなく防御力が必要だと説く。センスある演出やストーリーが攻撃なら、防御とは読者の頭を使わせない、読んでいて疲れない漫画を描くことだという。いくらストーリーがよくても、わかりづらければその分読むのに労力がかかる。すると総和としての読者の感じる面白さが減ってしまう。これを防ぐのがマンガの防御力で、それを実践するために彼が強く勧めているのが「兼ねる」こと、すなわち1つの内容で複数の要素を説明することだ。ただし兼ねすぎると今度は過密になり逆に読んでいて疲れる。松井本人が提示した例をそのまま引用するが、例えば「燃えるビル」と「それに驚く人」という2つの要素を1つのコマで説明するのが「兼ねる」ということだ。「ビルが燃えている」→「驚いた人の顔」とわざわざコマを2つ使うよりも、情報量はそのままで読む時間も使う面積も節約できるのでマンガのコスパが高くなる。同じ要領でセリフも短いほうがいいし、キャラの説明も何か別の、例えば世界観の説明と兼ねることで冗長になるのを防いだ方がいい。

 この松井の「兼ねる」には読者の協力、言い換えるとマンガを読むためのマンガリテラシーが不可欠なことを教えてくれるのが都留泰作らの「LLマンガ」(2018)だ。LLとはスウェーデン語のLättläst(「やさしく読める」の意)の頭文字で、このマンガは自閉症や、知的障害、ディスクレシアといった障害を持つ人や、マンガを読んだことのない外国人でも読めることを目指している。

 彼らがマンガのどこにつまづくのかというと、まずどこから読んでいいかわからないというところから始まる。右上から左下に読むというマンガの文法を知らないからだ。それ以外にもコマの大きさは変わるし、多種多様なオノマトペはあるし、やたら目のでかい鼻のない女の子を「美少女」だと認識する訓練も要る。前述の松井の「兼ねコマ」は、マンガになじみのない人が見れば、「なんでいきなりビルの前にでかい顔が現れたんだ?」と思われてしまう。こうした読者に求められる教養をできるだけ排して作ったのがLLマンガだ。そのガイドラインは12条ある(都留 2018 : 98)*1

 なおこのマニフェストを厳密に守る場合とは、重度の障害をもちかつマンガにほとんど触れたことがない読者を想定したときだ。エロマンガの読者とは女体を模したインクの染みで勃起できる非常にマンガリテラシーの高い人たちなので、本記事はこの12条の中から「のりしろ」という技法をピックアップする。「のりしろ」とは、「そのとき××では」のような空間ジャンプ表現や、過去にシーンが飛ぶ時間ジャンプ表現などの突然の場面転換の際に、場面と場面のギャップを埋める説明のことである(同 : 89)。例えば廊下から部屋に移動するときは部屋に入る一コマを描くといったものだ。「のりしろ」という言葉は使わずに「コマが足りない」という表現で同様のことを曽山一寿がブログで描いているので、実例はそちらを参照してほしい。

 さて「マンガの防御力」も「LLマンガ」も、つまりはマンガを読む際の労力に注目することで生まれたアイデアである。この労力を都留らはマニフェスト⑫で「解釈」の一言でまとめたわけだが、それは小説や劇など様々なメディアを楽しむ際にもおこなうことだ。では、マンガに特有の労力とは何か。

 スコット・マクラウドが注目したのはコマとコマの間だった。彼のマンガ論は先達ウィル・アイズナー(1985)の流れを汲んでおり、マンガを視覚的コミュニケーションの媒体だと考える。つまりマンガはアーティストと読者の協力があって成立するメディアだということだ。この読者側からの協力がなされる場所こそがコマとコマの間であり、マクラウドはそれを補完closureと呼んだ(McCloud 1993:第3章)*2。これこそがマンガを読む際特有の労力だ。

 補完とはコマとコマの間、間白(かんぱく)を埋める想像力である。コマはある瞬間を切り取った断片でしかないし、それが集合しても断片の集まりでしかない。この断片と断片の間を埋めて一連の流れにする補完こそマンガそのものだとマクラウドは言う(同:67)。そして彼はこの補完を6種類に分類した。

 

  1. 《瞬間→瞬間》型:まばたきなどの小さな動き。ほとんど補完を必要としない。(以下、瞬間型)
  2. 《動作→動作》型:単一の主体による明確な連続(Ex. バットを構える→バットを振る)。(以下、動作型)
  3. 《主体→主体》型:同じシーンやアイデアの中で人や物が切り替わる(Ex. 会話シーン)。(以下、主体型)
  4. 《場面→場面》型:時間と空間のかなりの跳躍。かなり深い補完が必要。(以下、場面型)
  5. 《局面→局面》型:同じ場所、アイデア、ムードに留まりその部分部分を描き時間を迂回させる(ツリーや雪の降る夜空、サンタのぬいぐるみなどを描きクリスマスの夜のムードを表現する)。(以下、局面型)
  6. 関連なし

 

番号が大きくなるほどより深い補完を必要とする。なお6は、人はコマとコマの間に何らかのつながりを見出してしまうため、実際にはない(同:70ー72)。

 この6種類がマンガにおいてどれくらいの比率で出現するかもマクラウドは分析している。彼がアメコミやヨーロッパのマンガを無作為に分析したところ、2が65%、3が20%、4が15%の比率になったという。それは、1では1つの動作を示すのにコマがかさむし、5を使う間は何も出来事が起きていないので、この3つが中心になるからだ。

 しかし、日本のマンガはこれに当てはまらないとマクラウドはいう。日本のマンガは3が2と同じくらい多い。なによりの特徴は、5を多用することだ。彼の分析によれば、『AKIRA』も『火の鳥』も『サイボーグ009』も5が10%ほどの割合で出現する。これは日本のマンガが「間の芸術(同:81-82)」であるためだという。5のコマ群は散り散りの断片であり、読者はそれらを使い1つの瞬間を組み立てるのだ(同:74-82)。

 さて彼ら3人の漫画家のマンガ論は、最終的に「ちょうどいいバランスを見つけろ」という結論で終わる。兼ねすぎてもいけないし兼ねなさすぎてもいけない。のりしろが多すぎるとコマがかさんで間延びしてしまう。コマとコマの間が大きくなるほど読者の補完にも幅が出てきてしまい、ストーリーテリングのコントロールが煩雑になる。読者が疲れず、解釈もおおよそ一致するような塩梅をみんな見つけていこう。頑張れよ。

 この結論の一致はまさにマンガがコミュニケーションであることを示している。アイズナーのいう視覚的コミュニケーションとはアーティストのイメージを読者に想起させ、何らかの感情を生起させることだ(Eisner 1985:18-19, 26, 38)。きいのエロマンガがヌけないとは、私ときいとのコミュニケーションがうまくいかなかったと言い換えることができる。

 

 

4.分析方法

 以上のマンガ論をもとにきいのエロマンガを分析した。ベースとなるのはマクラウドの間白論だ。理由は、彼の論がコマの連続についての分析であるから、そして邦訳当時一部のコミックファンや批評家の間で「マンガ後進国アメリカでやたら詳しくしっかり書かれた漫画論(小田切 2003)」として話題になった彼の論を温故知新してみたいからである。具体的にどうしたかというと、きいのエロマンガを1コマずつ数えてコマとコマの間の補完について分類するとともに特徴的なコマ割りやページについてできる限り記録した。

 本分析の至らぬ点をつらつらと書いていく。まずはマクラウドの分析に欠陥があること。彼自身上記の六類型について「せいぜい不正確な科学an inexact science at best(McCloud 1993 :74)」と断りを入れている通り、彼のコマ割り分類は分析者の主観に大きく左右される。これを読んだあなたが私と同じようにきいの作品を分析しても、同じ結果にはならないだろう。それは彼が本書において分類基準を明確に示さなかったからである。なお高橋(2003 : 93)はこの客観的な分別の不可能性について、読者それぞれの読みをそれぞれが感得した意味として言明できると評価しているので、するならみんなで分析して比較したほうがいいと考えられる。

 また、マクラウドの間白論はコマの中の絵の内容を重視しない。それが全体のストーリーの中のどういうシーンか、ページ全体での役割は何か、ということは考えずただ直前のコマとの関係だけを考え、カットバックやカメラアングルも無視する。コマの大きさや形も無視(高橋 2003 : 98-97)。もっというと、1コマ1動作なんて単純なマンガは、『小学一年生』とかの子ども向けマンガに限られるという困難もある。

 

4-1.夏目房之介の「内包と多層」

 マクラウドとは異なり、ページ全体を意識してマンガのコマ割りを分析したのが夏目房之介だ。彼の有名な理論である「圧縮と開放」と「内包と多層」のうち今回は後者を使う(夏目 1997 : 第10章-第12章)。それは前者の補完への影響が小さいと考えたのと、こっちの方が主な理由だが、使って分析する余裕がなかった。次頑張ります。

 さて、「内包と多層」とは少女マンガでよく見るコマの上にコマが乗っかっているコマ割りのことだ。このコマ割りの効果は、時間の流れを希薄にすることだと夏目はいう。上のコマでは現在起きていることを、下のコマでは過去の回想を描くことで、両者が共時的あるいは時間の流れを感じさせない効果が生まれるのだ。本分析においてこの「内包と多層」のコマ割りが現れたときは5の局面型として数えた。「内包と多層」も局面型も、コマの配列を入れ替えても成立するのが特徴だからである(高橋 2003 : 95;夏目 1997:156-158)。

 その他、夏目も論じている空白コマ(同:159-161)については、1の瞬間型として数えた。同じくこれが出てきたら無条件で瞬間型に数えたものとして「目のクローズアップを描きハッと気づいたことを表現する小さいコマ」がある。

 

 夏目のマンガ論をもとにマクラウドの間白論が捉えきれなかったページ全体の中のコマ割りについてはカバーできたといえる。だが、カットバック的な演出やカメラアングルの問題については充分に検討できなかった。結局、カットバックの方は主体型として数えて、カメラアングルは、同じ人物が映っているなら動作型、見せたいものが変わっているなら主体型として数えた。

 

5.分析結果

 そんなこんなで、きいのエロマンガのコマを数えた。それとともに、比較として私の好きなエロマンガである『ギャルトモ♡ハーレム』を、ランダムサンプルとして快楽天の2022年7月号に掲載されたすべてのエロマンガを数えた。

 結果として、きいのエロマンガは他のエロマンガ作品と比べて《主体→主体》、《場面→場面》、《局面→局面》のコマ割りが多いこと、主体や場面が移動する際にナレーションがなく唐突な印象を与えることがわかった。だがこれらは短所ではなく、むしろ作品に想像の余地が多く生まれるので読者からの深い参与を得ることができる。ただし、そのためには読者に高度なマンガリテラシー、平たく言って慣れが必要である。きいの使う文法に慣れていない読者だと読んでいて疲れてしまい、ヌけない。ただし、雰囲気だけをなんとなく読み進めていけば読む労力が減るので、ヌきやすくはなる。

 なお、きいの使う文法がどこから来たのかについてはまだ分析しておらず仮説でしかないが、おそらく男女4人くらいがくっついたり離れたりするラブコメのそれだろうと思う。完全にイメージで語るが、浅野いにおとか『聲の形』とか全年齢版の『カラミざかり』的なアオハルな感じのラブコメだ。私の人生において一冊も読んだことないジャンルで、つまり私には素養がなかったのだ。

 

5-1.きいと『ギャルトモ♡ハーレム』と快楽天7月号

 まずはきいという作家の特徴をグラフで提示する。

 

 

これはきいの3つの単行本の収録作のうち、おまけである『My Sweet Cat』と石川シスケがネームを担当した『ビビってねーし!』を除外した全作品の間白を数え分類し、平均を算出しグラフにしたものだ。ぱっとみただけでマクラウドの提示した比率と異なることがわかる。彼曰くアメコミの比率は、動作:65%、主体:20%,場面15%、そして日本のマンガはこれと異なり、主体と動作が同じくらいで局面が10%ほどあるという。だが、このグラフはどちらとも異なり、

 

瞬間型:4.7% 動作型:23.1% 主体型:41.6% 場面型:9.3% 局面型:20.5%
(※小数点第二位は四捨五入)

 

という比率になっている。動作と主体は半々どころか主体のほうが2倍弱多く、また局面が日本マンガの平均の2倍ある。各単行本の比率も見てみよう。

 

瞬間:5.6% 動作:24.3% 主体:45.9% 場面8.5% 局面:14.9%

 

瞬間:4.8% 動作:20.9% 主体:39.2% 場面:11.5% 局面:22.8%

 

瞬間:3.8% 動作:24.1% 主体:39.9% 場面7.9% 局面:23.6%

 

 きいは単行本を重ねるにつれ、コマ数と局面型を増やしている。局面型のコマ割りが増えるということは、そのシーンのニュアンスやムードを重視しているということで、きいという作家の特徴であるといえよう。

 では石川シスケがネームを切ると比率はどうなるのだろうか。
 

比率は 
瞬間:2.6% 動作51.3% 主体32.9% 場面2.6% 局面9.2%
(小数点第二位は四捨五入)
となった。


 これもまたマクラウドのいうアメコミ型/日本型の区別には当てはまらない。別に当てはまったほうが良いわけでもないが、強いて言うなら日本型に近いとはいえようか。きいとの比較で注目すべきは動作型の多さと場面型、局面型の少なさだ。石川シスケのマンガはキャラのアクションがメインであり、空間や時間のジャンプ表現が少なく、またコマを重ねてムードを作る演出も日本のマンガの平均程度に収まっているため、我々は読み慣れているといえる。
 次は、快楽天2022年7月号に載った全エロマンガの平均を見てみよう。

 

 

 このグラフもまた、快楽天2022年7月号に掲載されたエロマンガのうち、ページの少ないF4Uの『異世界はこう抜く 第29射』とFLYの『COVER GIRL‘S EPISODE』を除いたすべての作品の間白を数え分類し、その平均を算出したものだ。その比率を計算すると、

 

瞬間型:1.9% 動作型:48.9% 主体型:34.4% 場面型3.1% 局面型9.4%

 

である。またもやマクラウドのアメコミ型/日本型のどちらにも当てはまらないが、『ビビってねーし!』と同じような形をしている。どうやらエロマンガを平均するとおおよそ

 

瞬間型:2% 動作型:50% 主体型:35% 場面型:3% 局面型:10%

 

という比率になるようだ。ただすべての掲載作品がこうした比率なのではなく、楝蛙の『フリーライド』やうぱ西の『三人の幸せな生活』は動作型よりも主体型が多い。『フリーライド』については局面型も掲載作の中で一番多かった。
 では、この比率でエロマンガを描けば、読むのに労力のかからないヌきやすいエロマンガになるのだろうか。
 ことはそう単純ではない。次に提示するグラフは、私が一番好きなエロマンガである史鬼匠人の『ギャルトモ♡ハーレム』のそれだ。好きな理由は、なによりもまずオタクに優しいギャルがたくさんでてきてエロいからなのだが、読みやすいからでもある。1話当たり平均で52ページもあるのにサクサク読めて疲れない。だからふと暇なときになんとなく読み返してしまう。実は私は間白を数える前には「きっと動作型が一番多いのだろう」と思っていた。
 

瞬間:2.1% 動作:43.1% 主体:45.8% 場面:1.6% 局面:7%
(小数点第二位は四捨五入)

 

だが御覧の通り、僅差ではあるが主体型が一番多かった。つまり、コマごとにキャラや物が多く切り替わるエロマンガだということだ。動作型も同じくらい多いが、グラフだけで言えば快楽天よりも補完を必要とするはずなのだ。だが、実感としてとても読みやすい。それはなぜなのだろうか。

 

5-2.カメラ位置は変わっても人称視点は変わらない

 『ギャルトモ♡ハーレム』におけるデータと実感の乖離は、マクラウドの間白論では捉えきれないマンガの片面に還元できる。つまり、マンガは絵と文字の2つから成り立つものなのに、間白論では文字の機能を無視せざるをえない。
 順を追って説明していく。『ギャルトモ♡ハーレム』は学園ハーレムものだ。主人公のきもっちこと田辺が正妻であるリカをはじめとして、クラスメイトのギャルたちとわいわいセックスをする全4話の長編だ。描かれるセックスは4Pや5Pが基本、最終話に至ってはギャル全員との乱交パーティになる。そのため必然的に主体型が多くなる。
それを示すように、きもっちとリカのセックスしか描かれない第1話のグラフは以下の形になる。

 

瞬間:1.4% 動作:46.8% 主体:42% 場面:2.6% 局面:6.7%

 

 『ギャルトモ♡ハーレム』の第1話はマクラウドのいう日本型マンガに近いかたちをしている。これが乱交パーティのある最終話である第4話に至ると、

 

瞬間:0.4% 動作:40% 主体:48% 場面2.2% 局面:9.2%

 

このように主体型が多くなり同時を表現する局面型も増える。だが、そうなっても読みやすさに差はない。その理由は『ギャルトモ♡ハーレム』が一貫して主人公であるきもっちの人称視点で描かれるからだ。例えば以下のページを見てほしい。

 

右下のページ番号は筆者が加筆

 

第3話より抜粋した1ページで、きもっちがギャルたちのきわどい水着を見て驚くシーンだ。このシーンの間白の流れは

 

0(前ページ最後のコマ)―瞬間―1―瞬間ー2―主体―3―局面―4―局面―5―動作―6―主体―7

 

となる*3

 注目してほしいのは、カメラ位置が大きく動く2か所にきもっちのナレーションが配置されていることだ。1つ目の「なんで僕も更衣室に……」というセリフは、きもっちのそばに配置されている。これにより、3人称視点で描かれた更衣室のシーンであると同時に、きもっちに焦点が絞られる。つまり、このナレーションがあることでこのコマは、「女子更衣室での着替えるギャルとその隅に座るきもっち」から「女子更衣室で着替えるギャルたちとその隅で畏まるきもっち」へと意味が微妙に変わる。視点をきもっちに寄せることで前後のコマとの唐突さを軽減しているのだ。それは2つ目の「うわぁぁあっ!?」も同様で、いきなりギャルへと主体が変わる唐突さを「エロい水着のギャルを見て驚くきもっち」へときもっちの人称視点を継続させている。その意味で7コマ目は「兼ねコマ」ともいうべきかもしれない。

 このように『ギャルトモ♡ハーレム』は、キャラがたくさん登場するがゆえに起きがちな「今誰が何しているかわからない」問題を、きもっちの心の声を配置し人称視点を固定することで対処している。心の声が要所要所に配置されているおかげで「ギャルのおっぱい(を見るきもっち)」というふうに、きもっちの視点を通奏低音させて読むことができる。カメラ位置は変われど人称視点は変わらない。これが『ギャルトモ♡ハーレム』の読みやすさの理由の1つだ。そういえばナビエ遥かもよくやってるので、ハーレムものを描くときのセオリーなのかもしれない。

 そのほか『ギャルトモ♡ハーレム』では、お風呂シーンの前には「お風呂入ろっか」というセリフが入ったり、場所が変わった際は場所の名前をナレーションで挿入したりするなど、読者の補完を助ける文字、都留のいう「のりしろ」が配置されている。これにより可読性の高さを確保しているのだ。しかしながら、その分キャラの心情を読者が解釈する余地は狭まってしまうので、絵を読み解く楽しみは減ってしまう。

 

「選択授業美容コース」というナレーションがあるおかげでいきなりギャルの顔が出てきても唐突感がなくなっているが、コマを読んでいって「どうやら美容コースを選択したらしいぞ」と徐々に理解していく楽しさはなくなっているし、「ページをめくるといきなりギャルの顔のアップ」という演出の効果も薄まっている。

 

5-3.きい、その話し方

 きいという作家の話し方は非線形だ。過去から未来へと一直線にストーリーを語るときもあるが、順番を並べ替えたり同居させたりもする。そしてそれを説明してくれない。時にマンガのお約束であるコマを読む順番さえ混乱させてくる。だからこそ、読者を惹きつけることもできるが疲れやすくもなる。本章冒頭で述べた結論を言い換えるとこういうことになる。そしてこの傾向はデビュー作からそうだった。

 

瞬間:1% 動作:43.8% 主体:43.8% 場面:2.1% 局面:8.3%

『スプラッシュ』と『といがーる!』はきいの全作品で唯一動作型と主体型が同じ比率である。後者については前者を論じれば事足りるので割愛させていただく。さて、同じ比率であるのは、単に密室(故障したエレベーター)に閉じ込められた男と女のセックスだからだろうか。また場面型が2回、局面型が8回ときいにしてはかなり少ない。おそらく『ビビッてねーし!』を除くとこれ(ら)が一番読みやすいだろう。

 さて本来ならきいの各作品の補完の比率とレビューをしていくべきところだが、紙幅の都合上本記事ではしない。以下では、きいの特徴的なストーリーテリングの表現を2つ紹介したい。それは唐突な時間ジャンプと兼ねページだ。

 

5-3-1.唐突な時間ジャンプ

 『スプラッシュ』はまずヒロインが男の口におしっこするシーンから始まる。そこから時間軸が過去に逆行し、どうしてヒロインがそうするに至ったのかを説明し、ちょうど真ん中の9ページ目で現在に戻ってくる。こうした非線形の語り口はきいの定型の一つだ。最初のシーンは基本的に性行為ではなく、クンニや飲尿、「マンコ舐めさせてください」というセリフなどの性行為一歩手前の行為が描かれる。そうすることで読者の期待感を高め、その後に続くエロで一番退屈な時間であるドラマパートに集中してもらいたいのだろう。

 注目すべきは、時間ジャンプ表現をする際に「のりしろ」を一切使わないことだ。『スプラッシュ』における場面型の2か所を以下に提示する。

 

はてブに性器の絵をそのまま載せると後でめんどくさいかなと思い、断腸の思いで局部を黒塗りした。

1つめのここは、タイトルのある間白の間で時間が過去に跳躍しているのだが、それを説明する要素、例えば「数分前」といったナレーションなどは何もない。次のページをめくりヒロインと男の会話を読んでいくまで過去に時間が跳んだことはわからないのだ。

 



 続く2つ目。過去に遡行した時間軸が冒頭の現在に追いついたページだ。「…ボクは本気ですよ」のコマとその次の間の間白が場面型となる。ヒロインが飲尿を了承したのかしないのかの答えさえ飛ばしていきなり飲尿終わりのシーンまで飛んだ。動作型か主体型でよかった気もするが、間白の幅が広く取られているのと、厳密に1コマ目の時間に戻ってきたわけじゃないことを考慮して場面型に分類した。「あ、そして現在に戻るってことね」と読者の補完が必要なのも理由としてある。

 確かにいちいち「数分前」とか「そして現在」などのナレーションをつけられてもくどい。それに補完する労力も別に大したことはない。だがそれが積み重なると確かな疲れとして現れてくる。

 この過去と現在の往復をより短くそして細かくするのもきいの得意な表現である。映画用語を借りていうなら、フラッシュバックである。

 

同じく性器は黒塗り

 

 これは『放課後バニラ』の「布団の中の宇宙」の15~16ページ目だ。右ページはさほど問題ではない。筆生くんとかなちゃんがいよいよ挿入しちゃうぞというエロいシーンで、全5コマの間白は全て主体型である。問題は左ページだ。このページにはまずもってコマを読む順番がわからないという難しさがあるのだがそれは後述する。今注目してほしいのは唐突に短い回想が挿入されたことだ。「チンコを挿入する瞬間筆生くんの脳裏にとある日の思い出がよぎりましたよ」というシーンを入れることで挿入を盛り上がる効果があるわけだが、回想シーンであることを示す記号は見当たらない。この話は、「『あの』かなちゃんがオレの…!!」といった筆生くんの心の声が実況として要所要所に配置されているのに、ここにはない。余計な説明を入れるよりいきなり提示したほうが読者の感情を揺さぶれるからという戦略だろうが、それとトレードオフで読者に労力がかかるのもまた事実だ。

 

 

挿入した後のページは唐突な時間ジャンプと局面型があり、高度な補完を要求される。

 こうしたフラッシュバックだが、『群青ノイズ』からさらに断片化する。さしずめフラッシュバック・ショットとでもいうべき、1コマ単位にまで細かくなるのだ。

 

 

『群青ノイズ』の「イレギュラー」から宮琵(男)が二篠(女)に挿入したシーンだ。またしても挿入の瞬間、脳裏に在りし日の日常がよぎっている。それが画像の1、4、6コマ目だ。要するに、AVなどでもよくみられる普段の姿とセックスシーンを交互に見せることでギャップを大きくしてエロさを強調する演出のマンガ版に心情描写が織り交ぜられた深いページだ。しかもその普段のシーンがコラージュのように散りばめられているため、その都度、場面型の補完をしなくてはならない。このページは最後の局面型である挿入部のアップのコマを除くと、主体型と場面型の補完を繰り返して読む必要があるのだ。

 

 

最後のコマのセリフはフォントが違っており、「次のページから回想シーンですよ」と示してくれている。珍しい。

 

 

 

 『群青ノイズ』の『つめたい雨、やさしい君』より。2~3ページ目に配置された断片化した時間軸に注目。なお、ここに細かなコマ割りがあることで、4ページにまたがる「圧縮と開放」が実現している。それはコマの大きさに留まらない。2ページ目は全ての間白が場面型で、3ページ目の下半分は読む順番が曖昧だ。4ページ目の美少女が股を広げているあまりにシンプルな絵は、そうした読むストレスからの開放でもある。

 

 

 『不完全マーブル』より『六月の雨の夜に』の1ページ。過去の時点で発話されたセリフがフキダシを重ねるごとに現在のコマに侵出していっており、過去と現在の重なりが演出されている。挿入する瞬間に、過去のある日を脳裏によぎらせるのはきいの得意技なようで、きいは射精よりも挿入の瞬間を重視しているようだ。

 

5-3-2.兼ねページ

 兼ねページは私の造語で、松井の兼ねコマとウィル・アイズナーのフルページフレームから着想を得ている。アイズナーのいうフルページフレームとは、ページを大きな1つのコマとして考える視点である。個々のコマは控えめな存在となり、むしろ全体で1つの統一された時間とリズムをもつページ、それがフルページフレームである。例えば食事をとる男のクローズアップのショットを連続させてリズムをつけつつ、ページ全体で「焦って食事をかきこむシーン」として表現するような(Eisner 1985:63-79)。兼ねページとは端的に言うと、「コマとコマの一対一対応では読めないコマ割り」だ。既述した『布団の中の宇宙』のコマ割りがそうだ。

 

 

 このページは2段に分かれている。1~6コマ目と7~9コマ目だ。後者の方はさておき、前者は複雑だ。すぐ目に入る筆生くんがかなちゃんの尻を見ているコマは2コマ目だ。1コマ目の上に2~6コマ目が載っていて、それらの読み順は一直線ではない。「筆生くんがかなちゃんの尻を見ていたらかなちゃんと目が合い恥ずかしくて目を逸らした」というシンプルな内容だが、1コマ目の立ち姿を参照しながら2~6コマ目を読まないといけない。まるで多項式を同類項のxでまとめるように、1コマ目のかなちゃんの後ろ姿は2コマ目だけでなくそれ以降のコマに干渉し続けている。かなちゃんの目線が少し右を向ている、つまり2コマ目の筆生くんを見ているおかげで、わざわざ俯瞰の絵を描かなくても2人の位置関係がわかる。4コマ目の尻は3コマ目からの主体型であると同時に、1コマ目からの局面型でもある。5コマ目もまた4コマ目からの主体型であると同時に1コマ目からの局面型でもある。1→6へと直線で読むと同時に、1コマ目もチラチラ見ていかないといけない。そうしなくても別に内容はわかるが、それではこのコマ割りが持つ空間表現や、実際は一瞬であるこの動作をあえて間延びさせて強調した時間表現は味わえない。これが兼ねページだ。

 兼ねページとは要するに、通常の読みの順番をあえて違反することで読者にそのシーンをより印象付ける戦法だ。同じくすでに提示した『つめたい雨、やさしい君』のこのシーンもそうだ。

 

 

 このページは9コマで構成されているが、実質6コマだ。6~9コマ目は一応分かれているもののほとんど同時に起きているからだ。と認識すること自体がこの兼ねページの機能を示している。このコマを見た人の中で番号通りに目を運べた人は少ないはずだ。5コマ目を見た後すぐ目が行くのは9コマ目であり、その後「どこから読んでいくんだ?」と目線を左右させて6、7,8コマ目を読んだ。あなたもそうではなかっただろうか。だからこそこの6~9コマ目が同時に目に入ってきたのであり、描かれた一連の動作の同時性が演出されている。そして左右させた分恥ずかしがる十美坂の姿を何回も見ることになり、より強く印象付けられる。

 

 

 『不完全マーブル』の『あきらちゃんはどうしてもチンチンを舐めたい』より、あきらちゃんがチンチンを舐めたくて睡眠不足になっているシーンだ。これも先述の『布団の中の宇宙』と同じく、あきらちゃんのぶち抜きが同類項xの働きをしている。寝不足で歯を磨くあきらちゃんの立ち姿は、各段の出来事のオチとなるよう配置されている。こうすることによってあきらちゃんの寝不足が4~6コマ目の日だけではなくなる。1~2コマ目、4~6コマ目、7~10コマ目の3シーンそれぞれの日々で寝不足が続いてることが表現できるのだ。

 兼ねページとは種類が異なるが、ここで紹介しておきたいコマ割りがある。『放課後バニラ』の『ソルトペッパーチョコレート』より、成迫が士緒屋さんにバックから挿入したシーンだ(隣の黒髪の少女は王畝さん)。

 

 特筆すべきは下半分の6コマだ。このコマ割りは通常の読みと同時に縦方向にも読むことができる。その要因は、1つには均等な大きさで4コマ漫画ぽいからなのと、もう1つは、顔から尻へと主体型の補完をするより顔→顔または尻→尻へと瞬間型の補完をした方が楽だからである。これにより同時進行であることがより演出されている。こうしたコマ割りの持つ効果をマクラウドのマンガ論では捉えきれないからといって無視するわけにもいかず、悩んだ結果このコマ割りのみ例外として9補完として数えた。だから『ソルトペッパーチョコレート』のみコマ数より補完数の方が多い。

 

コマ読みの順番。上から下に流れる4つの赤い矢印が例外的な読み。

 

 きいという作家の話し方はこのように非線形的だ。本記事では割愛したが、このようにダイナミックなかたちではないにせよ、唐突な時間ジャンプ表現や読みの順番を混乱させる演出はきいのエロマンガではよく見られる。だが、快楽天7月号の『フリーライド』や『宵に憧る』にも同様の演出はあるので、これらがきいの専売特許というわけではない。ただ挿入シーンでとある日のことが脳裏によぎる演出は、管見の限りきいだけだと思う。

 きいの傾向として、単行本を重ねるごとに全体のコマ数が増えており、そして局面型のコマが増えた。それはきいの技術が上がっているということであり、裏を返せばそれだけ読みのハードルが上がっているということだ。描かれた美少女の裸にも様々なニュアンスが込められているので、それらを細かく読み解こうとすればするほど、ヌきにくくなる。労力がかかって疲れるからだ。だがそれは読者の方がアオハル系のラブコメを読むなどして訓練していけば解決する問題ではある。あるいは私という人間がキャラの表情や動作、断片的なセリフからニュアンスを察するのが苦手なだけかもしれない。マンガは作品を介した読者と作者の視覚的コミュニケーションなので、実際のコミュニケーションと同じく、齟齬を片方の責任にすることはできない。

 あるいはいっそのこと、読まないという選択肢もある。きいの描く可愛くてエロい美少女たちをファッション雑誌のようにパラパラと眺めるというある意味エロを見る際の「普通の」読み方をすれば、そもそも補完をしないのだから疲れるも何もない。それもまた読者の自由だし、嫌々参加した飲み会なんかで上っ面だけ合わせるために私も時々そうする。

 

 

6.おわりに

 以上、本記事ではマンガ論をもとにきいのエロマンガについて分析し比較検討することで、きいに特徴的な表現について論じた。

 冒頭の『日陰の詩』のひなたちゃんのぶちぬきで私の目が滑った理由を本記事に即して述べるなら、「前後のコマとの関係がわからず、またぶち抜きなのに同類項としても機能していないため、どう補完していいかわからなくなった」となる。しかしながら、当該のコマは、照れと積極性が合わさったひなたちゃんの可愛い立ち姿を表現したもののはずだ。そうしたコマの絵自体の美しさを捨象してしまったのが本記事の、そしてそういった要素を重視して読まない私という読者の限界である。

 また圧縮と開放まで手が回らなかったことに関連するが、「きいは作品のクライマックスを女の子に受け入れられた瞬間に設定している」という新野の指摘を活かすことができなかった。その他、フキダシの機能についても分析できなかった。これらは今後の課題にするとして、そもそもマクラウド論は研究として使うに値するのかという問題もある。まあ、これからそれこそ補完していけば何とかなるだろ、うん。

 あるエロマンガがヌけるヌけないかは個人的なレベルでは慣れの問題だ。本記事があなたの新たな扉を開くキーとならんことを。

 

 今回分析対象とした全作品の間白の比率とそのレビューは、近いうちに記事にします。お楽しみに。

 

 

 

 

参考文献

新野安(2022)「不完全マーブル」,p148.新野安,氷上絢一編著『エロマンガベスト100+』三才ブックス

EISNER, Will(1985)『COMICS & SEQUENTIAL ART』Poorhouse Press.

McCLOUD,Scott(1993)『UNDERSTANDING COMICS』Kitchen Sink Press.(=岡田斗司夫訳(1998)『マンガ学』美術出版社)

田切博(2003)「スコット・マクラウドのマンガ『再生論』」,p56-59. 小野耕世, 小田切博編『別冊本とコンピューター6 アメリカンコミックス最前線』トランスアート.

高橋明彦(2003)「楳図かずおのコマ割り理論」,p100-50『金沢美術工芸大学紀要 48』金沢工芸大学.

吉村和真, 藤澤和子, 都留泰作編著(2018)『障害のある人たちに向けたLLマンガへの招待―はたして「マンガはわかりやすい」のか』樹村房.

*1:

  • ①略画表現を使わない(二頭身のデフォルメなどのこと)
  • 漫符の使用を控える(キャラが絶句したときなどに顔に入る縦線のこと)
  • ③単純なコマ割りを心がける。
  • ④時系列に沿った、丁寧な展開を心がける
  • ⑤パターン化したマンガ的な比喩表現をできるだけ避ける
  • ⑥コマごとの情報量を減らし、セリフ表現の文章は短く端的に、絵は見やすく。
  • ⑦ナレーションの使用は避ける(「突然キャラと違う人が喋りだした」、「主人公がストーリーと関係ないことを話し出してわけがわからない」などととらえられる恐れがある)
  • ⑧ぶち抜き、変形ゴマ、複数のシーンを同一コマで重ねる仕様は避ける
  • 吹き出しとキャラクターの位置関係は明確に
  • ⑩キャラクターの立ち位置を固定する(イマジナリーラインを固定するということ。左側に立った人物は、カメラ位置を変えてもずっと左に立たせる)
  • ⑪視点の交錯を避ける(カットバック的手法を使わない)
  • ⑫上記以外でも何らかの形で読者に「解釈」を要求するような表現には配慮する 

 ちなみに⑨、⑩、⑪の3つを守らないとそれは「高度な漫画的演出技法」になる(都留 2018 : 92)。

*2:ゲシュタルト心理学から借りたであろうこの用語は本来「閉合」と訳すのが忠実なはずだが、岡田斗司夫は補完と訳しているし確かに補完のほうが字面で理解しやすいので、本記事も補完で統一する。

*3:1と2のような白だけのコマが夏目のいう空白コマだ。また、3→4→5と局面型が続くのは、この3つが同時進行だと解釈したからである