グロンギンゲゲルドギガヅンドグベギ
※ここではリントの言葉で書くよ。
去年の9月から始まった仮面ライダークウガのYouTube無料配信は、3月の13日をもって終了いたしました。
2000年の放送当時はまだ幼すぎて内容はよくわからず。でもドラゴンフォームが好きで最後まで見てたクウガ。
改めて一話から最終話まで見て。
やっぱりクウガ、最高やったな!
今回はそんなクウガの敵役であるグロンギの文化にスポットを当ててみたいと思います。
作中にてほとんど説明がされてなかったグロンギたちが人間を虐殺する理由。
それについて、考えていきましょう。
1.グロンギのゲゲル
“だから、ただのゲームだ。獲物を追い、狩りをする、それ以上意味はない”
-メ・ガルメ・レ-
1-1.グロンギ
1988年の仮面ライダーブラックRX以来10年ぶりのテレビシリーズにして、平成ライダー第一作となった『仮面ライダークウガ』。
本作は石ノ森章太郎逝去後初にして2000年代初の仮面ライダーとして、新たな仮面ライダー像を提示。まさにキャッチフレーズである「A New Hero. A New Legend」のとおり、その後のライダーシリーズ再興へとつながった。
ちなみに何がどうA New Heroだったのかっていうと。ブラックRXや、1996年に同じく復活を果たした『ウルトラマンティガ』で登場したフォームチェンジを導入。ただ転用するだけでなく、カラーバリエーションを豊富に(全11フォーム)。しかも、東映ヒーローもの初となるハイビジョン撮影でお届けされた。
さらに従来ほとんど描かれなかった警察組織による怪人への対応、そしてライダーとの連携も描かれた[1]。また、高低差や傾斜のついた複雑なコースをオートバイに乗ったまま走り抜ける競技であるトライアルの第一人者である成田匠をスタントとして起用し、かつてないほど本格的なバイクアクションが繰り広げられた(特にズ・メビオ・ダとゴ・バダー・バの回)。
新しかったのはライダー側だけではない。怪人側もだった。
本作において怪人の役割を果たすのが、すでに何回も出てるけどグロンギという集団。生物学的には人間と同じだけど独自の言語や文化を持つので話が通じない。従来のライダーシリーズとは異なり改造手術ではなく、体内に埋め込まれた魔石ゲブロンの力によって動植物魚類昆虫を模した怪人(※作中では未確認生命体と呼ばれた)に変身する。
ここに新たな悪役像が提示されている。
グロンギは悪の秘密結社ではない。
ショッカーのように世界征服を目指して一致団結しているわけではない。
広いところで集会して「イーッ!!」とか叫ばない。なんか廃工場とか植物園とか、路地裏に定期的に集まって、次は誰の番かみたいな打ち合わせだけして解散してる。
その怪人同士の打ち合わせも日本語ではない。グロンギ語という独自の言語(タイトル名がそう)でされるために視聴者は何の話をしているのかさっぱり。
いったい彼らが何のために人殺しをしているのかという疑問は物語中盤まで不明のままだった[2]。
1-2.ゲゲル
で、その答えがついに第22話にてグロンギの側から語られることとなった。教えてくれたのは、熱心に日本語を勉強していたメ・ガルメ・レ。場所は品川区の中央プラザ(架空の場所)。
その言葉を改めて引用すると。
“だから、ただのゲームだ。獲物を追い、狩りをする、それ以上意味はない”
“ルールに従っていかにリント(注:グロンギ語で人間のこと)を殺すか。最高のゲームだ”(括弧内引用者注)
グロンギたちが人間を殺しまわる理由。それは単なる楽しみのためだった。グロンギ語ではこの殺戮行為をゲゲル(ゲーム)という。
ここでなされた人間とグロンギの初会話こそ、グロンギたちが人間を殺す理由を明らかにした瞬間で、ここからグロンギたちの謎が警察とクウガたちによって解き明かされていく。
別のグロンギであるゴ・ジャラジ・ダは、何故あえて残虐な方法で人を殺すのかと人間に問われた際、
“君たちが苦しむほど、楽しいから”
と答えている。グロンギたちにとって人間は「獲物(byメ・ビラン・ギ)」でしかなく、クウガでさえもゲゲルをおもしろくする一要素としか見做していない。
とはいえ、グロンギたちは快楽のためだけにゲゲルをしていたわけでない。ゲゲルをクリアすれば、自身の階級を上げることができる。ゲゲルを通してグロンギ最強を目指す彼らを、グロンギ語ではムセギジャジャ(プレイヤー)という。
挑戦するゲゲルの難易度も階級により異なる。
メ・ガルメ・レの「メ」は中級であることを意味する。一つ下にして最下級プレイヤーである「ズ」は、ゲゲルの管理進行役であるラ・バルバ・デから指定された時間制限と殺害人数(ex. 2日で81人)をクリアするだけ。「メ」になると、時間制限と殺害人数を自己申告し、かつバルバに中間報告する義務がある。
「メ」から昇格した「ゴ」が最上位。ゴになると、時間制限と殺害人数に加え、ゲゲルに法則が上乗せされる。
ゴが設定した法則を以下に例示する。なお、〇すはチクチク言葉なのでグロンギ語の「ボソグ」に置き換えたよ。
- 鋼の馬(バイク)に乗った人間を引きずり降ろしてバイクで轢きボソグ。7時間で99人。
- カジノのルーレットを回し、出た数字でゲゲルを行う場所を決め、大量の鎖鉄球を投げて無差別にボソグ。72時間で567人。
- 東京23区を50音順に周回し、各区で9人ずつボソグ。
- インターネット上でゲゲルを行う場所を予告し、5時間で567人ボソグ。
と、こんな感じで、かなりの縛りプレー。
というのも、ゴがプレイするゲゲルはゲリザギバスゲゲル(セミファイナルゲーム)であり、次がザギバスゲゲル(ファイナルゲーム)なのだ。作中、ゴのグロンギたちは早くザギバスゲゲルに進みたがっていた[3]。
ザギバスゲゲルの内容は、グロンギ最強の存在であるン・ダグバ・ゼバとのタイマン。ダグバを倒せば彼の「究極の力」を手にすることができ、「究極の闇をもたらすもの」となれる。
作中、ゴ集団は全員クウガに倒されてしまったので、結局ダグバが「究極の闇」を実行し、計3万人以上の人間を虐殺した。ゲゲルにて一番殺害したゴ・バベル・ダが682人なので、力の圧倒さがうかがえる[4]。
人間にとっては理不尽極まりないゲゲルだが、グロンギ側も実は必死である。ゲゲルをプレイするグロンギには時間制限がある。管理進行役のラ・バルバ・デがゲゲル開始時に、魔石ゲブロンを埋め込んだベルト「ゲドルート」の時限装置を起動するからだ。制限時間以内にゲゲルを達成できなければ時限装置が作動しプレイヤーは爆死する[5]。
また、ゲゲルをプレイできるのは同時に一人までであり、ゲゲル外での殺人は許されない。ゲゲル開始以前に勝手に殺人を行ったズ・ゴオマ・グはプレイヤーとしての権利を剥奪された。
はい、そんなわけで。
グロンギたちが彼らの価値観で作り上げた殺人ゲーム、ゲゲル。
しっかりルールが決められているし、ゲゲル内での位が名前の一部になるくらい彼らにとっては重要なものだ。
ではなぜ彼らは死ぬリスクを冒してもなおこんなゲームをするのだろうか。
「魔石ゲブロンが脳まで侵食し、闘うための生物兵器になっている」という作中での説明が答えだけど、それだとゲゲルへの参加資格を剥奪されたズ・ゴオマ・グやズより下位のベ集団をダグバが粛清した理由が説明できない。グロンギたちにとって生きることはゲゲルをすることであり、ゲゲル出来ない(しない)ことは死ぬことと同義と考えられる。
2.ディープ・プレイ(Deep Play)
人類学を知ってる人間はこういう真剣な遊びを見るや、とある概念を脊髄反射で当てはめるもんなんです、多分。
それがディープ・プレイ。
ちなみに人類学の巨人である彼が人類学に進んだきっかけは、軍から帰ってきて就職先もなくとりあえず大学に避難したかったから。
さて、ディープ・プレイが収められているのは、そんな彼の集大成にして大ヒット作ともいえる『文化の解釈学』。
事例はインドネシア・バリの闘鶏。
ギアツの前期フィールドがバリ島で、そこで盛んにおこなわれたのが闘鶏っていうニワトリ同士を闘わせてどっちが勝つかを賭ける博打。
今はどうかしらないけど、ギアツの見たバリ人は闘鶏に狂いまくっていた。
バリ人闘鶏メッチャやる。
有り金全部使い果たすから政府が禁止してる。
のにやる。
定期的に警察ががさ入れするからこっそりやる。
この様子を見たギアツの導き出した結論。それが、ディープ・プレイ(深い遊び)。
ディープ・プレイ自体は功利主義で有名なベンサムの概念。ディープ・プレイとは失うものが大きすぎる賭けのことで、ベンサムは功利主義の観点から非合理であるとして法で管理すべきと主張した。だがむしろ、彼らが法を犯してまでこのような遊びに熱中するのはなぜか、とギアツは問う。彼らが賭ける金は実際の価値以上の意味を象徴している(ギアツ 1987: 417-418)。
闘鶏[6]は賭けが大きく勝敗が予測不可能なほどおもしろい、いわば深い試合となる。深い試合であればあるほど実際の金以上の意味が賭けられており、それは地位とか名誉とか尊敬とかそういったもの。
雄鶏が所有者である男性のアイデンティティなら、闘鶏はバリという社会の模型。だから親族が闘鶏するときは、親族側に絶対賭ける。そうする義務を感じているからだ。同じように、同集団の2人が闘鶏することも稀。
闘鶏で勝てば象徴的に栄光を得るし、負ければ面目丸つぶれ。だがそれは「火傷のしない火遊び(ibid: 429)」なので、実際には誰の地位も変化しないし、集団間の敵対意識も遊びの域を出ない。賭博とはいっても収入を意味あるほどに再分配するわけでもない[7]。闘鶏はバリをバリ人が理解するためのモデル、つまりはバリ人によるバリ人のための物語なのである(ibid: 438)。
3.類似点と相違点
はい。
これが闘鶏、そしてギアツのディープ・プレイ。バリ人は雄鶏を媒介にして自分を公に晒し、スリルを楽しんでいるのでした。
ゲゲルとは、ゲーム内容以上にそれに込められた威信とか名誉といったものの方が重要な点が同じといえる。メ・ガリマ・バも「私はすでにゴのレベルだ」的なプライドで、メなのにゲリザギバスゲゲルのルールでゲゲルしてたし、殺した人数の多寡はそれほど問題ではなさそう。
それと、楽しいっていう点も同じですね。
違うのは、ゲゲルはグロンギ自身が命がけで闘うってところ。それも象徴的な意味ではなく、マジで爆発して死ぬ。それと、ゲゲルをクリアすれば実際に集団内でのヒエラルキーが上がる点も違う。
もう1つ。闘鶏には男しかいないが、ゲゲルには女もいる。既述したメ・ガリマ・バとかゴ・ジャーザ・ギとかは女。また管理役であるラ・バルバ・デも女。逆に裏方であるラ集団にもラ・ドルド・グという男がいる。
ちなみに全員強い。特に、バルバはダグバの次に強い説あるし、ドルドはゴ集団のトップ層とも互角。
あとは、「ゲゲルがグロンギのための物語」であるかどうか。
言い換えると、グロンギがゲゲルを通じて自己を認識しているかどうか。
ゲゲルの権利を剥奪されたズ・ゴオマ・グは復帰の機会を狙い続けていた。すでにメ集団にゲゲルのプレイ権が移っていたので手遅れだが、ことあるごとに「次は俺だな」って勝手に宣言して、そのたびにバルバやメのグロンギに殴られてた。
時には、メ・ギノガ・デっていうキノコ怪人のグセパ(殺害人数をカウントする腕輪。プレイ中であることの証)を強引に奪い取ろうとして、毒キノコの胞子を注入されて死にかけたこともあったけど、最後までゲゲルに執着してた。グロンギみんなに見下されて、バルバに雑用押しつけられてたけど、頑張ってたなあ。
一方、ズ・ゴオマ・グを殴って馬鹿にしてた1人であるメ・ガルメ・レは、実は作中唯一ゲゲルを成功させたグロンギである。自身の能力である透明化で警察とクウガに気づかれることなくゲゲルを遂行。見事、ズからメへの昇格を果たした。
その後メとなったガルメは、しつこくゲゲルの権利を要求するゴオマを張り倒し、
”ズからメへ、時代は移ったのだ!”
と言い捨てた。
自分もちょっと前までズだったくせにこの物言い。メになってだいぶ天狗になってることがうかがえる、カメレオンの怪人なのに。
このようにゲゲルでの位置がそのままグロンギの価値になっているようなので、ゲゲルはグロンギのための物語だといえそう。
またゴ集団はズやべに対して、「ズやベのやつらもすぐにダグバに殺されるでしょ(byゴ・ジャーザ・ギ)」とそっけなく言うくらい冷たい。
ゴオマがゲゲル参加に執着していたのもこの理由からだと考えられる。ダグバの粛清もさることながら、ゲゲルの権利を剥奪されるのは社会的な死だったのだ。
でも頑張ってあがいてたのに最期はダグバにワンパンでボソグされた、残念。
とはいえ。
ゲゲルはむしろ、象徴よりも機能の側面のが大きい。その機能とは集団内での殺人を減らす役割だと考えられる。
ズ・ザイン・ダと彼にゲゲルを邪魔されたメ・ビラン・ギが喧嘩してたけど、ゲゲルがなかったらどいつもこいつも互いにボソグしあうんじゃないかな。ゴ・ザザル・バとかすげえ気短かかったし。
そうなったら、ただでさえ200体しかいないんだしすぐ全滅してしまう。ゲゲルはグロンギを維持するためには不可欠。
何よりまるで不良を格闘技で更生させるみたいで、健全だな???
……あーでもその場合、グロンギの4分の3近くをダグバが粛清してる事実が問題になってくるなあ……でもあいつ、ゲドルートの修理してくれたヌ・ザジオ・レをボソグしたり、いきなり3万人ボソグとか後先のこと何も考えてなさそうだし……。
……ま、とにもかくにも。全滅してよかった。
ありがとう、クウガ。
ありがとう、警察。
警察もG3とかいう対グロンギ用兵器を開発したらしいし、これで万が一グロンギの残党が現れても安心だな!
追記)庵野秀明が監督脚本して『シン・仮面ライダー』作るらしいじゃん!!!!!!
楽しみーーーーーーーーーー!!!!!!!
参考文献
クリフォード・ギアツ(1987)「第15章 ディープ・プレイ―バリの闘鶏に関する覚え書き」『文化の解釈学Ⅱ』pp389-461
※引用はしてないけど、
・『てれびくんデラックス愛蔵版 仮面ライダークウガ超全集〈上・中・下〉』
・デアゴスティーニの「仮面ライダーオフィシャルデータファイル」
・特撮女子パンナのYouTube解説 https://youtu.be/aI_tz33GIRY
を補助として使いました。
[1] ちなみに関係あるかどうかはわからんけど、映画『踊る大捜査線』の大ヒットは1998年。ちなみのちなみで、映画『バトルロワイヤル』が2000年で、『仮面ライダー竜騎』が2003年。これはもはや俺の印象だけど、555までの主人公の髪型はキムタクっぽい。
[2] ちゃんと見てないからあれなんだけど、プロフェッショナルで庵野秀明が「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきてる」っていってたらしいっすね。けものフレンズの考察とか読むの当時俺好きだったけどな。あれも5年前だもんな。
[3] 例示したインターネットに予告するゲゲルをしたゴ・ジャーザ・ギはその声明文中に「どうでもいい殺しはさっさと終わらせて、早くザギバスゲゲルに進みたい」と綴った。
[4] ダグバは物質を分子レベルで再構築する能力を持っており、人体を発火させることが可能。これにより、日曜朝8時からそんなもん見せたら子どもたちはトラウマもんですよという文字通り究極の闇な映像が茶の間に届けられた。いくら20年前とはいえクレームこなかったのかな。
[5] 基本的に時間制限が来る前にクウガが倒しちゃうのだが、ズ・ネズマ・ダだけは警官隊の前で突如爆発。本編未登場なのでこれ以上の情報はないけど、時間制限で爆死したという考察がファンの間で一般的。
[6]雄鶏は男性を象徴している。雄鶏を表すバリ語のsabungには「英雄」とか「伊達男」「独身男性」等々の意味があり、男の性格は色んなタイプの雄鶏に例えられる。また、女が見ることさえしない闘鶏は、「ユニセックス」なバリ社会において著しく珍しい例外である(ギアツ 1987: 446)。
[7]「バリ人にとって遠回しに与える侮辱ほど愉快なものはなく、遠回しに受ける侮辱ほどの苦痛なものはない(ibid: 418)」らしいので、闘鶏に社会的情熱を高める機能があることはギアツも認めてる(ibid: 433)。