小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』を読む⑤

 ウィル・アイズナーがマンガについて論じた『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』。その文献紹介も今回で最後となります。

 今回扱うのは第7章と第8章。どちらもマンガ表現それ自体を扱うことはなく、第7章は社会におけるマンガの使用について、第8章は本書のまとめとマンガの未来について論じている。

 

7章 APPLICATION(The Use of Sequential Art)

インストラクション・コミック

 コミックには2つの機能がある。エンターテインメントとインストラクションだ。これまで論じてきた、そして無意識的に私たちが前提としてきたのがエンターテインメント、つまりアクション主体のコミックだ。それについて軽くおさらいしつつここで新たにアイズナーが論じるのが、当時揺籃期だったグラフィックノベルというジャンルだ。これは、歴史的に無教養なものとされてきたシーケンシャルアートで深い物語を描いていこうという挑戦だと、このジャンルの第一人者であるアイズナーは言っている。

 一方インストラクション・コミックは読んで楽しいというよりはもっと実用的な用途のマンガだ。エンターテイメントの方がマンガだと思っていると、こちらも実は世の中にたくさんあることに気づかない。アイズナーによれば、テクニカルとアティチューディナルの2種類に下位区分できるという。

 テクニカルなインストラクション・コミックとは装置の組み立てとかの手順書のことだ。なので読者が描かれたものを簡単に理解できるかどうかがこのアートの成否の基準となる。

 アティチューディナルは求人募集の広告が相当する。こちらの場合仕事への意欲を喚起するかどうかが肝となる。写真とは異なり描かれたものが大きく一般化されているのが特徴だ。

ストーリーボード

 7章で娯楽/指導的なコミックのほかに、ストーリーボードと呼ばれるものにも触れている。いわゆる絵コンテで、映画やCMといった映像作品を撮影する際、大筋をビジュアルとして共有するためのものである。

 文字だけで構成された脚本と映像には、形態と工程の双方でかなりの距離がある。二者のあいだを埋めるストーリーボードは、一瞬間を切り取る絵の連続体という点で、コミックと類似性が認められる。

 アイズナーがいうには、執筆された1985年当時、映画関係者によるマンガ家の起用がブームになっていたらしい。管見の限り日本ではそのような動きはない*1ので、興味深い現象ではある。とはいえ、マンガ家が絵コンテを切ることはメジャーになっていない事実から、アイズナーが言うような相同性はなく、むしろ表層のレベルで両者は似通っていたというべきなのかもしれない。

8章 TEACHING/LEARNING Sequential Art for Comics IN THE PRINT AND COMPUTER ERA

 本章には2つのテーマがある。章タイトル前半のTeaching/learningと後半のthe print and computer eraだ。この2つには、後者が前者に影響するという関係がある。

 まず、コミックは複製を前提に作られるメディアなので、技術を使う場面が多くひらめきを活かす場面は少ないとアイズナーはいう。そして、この技術の方(知識の活用や描画ツールを扱う能力)は教えることができるものだ。コミックはストーリーを伝えるものなので、リアルなイメージを扱う。また、ストーリーには広範な学問が関与している。これらについて事実と情報をたくさんインプットしておかなければならない。

 そう述べた後、アイズナーは人体や物、現象の描き方についてコツを教えてくれている。興味のある方は原典を読んでみてください。

コンピュータとコミック

 原著が執筆された1980年代、すでにマンガの制作過程にもデジタルデバイスの導入が始まっていた。アイズナーは新たな機器の利用による変化を、技術と成果=マンガの両側面から言及している。

 複製技術を用いているという点で、すでにマンガは完全なオーダーメイドではなく、レディメイドの側面を有しているが、とはいえ制作では職人芸に依存する部分も多分に認められた。しかし、電子媒体を利用すると、求められる技量が軽減されうる。たとえば線画への色付け作業は、複数のレイヤーに分けることでミスを回避できるし、プログラムを介して手作業よりも楽に実行できる。当時は通信速度や解像度といった技術的障壁により低質とならざるをえない出力についても、改善すればより詳細に表現できると予見している。

 成果物であるマンガへの変化にも、簡便であるものの触れている。意図するストーリーを読者へ伝えるために行われるコマの配置についてはすでに触れていたが、その配置が変化する可能性があるという。たとえば、コマひとつひとつがスクリーン全体へと移されうるとアイズナーは提示する。そうなった場合、キャラクターの佇まいやジェスチャーはすぐに理解されるべく、より明瞭にする必要性が生じる。コマの配置による方向づけが機能しなくなるためである。コマを理解するために要された時間も圧縮され、結果的に一コマあたりに用いられる時間は短くなる。ようするに、マンガによる作者と読者のコミュニケーションが大きく変質する可能性を、アイズナーは予期していたといえよう。

コンピューターと作家の個性

 繰り返すが、コミックは複製されて世に出るものだ。なので、その複製の方法に作品が規定される側面もある。アイズナーによると、初期のコミックストリップが単純な黒線で描かれていたのは、当時の新聞や雑誌の印刷方法や使われる紙が粗かったからだという。繊細な線を紙に乗せるには、印刷技術の発展を待たなければならなかった。

 印刷技術が向上すれば、コミックの描画の幅も広がっていく。だがアイズナーは、技術が変わろうとコミックは線の芸術のままだから、アーティストは線について考え続けるべきだと結論づけている。それは線が言語としてのイメージを使うにあたってとても有用だからだが、他方で彼は線に特別なこだわりがあるようで、「カリカリ感(crispness)」があると表現している。結局のところ、描いてて楽しいのだろう。

 アーティストのスタイル(個性と言い換えていい)とは、ある種の不完全さであるとアイズナーはいう。テクノロジーはアーティストができることを広げてくれもするが、同時にこのスタイルに挑戦してもくる。電子媒体を使えば、完璧なパースで正しいデッサンで何千色もの色が自動で塗られたコミックが簡単に描けるが、それは他の人も同じことだ。そうなったとき、アーティストはマシンの操作を超えて、特異で、スタイルのある、不完全に個性的なイメージを生み出さなくてはならなくなる。そして、今まで見てきた通り、シーケンシャルアートの個性とは、アイデアを生成してナラティブのスタイルに習熟することだ。

 

アペンディクス

10nies

 最終章で顕著だったが、本書はマンガ研究というより、学術的な姿勢でマンガの執筆を戦略的に進めるためにはどうすればよいかを説いた指南書の色彩が濃い。そのため、本書の記述内容を研究へそのまま動員させるのは、個人的に留保したい。

 本書の基本方針はマンガ家のねらい、すなわちイラスト、セリフ、コマ等々によって表されたストーリーやキャラクターの心象を、読者に理解してもらうための技術の解析・解説である。純粋に鑑賞者となる研究者を含む読者が本書の技術を、あたかも学問の諸概念のごとく用いたとして、その営みは具体化されたマンガ家のねらいを、再度抽象的な相へ戻して語ることとなり、身も蓋もない物言いをすると小難しい換言活動にしかならない。

 以前の記事ではまさしくそのようなコメントを残しているため、厚顔にも程がある放言でしかないが、自戒を込めていうと、読者が仮に何か発言を残すのであれば、与えられたテクストにおいて、作品をかたちづくる言説の内容や内容から読み解けるキャラクターの関係を分析し、客観性の高い、つまり読者の多数が了解しあえる事実をふまえたうえで、読解においてどうしようもなく差しはさまれる鑑賞する自己が、どのように作品を受容したのかを述べることが、「誠実」な読みであるように私は思う。

 作者の意図やクリエイターのノウハウを金枝玉葉として、それらを用いたパラフレーズによる不正解ではないが答えも特段提出しない読みも、ジャーゴンや論理の飛躍を許容できる身内でしか通じない解釈を内輪だけのドグマとする読みも、元をたどれば作品と作品の鑑賞から生じている。仮に言及において用いるならば、本書はテクストの内容に対する認識を一致させる共同作業の水先案内人で、各々の解釈は向こう岸にたどりついてから行われる作業である。焦って水へ飛び込んだり、異なる陸地を読解のパンゲアだと勘違いしたりしないようにするのは、多様な読みを受け入れる基本前提であり、本書はその味方となるだろう。

 

ぽわとりぃぬ

 第7章が当時の今の話だとしたら、第8章は未来の展望と初心者へのエールという風にまとめられるだろう。デジタル作画がどれだけマンガを簡単にさせたかは、確かに塗りや背景のオブジェクトを見たり、神絵師の低年齢化などを思い出せばそうかとも思う。

 ただデジタル作画はアイズナーが「ボタン一押しで」と言うほど簡単ではない。絵が下手な人が液タブを使ったって、下手なキャラがやたら写実的な背景に浮かんでいるだけになってしまうので、結局技術の習得は欠かせない。現代の漫画家は、コピックの塗りに悩まなくなった代わりに、たくさん作ったレイヤーのどれが一番いいかに悩むようになったのではないか。

 そう考えると、現代のマンガにおける個性というのは、たくさんある描き方から特定のものを選ぶことなのかもしれない。あえてGペンしか使わないのもよし、背景は全部写真にするもよし、AIで作るもよし。アイズナーの最後のメッセージは私には懐古主義に感じた。

 最後に、第7章の業績として、私はインストラクションコミックという概念の提示を強調したい。漫画といえばアクションの商業コミックであるという思い込みを解いたことの意義は大きい。政府からのお知らせや学研マンガ、風俗レポなど我々は思った以上に漫画に囲まれている。この視点はきっと漫画文化を考えるうえで新たな地平を拓くだろう。

*1:マンガ家が映画監督を担うような例はあるが、それは絵コンテとマンガが似通っているからというより、クリエイティビティが求められる仕事として一緒くたにされているからだろう