小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』を読む③

はじめに

 前回に引き続きウィル・アイズナーの『コミックス・アンド・シーケンシャルアート(Comics & Sequential Art)』を読んでいく。

 

sho-gaku.hatenablog.jp

 

 3回目となる今回は第4章「FRAME」だ。本章で扱われるのはコマ割りとパースペクティブである。前回、時間表現に関連して論じられたコマ割りだが、ここではもっと具体的に画面作りの話が展開される。

 コマ割りは時間を縁取るだけではない。イメージの動きを分節化するもので、そこには思考、アイデア、アクション、位置、対話という幅広い要素が内包されている。これに対面した際のプロセスは分析ではなく、認知的、知覚的、視覚的な非言語レベルの読みであるとアイズナーは言う。chapter 2のp.13でアイズナーはコミックをゲシュタルトだと表現したが、本章でもその発想が垣間見える。彼にとってコミックとは細かく観察するものではないのだろう。

 シーケンシャルアーティストの仕事とは、読者がアクションを補完できるようにコマの絵を連続させていくことだ。コマは計算よりもむしろ創造的に割るものだとアイズナーは言う。以下、コマとコマ割りの機能について見ていこう。

 

制御媒体としてのコマ

 制御とは読者の関心を語りに集中させることだ。映画であれば制作者の見せたい順に画を見せれるのだからこの制御は絶対的だ。だがコミックはそうではない。ページをめくるくらいしか技術的な制御はなく、それがあってもページ最後のコマから読まれることもある。

 なので、コミックの制御は読者からの自主的な協力があって成立する。左から右、上から下、認識の共通などの読みのルールを読者が守ってくれるから、マンガの語りは成立する。このようにアーティストと観衆の間で密約が交わされるのはコミックに特有だが、読者がしてくれるのはこの3つくらいだとアイズナーは言う。

 そしてコミック側の制御装置となるのがフレームである。ここでいうフレームには1コマとページ全体の2つの意味がある。まずは1コマの方からみていこう。

 

コマを作る

 まずはコマの作り方を見ていこう。コマは、①語りに必要な要素の選択、②カメラ位置の選択、③各要素をどのように収めるかの決定、の3ステップを経て作られる。コマそれぞれは、ナラティブの流れに位置すると同時に、デザインでもある。

 フレーム内に描かれた要素が部分的(頭だけのクローズアップとか)であるほど、読者は全体を頭の中で補完するために知識や想像が必要になるが、作者が力不足だと誤解を与えてしまう。ちなみにアイズナー曰く、コマ作りのプロセスの多くは作者の直感・感情でなされているという。

 さて、コマを作るうえでの優先順位についてもアイズナーは言及している。まず第一にアクションをフレームすること。つまりは前回のタイミングで、①のステップに当たる。次の②はパースペクティブを考えて各要素を配置することと言い換えられるのだが、この時主に考えるべきはナラティブの流れとスタンダードな読みの慣習である。要するに各コマに何を描くかは、前後の文脈や右上から左下に読むというマンガのルールも考慮して決定される。そして最後にムードや細部の装飾がくる。

 

パースペクティブ

 コマの中に何を描くかの話としてアイズナーはパースペクティブについて言及している。アイズナーのいうパースペクティブは透視図法ではなく、カメラアングルと言い換えたほうが意味が通る。

 パースペクティブの主要な機能は、読者にコマ内のキャラやオブジェクトの相互関係を理解させること、読者に様々な感情を生じさせることの2つであるとアイズナーはいう。そして後者について、彼は具体例を示しながら展開する。例えば上からの視点、鳥の目のような見下ろす視点は観察者的な他人事の感覚を読者に与える。逆に下からの視点(アイズナーは「虫の目」と呼ぶ)は、恐怖の感覚を与える。

 こうしたパースペクティブはコマの形と合わせることで促進できるとアイズナーはいう。例えば下からの視点のときは縦長のコマにした方が威圧感がよく出る。

 

色々な形のコマ

 アイズナー曰く、そもそもコマが実行(act)するのは読者の視点以外の何物でもない。たとえば、新聞の四コママンガはコマの形が長方形あるいは正方形に定まっており、そのなかで描かれる本編を読むということは、マンガを読む行為のみならず、マンガの読解に付随する作品世界を読む視点の設定につながる。

 しかし、私たちがふだん読んでいるマンガでは、さまざまな形のコマに出会い、そして無意識にそれらを「読んでいる」。まさしく、コマの線(border)自体が非言語的言語として用いられているのである(p.44)。

 例えば、四角いコマは、ナレーション等で明記されていない限り、コマ内の出来事は現在時制となる。一方でコマ枠が波型や雲形のときは、過去を表す。ただしこれは各地の慣習に左右される。日本の場合は、間白を黒く塗りつぶすのが過去の出来事を示す合図だ。

 コマが一断片ではなく、筋書きに関わる場合もある(pp.46-48)。単にアクションを縁取るだけではなく、アクションの音や温度、感情を伝えるのだ。ギザギザのコマは感情の爆発を伝えるし、縦長のコマは高さを伝える。あるいはコマ枠からキャラがはみ出ることで、力強さと威圧感が演出できる。

 コマ枠という概念を拡張し、枠線でないコマ枠というものもアイズナーは提示している。彼が構造支持体(structual support)と呼んだそれは、枝や窓枠、床に空いた穴といった物語上のセットのことだ。こうした枠の中に描くものをそのまま枠に使うことで読者の関心を引くことができる。

 

ページというコマ

 最初の一ページ目は導入として機能する。この機能を上手く使えれば、読者の関心を引くことができ、読んでもらえる。アイズナーは最初の一ページ目について、ナラティブの発射台、ストーリーの準拠枠であるとその重要性を強く説いている。一ページ目が上手く描けるかどうかはその後のストーリーの出来を左右するのであり、そうしたページのことをアイズナーは「スプラッシュページ」と呼んでいる。読者をのめりこませるスプラッシュページと単なる最初のページを分けるのは、ページ全体が一つの装飾的なまとまり(decorative unit)としてデザインされているかどうかだという。アイズナーはこれ以上説明をしてくれていないが、本書に掲載されている具体例もふまえて考えるに、ページ全体に工夫が凝らされていて、かつその後の展開がなんとなく予想でき、そして視覚的に楽しいページのことだろう。

 このような一つのコマとして機能するページは最初だけではない。コマとして分割されてはいるものの、全体で大きなフレームを形作っているページをアイズナーは「フルページフレーム」と呼んだ。例えば、食事をとる男性のクローズアップ・ショットを連続して配置し、「焦って食事をしている」ことをページ全体で表現するような。「フルページフレーム」を描く際は、ページごとにアクションを均等に分ける必要はなく、またリズムと時間はページごとに違っていてもいい。

 

リアリズムとパースペクティブ

 最後にアイズナーはコミックを描く際の葛藤について話をしている。それは、リアルさと絵のどちらを優先するかという問題である。アイズナーは、コミックは現実体験を模倣する表象芸術であるという。そのためアーティストはデザインの効果とストーリーの都合のどちらを優先すべきかという問題にしばしば直面する。直面するといっても、コミックは読者の目を引かなくてはならないので、優先されるべきは絵のインパクトであり、結果としてストーリーの完璧さは失われる。つまりストーリーはグラフィックに従属しているのであり、コミックは結局グラフィックな媒体であるとアイズナーはいう。作と絵が別々でかつ同格の場合、作画担当が見事な絵を描いてストーリーが損なわれるのは不可抗力で、ときにはこの2つが無関係になることさえあるそうだ。

 

アペンディクス

10nies

 コマ割りによって読者の視点を変化させることで、作者が彼らの役割をも操作するという指摘は興味深かった。読者は場景を見る角度によって、参加者にも観察者にもなりうるというのだ。ただし、これはあくまでもマンガの制作過程における技術であって、読者自身の自認する役割と一致しているか否かは、判断を待たねばなるまい。

 ここで立ちあらわれるのは、マンガにおける存在論的および認識論的な関心の相違だと私は思った。すなわち、前者はコマ割りや描写という読解によって変化しない物質が読書体験に与える作用に着目しており、後者はテクストに対する反応という精神上の可変的な作用へ照準している。

 これらは相反するトピックスではなく、むしろ相補的に検討する必要がある。作品世界は虚構としても、なんらかの媒体で描出される内容は現実そのものといえる。女性キャラクターが好意を持つ男性キャラクターとの恋仲が実現できなかった、という一連の出来事は、活字やイラストよりも先に(フィクションとはいえ)現前している。それをどう描くか、描かれる際に媒体特有の傾向や技法があるのか、この点に触れてもよいと気付かされた。仮に人間関係のみを追うのなら、作品形態はどうでもよいはずだ。だが、その態度はあまりにも多くのものを見落としているのではないか。この問題意識を抱いて、マンガへの読みに活かしたい。

 

ぽわとりぃぬ

 本章ではコマ割りをテーマに、コマの割り方、カメラ位置(パースペクティブ)の効果、ページという単位での画面設計について論じられた。コマの割り方やカメラ位置の話は日本のマンガ教則本にも載っていそうだが、ページを1つの単位としてみる発想は私は初めて見た。「フルページフレーム」はかなりの高等テクニックのように思う。

 さて、本章において議論を呼びそうなのは最後の部分だろう。マンガにおいてストーリーと絵のどちらを優先するのかについてアイズナーは絵が優先されると言っている。それはいいとして、「ライターと作画が同格の場合、絵が優先される」とまで言っているところが気になった。ストーリーと絵の優劣は作者同士の力関係で決まる政治的な問題なのだろうか。推理ものなら絵よりストーリーが優先され、アクションやギャグならその逆になるという話かと思っていたので、疑問が残った。