小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

ウィル・アイズナー『コミックス・アンド・シーケンシャルアート』を読む①

 はじめに

 小文化学会では特に方針を定めず、会員がめいめい好きな事柄について筆を運んでいる。打ち合わせも特にない自由な空間で、だいたいの寄稿者が1度は焦点をあてているジャンル、それがマンガだ。おのずと手が伸びるほど読みなれているが、それゆえにマンガの分析は想像以上に難しい。

 アメリカン・コミックス界の巨匠、ウィル・アイズナーが1985年に著した『コミックス・アンド・シーケンシャルアート(Comics & Sequential Art)』は、アメコミを対象としたコミック研究の古典である。氾濫する解釈の渦へ身を投げだすまえに、古典の本扉を開いてみるのもひとつの手だろう。ひとまず今回は、1章と2章に目を通していきたい。

 シーケンシャルアートとは?

 Sequential Art――逐語訳すれば連続的芸術は、アイズナーの造語である。デザイン、線画(Drawing)、カリカチュア、筆記(Writing)を必須の4要素とし、現代においてはマンガがその代表格となっている。20世紀の大衆文化で疑いようのない立ち位置を築いたシーケンシャルアートは、批評的にも創作的にも熟考に値するものでありながら、本書が執筆された当時は、学術的にはおおむね無視されていた。かかる状況に対して、アイズナーは絵や言葉の一部だけを切りぬくのではなく、マンガをマンガのまま考察する姿勢を掲げる。

 アメリカで1934年に初のマンガが出版*1されてから、連続的芸術の語彙は発展を続けてきた。なお、アイズナーが言うマンガの「語彙」には言葉以外も含まれる。アイズナーにとってマンガは文学のように「読む」ことができるものである。このスタンスは本書全体に通底しており、語彙とは絵、細かく言うと人物や風景、オブジェクト、効果線などである。つまり、マンガは言葉と絵のモンタージュを「読む」ものなのである。

 この語彙が規律だって用いられると、文法となる。本書はさまざまな文法を、アイズナーお手製の実例*2に沿って解説する形式をとっている。

 また、マンガは単に描かれるだけで完成とはならない。それは筆者と読者の共通体験に依るもので、マンガに慣れ親しんだ読者であれば、絵と文字の混合物であるマンガをたやすく理解し、かつ文学作品に通じるテクストの解読が期待される。筆者が技能を磨いたのはいうまでもないが、読者の練度も無意識のうちに高められてきた。

 

 イメージを「読む」

 アイズナーはマンガに代表される連続的芸術*3を語る際、制作と受容の各段階において二者の構成要素を挙げている。後者は既述のとおり、作者と読者である。前者が絵と文字であることもすでに触れているが、アイズナーは一歩踏みこんで、視覚的特徴を帯びる文字を示す。字体を変えることにより雰囲気や語り口が変化する。場面に応じたフォントを使うと、作品をもって書き手が伝えようとするイメージが、読者へより伝わりやすくなる。

 形態の定まっている文字がさまざまな書体へ自由に変化するのとは反対に、特定の図像を原型として、筆者が展開させる多様なポーズをマンガのなかでは確認できる。特定の所作や事物を抽象化したヒエログリフや漢字とは逆の流れを成して、マンガで描かれるポージングは基本的なシンボルから派生していく。たとえ同じポーズだったとしても、背景や他の登場人物との関係によって意味合いは変わってくる。このような熟達した操作によって、作者はより強くメッセージを伝えることができる。

 「操作」次第ではマンガにセリフは必要ではなくなる。アイズナーが数ページにわたり載せている例では、手紙の文面以外に文字は出てこない。代わりに記号やフキダシ内のイラスト、効果線が作品を理解可能なものにさせる。マンガをとおして見出せる連続的芸術の特徴とは、限られたページとコマで現実世界の事象や感情をシミュレートする巧みな技術といえよう。

 

 筆者と読者をつなぐもの

 このように、アイズナーはマンガが読解されうるテクストと化す過程で動員される数々の技巧を説く*4。いっぽうで、アイズナーは作者と読者が生活経験に対して有するべき共通性も重んじている。

 アイズナーによればマンガはコミュニケーションである。マンガは作者のイメージを読者に伝達する媒介といえる。この伝達を成功させるために必要なのが生活経験についての共通性である。作者は自分が伝えたいメッセージや感情を読者に想起、追体験してほしいわけなのだから、作者は読者と生活経験に対する認識を理解しておく必要がある。

 文中における上記の提言は、やや立ち入った書きかたをしているようにも思える。「イメージの理解は経験の共通性を求める。もしメッセージを把握されるようにするのであれば、作者は読者の人生経験の理解が要求される」(p.13)。作品を読解する読者が準拠する各自の経験を知ることで、作者はようやく理解可能な連続的芸術にとりかかることができる。

 表現を洗練させると、それだけ具体的な情報量が減る。そうなると読者にはより高度な読みのスキルが要求される。一方、記号と呼びうるほどの描画になってもなお、読者へ負荷を与えないためには、普遍的な経験と具な観察が作者に必要となる。デフォルメされた図像は、読み手にとっては単純だが書き手にとっては非常に技量が要求される。相手=読者の立場に立って、どう理解するかを理解しなければならないからである。マンガは描くのも読むのも、いざ考えをめぐらせるといかようにも複雑になっていく。

 

 アペンディクス――私見など

・10nies

 以上、マンガをはじめとする連続的芸術の分析の断章に目を通してみた。テクニック、作品解釈のどちらにも偏ることなく、読解されるテクストとしてのマンガを総体的に捉えんとする試みは、2020年代に突入した現代からすると、コモンセンスをもったいぶっているようにも思えるが、それだけ強固な土台といえる。

 しかし、アイズナーの言葉は歯切れがいいからこそ、疑義も解消されずに内包されている。アイズナーが重視している経験(への理解)とは、何を指すのだろうか。キャラクターの行為か、感情か、彼らの描きかたか、それとも読者自身の体験なのか、はたまた読書体験なのか。一読したところ、ここで掲げたものすべてが該当すると感じる。

 それぞれの経験への理解をマンガ制作に要請する主張は、連続的芸術の網羅的把握を達成する際、経由する必要がありそうだ。実際、それらに気を配っているがゆえに、本書に納得させられる点は大いにある。だが、あまりにも多くの「経験」に配慮するあまり、指示するものが曖昧になっている。読者の生活経験を悉皆知ることは、素朴に考えれば不可能だ。仮にやや曲解して人生経験にもとづく読解という経験に対する先んじた理解は、まだ可能といえるかもしれない。だが、それは純粋な経験ではない。

 実のところ、アイズナーが前提とした経験の共通性こそが、マンガの分析では話しあわれる必要のあるトピックではないだろうか。かかる議論を可能とする実践的な分析という点でアイズナーは確かな知識を産生した。スキルを引き受けてどのような読解を進めていくか、後章を読みながら熟考していきたい。

 

・ぽわとりぃぬ

 このたびアメコミ研究の古典を読んでいくことにした。マンガをマンガのまま研究するという本書の目標には期待が持てたし、紹介されている具体的な描写テクニックも参考になる。一方でいくつか疑問がわいた。1つには10niesさんも指摘している「経験の共通性」の曖昧さだ。作者と読者の間に共通する経験がないとメッセージが伝わらないというが、ではその経験とはどの程度のものなのか。大正時代に鬼を剣で倒した経験など、『鬼滅の刃』に熱中した人の誰も持っていないだろう。ならば、もっと断片的、抽象的な「仲間と何かを成し遂げる」、「愛する人のために闘う」といった次元の経験なのだろうか。もっと根本的にいうと、そもそも絵をコミュニケーションの媒体と考えるのは一面的で単純ではないか。女の裸やきれいな風景など、絵そのものが持ついまいち言語化しにくい魅力という側面が軽視されている。

 もう1つは、文字と絵の関係だ。マンガは言葉と絵の両方を読むものとアイズナーは言うが、言葉については言及が部分的だ。レタリングについては触れられていたものの、セリフ回しについてはない。それどころか、セリフなしでもマンガは成立すると言うことさえあった。直接明言はしていないものの、やはり絵が中心で言葉は周縁なのだろうか。別にそれでもいいんだが、両方を読むといったのだから言葉と絵のコンビネーションに言及してほしかった。

*1:p.7より。アイズナーの記述に従うもので、別個の検証はしていないことを注意されたい

*2:アイズナーはマンガ研究よりも、数々のヒット作を手掛けたことで高名なマンガ家である

*3:他のジャンルではグラフィックノベルが例示されていた

*4:注を伴った実例が多いので、いささか粗雑となった次第をお許しいただきたい