小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

瞬間、ハンタ読者の脳内に溢れ出した、存在しない記憶

東堂葵 16歳 冬

 己の肉体と術式に限界を感じ、悩みに悩み抜いた結果、彼がたどり着いたのは、一日一万回、感謝の拍手であった。

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元ネタのネテロ会長の修行シーン

 このナレーションはHUNTER×HUNTERのネテロ会長の修行シーンを文字ったものである。

 呪術廻戦 第132話の東堂葵の「腕なんて飾りさ 拍手とは魂の喝采!!」というシーンを見た瞬間に私の脳内で走馬灯のように上記のナレーションが流れた。

 東堂葵が言い放ったその台詞から、HUNTER×HUNTERのネテロ会長の「祈りとは心の所作」という台詞を想起し、結果、東堂葵がネテロ会長のように修行している存在しないシーンが脳内に流れたのだ。

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呪術廻戦 拍手とは魂の喝采

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HUNTER×HUNTER 祈りとは心の所作

  奇しくも、東堂葵とネテロ会長には複数の共通点がある。東堂葵は拍手をすることで、ネテロ会長は両手を合わせて祈ることで、能力が発動する。さらに、二人とも強敵との戦いの中で左腕を失うという、彼らの能力にとって致命的なダメージを負ってしまう。そして、左腕を失った直後の、両腕が無くとも能力は使えるのだという二人の宣言こそが「拍手とは魂の喝采」と「祈りとは心の所作」なのである。
 訂正しよう。これらの共通点は“奇しくも”、偶然に生まれたわけではないはずだ。呪術廻戦の作者である芥見下々は、このシーンで明らかにHUNTER×HUNTERのネテロ会長を意識していただろう。もちろん、一読者である私には制作過程に関する決定的な証拠を示すようなことはできないので推測になってしまう。


 しかし、間接的な話はしていこう。
 芥見下々は呪術廻戦について「王道にちゃんと向き合うことを目標にしているのでいい意味でも悪い意味でも既視感が多いと思います。暇な時にぜひ探してみてください」とコメントしている。*1 また、キャラクターの作り方として「『BLEACH』を読んでください」というアドバイスを残している。*2 このように芥見下々は他の漫画作品の要素を積極的に取り入れて作品を作り上げており、また、それを隠しているわけでもない。その上で、HUNTER×HUNTERは同じ週刊少年ジャンプに連載中の大人気バトル漫画であり、芥見下々が(百歩譲って呪術廻戦の担当編集者が)ネテロ会長の一連のシーンを知らないはずがないのである。その他にも呪術廻戦がHUNTER×HUNTERをオマージュしていると思われる点は多々あるのだが、切りがない程なので、ここで一つ一つ全て言及していくのは止めておく。

 これは壮大なパクリである。
 断わっておくと、パクリという言葉はネガティブなイメージを連想させやすいが、パクリという言葉には法的な定義は存在せず、必ずしも違法で悪いことではない。また、この記事では著作権法などに関して深くツッコミを入れたいわけでもない。短くて語感が良いから以後この記事ではパクリという言葉を使うが、別にオマージュと言ってもいい。オマージュとパクリとリスペクトとインスパイアとパロディの違いについて話すつもりもない。


 では何を話すのかと言うと、所詮は個人的な感想である。
 まず、呪術廻戦 11巻の表紙とHUNTER×HUNTER 11巻の表紙を見比べてみよう。

呪術廻戦 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

HUNTER×HUNTER モノクロ版 11 (ジャンプコミックスDIGITAL)

  似ている。この表紙の二人は別にこのポージングで発動する能力を持っているわけでもないことを踏まえると、同じ11巻で同じ構図のこれは、明らかに呪術廻戦がHUNTER×HUNTERをパクっている。個人的には、このパクリは嫌いじゃない。なぜなら、表紙なので作品の中身には直接関係せず、パクリに気付いた両作品のファンだけがニヤッとできるようなパクリだからだ。


 次に呪術廻戦の冥冥と、HUNTER×HUNTERヒソカの能力説明のコマを見比べてみよう。

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呪術廻戦 冥冥の能力説明

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HUNTER×HUNTER ヒソカの能力説明

 似ている。特徴的なポージングを決めた立ち絵の後ろでそのキャラクターの能力解説を行っている。冥冥とヒソカは両者とも実力が底知れず敵か味方かも分からない、という少し不気味な立ち位置にいる点も共通している。このパクリも嫌いじゃない。作品の内部ではあるが、別に元ネタを知らなくても読み進めるのに問題はないし、HUNTER×HUNTERとの類似を見いだせた両作品のファンは追加要素的に楽しめるからだ。


 ひるがえって、この記事の最初に解説した東堂葵の「腕なんて飾りさ 拍手とは魂の喝采!!」のシーンについて考えてみたい。
 このシーンをひもとくために、前後のシーンや東堂葵についても考えていく。東堂葵は呪術高専京都校の三年生で一級呪術師であり、作中で彼は強者として描写されることが多く、その実力は他の学生と一線を画していると言えるだろう。しかし、彼が何故強いのか、その過程は今のところ描かれていない。第130話の「九十九由基直伝 簡易領域の展開」というナレーションから、彼が特級呪術師である九十九由基から何らかの教育を受けていることがうかがえるが、せいぜいその程度である。彼が呪術師として名門の家柄の出であるというような描写も無い。そんな彼が何故これほどまでに強いのか、その過去は分からないまま、読者は、ただ彼が強いという現在視点の描写を受け入れ続けている。
 さて取り上げているシーンについて重要な情報として、実は東堂葵の「腕なんて飾りさ 拍手とは魂の喝采!!」という台詞はハッタリである。彼曰く彼の術式は腕を失った今となっては「もう死んでいる」らしく、能力は発動しない。しかし、敵がそのハッタリに気を取られた隙に、主人公である虎杖悠仁の渾身の一撃が炸裂するという流れである。元ネタとなったHUNTER×HUNTERでは、ネテロ会長の能力は片手でも発動できるので、大きな相違点と言えるだろう。
 私はこのシーンに文句があるのだ。私が東堂葵に感じた“凄み”には、HUNTER×HUNTERのネテロ会長の“凄み”が混入しているのだ。純粋な東堂葵の持つ“凄み”がいか程のものか、ネテロ会長が混入してしまった私にはもはや分からないのだが、少なくとも東堂葵に欠如している過去の修行の描写をネテロ会長の修行シーンが補完してしまったことは確かである。この補完は、前述した11巻の表紙や冥冥の能力説明のコマとは異なり、HUNTER×HUNTERを知っているかどうかによって、作品の中身への印象が大きく変わりかねない。おそらく、HUNTER×HUNTERを知っているほうが、呪術廻戦をより深く味わうことができると言えるだろう。その点でHUNTER×HUNTERを知っていた私は幸運なのかもしれない。しかし、逆に言えば、呪術廻戦はHUNTER×HUNTERを知らない読者を置いてけぼりにしているのではないだろうか。日本が、ジャンプが、これまで育んできた漫画文化の潮流の中で、過去作品を踏襲する形で、この作品は確かに輝いているのかもしれない。しかし、呪術廻戦を単独で鑑賞したとき、魅力が半減してはいないだろうか。そして鬼滅の刃が完結した今、週刊少年ジャンプの次代の看板に近い位置にいる呪術廻戦が、そのような内輪ネタを頼って作品内容を補完するスタンスでいいのだろうか。少年を読者対象としている漫画が、20年前の作品を前提としていていいのだろうか。


 内輪ネタを、パクリを肯とするのであれば、呪術廻戦はとても上手くパクリを活用していると言えるだろう。BLEACHやナルトの世代を筆頭に王道バトル漫画が長期連載化し展開の引き延ばしと批判される中で、ここ数年のジャンプは、鬼滅の刃が典型例であるが、スピーディーな展開でコンパクトにきちんと作品を完結させるスタイルにかじを取り始めたように感じる。そのトレンドの中で、過去作の描写をパクることで回想シーンを補完し、描写を削減するというテクニックは、大きな成功を収めているのだろう。
 このパクリによって作品の描写を補完し奥行を作るテクニックは、まさしく和歌の本歌取ではなかろうか。Wikipediaの引用で申し訳ないが、和歌の本歌取についても、平安時代から既に「盗古歌」と批判する声はあったらしい。そして藤原定家本歌取について原則をまとめ、2句未満にするといった文量的な制限や、主題を合致させないといった内容的な制限を取り決めたそうである。*3
 漫画のパクリについてこのようなルールは無いが、呪術廻戦のパクリはもはや作品の内容に深く侵食し、度を超えてしまっているように私には感じられた。過去作品の歴史の上に作品を積み重ねていくのは漫画に限らず美術に通じることであるが、過去作品の内輪ネタに頼りすぎる分野に未来は無いと私は思う。(ただし、これは私が内輪ネタが嫌いであり、かつ作品を他作品と独立させて鑑賞したいという趣味の問題も大きく含んでいる)


 東堂葵とネテロ会長のパクリの話は、私が気付けたパクリである。一方で、私が自分では気付けなかったパクリの話もしたい。
 第130話で特級呪霊である真人は遍殺即霊体に変身する。この遍殺即霊体というのは、真人の「魂の本質」であり「本当の形」である。真人と相対した虎杖悠仁は、変身後の真人を「呪霊として変身前とは別次元の存在に成った」と直観している。呪術廻戦を読んだことの無い人がこの説明だけを聞いても訳が分からないだろう。でも安心してほしい。読んでいる私にも分からなかったから。
 真人は自身の見た目を自由自在に変えることができる能力を持っている。その彼がいきなり、自身の本当の形を理解したと言い、変身したのである。遍殺即霊体に変身することで、彼はより強固な体を手に入れている。それまでの変身とはどう違うのか。なぜ急にパワーアップすることができたのか。正直に言えば全然理解できなかった。週刊少年ジャンプ連載当時、一読者として私は置いてけぼりにされた記憶がある。
 この謎は、単行本15巻が発売されることで解決する。15巻の第132話と第133話の間の余白ページで、作者による遍殺即霊体の解説がなされたのだ。その解説によると、もともと自由に変形していたのを、遍殺即霊体というフォルムに固定しそれ以上変身しないという制約を加えることによって、強度を上げていたらしい。制約を加えると能力が上がることは作品内で繰り返し説明されてきた設定なので理解できる。
 これは週刊誌を読んでいただけでは理解できない内容である。不親切ではないか。小ネタを単行本の欄外で解説することは、まぁよくあることだが、敵のボスがパワーアップした理由を欄外で補足説明するのは酷くないだろうか。これは単なる作者の力量不足であると私には感じられた。何から何まで逐一言葉にして明確に説明しろとは思わないが、結局説明するのであれば作品内で行ってほしかった。


 しかし、ここまでは単なる作者の力量不足に対する不満である。私が気付けなかったパクリというのは、別にある。
 遍殺即霊体の真人は左右の上腕の肘に近いあたりから、黒い角のようなものを生やしている。彼はこの黒い角(ブレードというらしい)を伸縮させ、リーチを自在に操れる刃のように活用し闘っていた。らしい。らしいというのは、作中の描写で私はそのことに気付けなかったからだ。もし私が目を皿のようにして読んでいれば分かったのかもしれないが、少なくとも週刊誌で一読し、その後単行本を2周したが、その程度では気付くことはできなかった。呪術廻戦の絵のタッチは蟻編のHUNTER×HUNTERに近く、いくつもの線を引くことによって輪郭をぼやかしている。これは戦闘でのスピード感を演出する上で有効であるが、一方で物体の伸縮について、それが本当に伸縮しているのか、あるいは残像的なスピード感の演出なのか分かりにくくなるという欠点がある。その結果、私は真人の腕の黒い角が伸びているということに軽く読んだだけでは気付かなかったのである。
 ではどうやって気付いたのか。それは、同じく余白ページでの解説である。そしてブレードの解説は「旋空孤月っぽくなったので本編で解説は省いたよ!!」と締めくくっている。


 なんたることだろうか! なんたることだろうか!!


 旋空孤月とは、漫画ワールドトリガーに出てくる武器の名前である。呪術廻戦では、本編を読んでいるだけでは理解できないような描写の不足している部分について、解説を省き、その理由として他作品を引用するのである。そのあまりのふてぶてしさに、私は旋空孤月が一般名詞なのかと自身の常識を疑い、辞書を引いてしまった。辞書には載っていなかった。
 あんまりじゃあないか。私はワールドトリガーを読んでいた。それでも真人のブレードには気付けなかった。呪術廻戦は、過去の漫画をパクることで本歌取のように活用している。それもやり過ぎだと私は感じているが、それどころか、その意図した本歌取にすら失敗しているのだ。私は幸いなことにネタ元の作品を知っているからこそ楽しく読んでいるし、現在の読者層的にも結果オーライなのかもしれない。しかし、過去作品を踏襲し補完させるやり方は、作品を上手く昇華できなければ元の作品に飲み込まれるリスクを背負っており、現在の呪術廻戦の作者にその力量があると私には思えない。そして、このようなやり方の作品がジャンプの看板になることには不快感を覚える。
 小説も刊行されており、その原作者紹介欄を見ると、呪術廻戦について「日本三大既視感作品」と自虐的に自称している。このように作者自身も自著の性質には十分に自覚的であり、決して既視感だけの作品にしたいと考えているわけではないだろう。是非その既視感に飲み込まれないだけのオリジナリティと描写力のある作品を作り上げていってほしい。