小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

ファクトフルネスと/はフィリピンの妖怪

 

今回は読書感想文。

課題図書はここ最近話題になった意識高い本『ファクトフルネス』。

 

すごい金持ちのビル・ゲイツとかバイデンの元上司のオバマが絶賛したとかで話題になって、YouTubeで検索してみればオリラジの敦ちゃんをはじめ内容を要約してくれた動画が山のように見つかる。

それ見て面白かったので自分でも実際に読んでみた。で、読んでみたら要約系動画に劣らずかなり面白かった。

だから自分もこの本で原稿書いてみようと思ったものの、今更ただ要約しただけじゃ遅すぎる。その辺に転がる謎のアニメーション使って解説してる動画と差がない。

 

 

というわけで本稿ではファクトフルネスな生き方の対極に位置するかに見える人類学の本を持ってきて、実際ファクトフルに生きるなんてできるのかを考えていきたいと思います。

 

 

 

 

まず。

改めて、この意識高い本『ファクトフルネス』のあらすじ。

著者のハンス・ロリングはいう。

我々は世界について何も理解していない、と。

どれぐらい理解していないかっていうと、チンパンジーより理解していない。

エリートと呼ばれる人でさえチンパンジーより理解していない。

なぜか。

我々が錯覚に等しい思い込みをしているからだ。

 

「世界では戦争、暴力、自然災害、人災、腐敗が絶えず、どんどん物騒になっている。金持ちはより一層金持ちになり、貧乏人はより一層貧乏になり、貧困は増え続ける一方だ。何もしなければ天然資源ももうすぐ尽きてしまう」(本文より抜粋。KindleでいうとNo.232₋233のとこ)

 

これが我々のしている錯覚。

こうした錯覚をハンスは「ドラマティックな本能」としている。つまり、人類の脳はこうした錯覚をするよう進化したのだ。まだ野山でウホウホやってた頃は、そこら中に危険がいっぱいで食糧もない。だから、これくらいネガティブな錯覚―悪いところにばかり注目する本能―を持ってたほうがむしろ生存には役に立った。

だがこの「ドラマティックな本能」こそが現代において我々が世界を正しく見るのを妨げている。

実は世界は我々が思っているほど悪くない。極度の貧困もテロも病気もまだまだあるけど、この半世紀で多くの部分が改善した。それはデータを見れば明らかな事実(ファクト)であり、現代を生きる我々に必要なのは、「ドラマティックな本能」を抑え、事実に基づいて世界を認識することである。

 

 

それがファクトフルネスな生き方。

 

 

 

要約動画を見ればわかる通り、ハンスは「ドラマティックな本能」を10パターン列挙してそれぞれ解説と対処法を書いている。

重要なのはファクトフルネスの要点。

それは「データや観察に基づく思考」、つまりは「イメージだけで語らないこと」だ。

グラフの直線がいつまでも続くとは限らないとか、誰かを犯人に仕立て上げるのはやめようとか、1つの数字だけをみて判断するのはやめようとか、ドラマチックな本能はイメージを俺たちに見せてくる。それを抑えて客観的に先入観なく物事を判断しようというわけ。定期的なアップデートも忘れずに。

 

 

せっかくなんで第8章「単純化本能」より事例を紹介。なんで8章にしたかというと最初のほうの本能はみんな引用してそうだから。

 

純化本能。

それは一つの知識を何でもにあてはめてしまうこと。

ファクトフルネスの実践は、一つの知識が全てに応用できないことを覚えること。

この章でハンスは、絶滅危惧種のトラとジャイアントパンダクロサイが1996年の時より増えていることをレッドリスト世界自然保護基金のデータから示す。

ここまでもってきた活動家の努力を認めたうえでハンスは、こうした専門家たちが専門外の人や一般人ともかかわりを持てばよりよい成果が挙げられたかもしれないと指摘する。なぜなら専門的なものの見方だけでなく、様々な角度から問題を見たほうがより正確に理解できるし現実的な解を見つけられるから。

身近に持って来ると「自由」とか「民主主義」とかの価値観は万能じゃないってこと。韓国とかシンガポールとかここ最近で急激に経済発展した国は非民主主義的な国だ。

1つの価値観を良いと信じてなんにでも当てはめてはいけない。それは世界をシンプルに見てしまう単純化本能だから。

 

 

ファクトフルネスは読んでるとなんだか勇気が湧いてきて未来が明るくなるような気がしてくる良書だし、データに基づいて考え実践するという主張には全面的に賛成。

 

 

でもな。

実際生きてくなかで、データに基づくファクトと我々の本能が見せるドラマとの線引きはできるんだろうか。

先進国と途上国という単純な二分法はやめよう、世界の国々の発展度合いは4段階で判断すべきである、世界の大半は先進国でも途上国でもない。

そう唱えるくらいだからハンスも数字を見るだけじゃ理解できないくらい現実が複雑なことは重々承知しており、数字以外も観察するよう言っている(ハンス 2018: 第8章)。

だがファクトフルネスはドラマとファクトという二分法を前提とした概念であり、日々の暮らしで実践しようとしてもそりゃあんた難しい話ですよ。

 

 

実際生きてるうえで、ファクトとドラマが入り混じった状況、どっちか判断がつかない状況なんてたくさんある。

例えばコロナ。みなさんはコロナウィルスって見えますか?

俺は目が悪いので顕微鏡を使わないと見えませんが、この前電車で神経質に窓を開けて回ってたおばはんは『もやしもん』みたいにフワフワ漂うコロナちゃんが見えてるのかもしれない。

 

だとしたらおばはんにとってはファクトだが、俺にとってコロナはいつまでたってもドラマだ。コロナは写真でしか見たことないし、農家で働くANAのCAは見たことないし、フランスは観光したことあるから行き覚えのある場所がロックダウンしてたけど、イギリスは行ったことないからそんな国がほんとにあるのかさえまず疑わしい。俺にとってファクトなのは日々つけるマスクだけ。トゥルーマンショーよろしく他のみんなは演技をして俺を騙そうとしているのかもしれない。

 

……いや、わかってるよ。おかしなこと書いてるって。

 

俺が言いたいのは、人の行動原理にはドラマが要るし、強固に信仰されたドラマとファクトの区別って明確じゃないよねってこと。

翻っていえば、ファクトフルネスもまたデータを引用する際に国連や世界自然保護基金といった権威を信頼しており、それは大いにドラマ―あるいは同じく意識高い本の代表格『サピエンス全史』的にいうならフィクション―といえよう。

 

 

 

新しく雇ったメイドがアスワンだったのでソボルで追い払った。

 

これは東(2011: 44-50)がフィリピンでのフィールドワーク中に巻き込まれたエピソードである。東の友人クレアの実家にエルシーというメイドが新しく雇われた。クレアはそのメイドがアスワンという妖怪だという噂を耳にしたため、超自然的な問題解決を専門とする呪医に相談。ソボルとはその呪医に処方された薬のことで、ヤシ油に薬草を漬け込んだもの。これをクレアは自分の身体に塗り、日曜には教会で祈ったりしていた。すると、ひと月もしないうちにエルシーはメイド職を辞したのであった。

 

この妖怪退治のエピソードについて東は「自分がアスワンだという噂が流れたことを知ったエルシーが居心地悪く思い、自ら立ち去った可能性もあると考えた。だが真相は不明(ibid: 49)」としている。

 

確かに読むとそう思う。クレアがエルシーの料理を食べた後いつも腹痛を起こすのは、妖術のせいではなく、単に料理が下手だからかもしれない(なお東は腹痛の原因をアスワンへの不安感だとしている)。それに雇い主(クレアの父ちゃん)によく怒られてもいたようで、個人的には「私メイド向いてへんわ」と早めに見切りをつけたのかと思った。

 

このエピソードで何より重要なのは、このクレアという人物がこの事件を経験する前も、そして経験した後でも呪術を信じていない(と主張している)点である。メイドを雇うくらい裕福な家に生まれ大学も出たクレアは教育程度の高い女性で、熱心に呪術を調査する東をからかってたくらいだった。そんな彼女が大騒ぎし、アスワンによって腹痛を起こすくらいの精神的不安を感じたのだ。ところが事件後のクレアは相変わらずアスワンを信じていないという。あの事件は「怖かった」が「信じてはいない」(ibid:49-50)。

 

ここに東が本書にて提示した呪術の「リアリティ(2011: 69)」の一端が垣間見える。

リアリティとは「現実らしさ」のこと。リアルが現実そのものなのにたいし、「リアリティ」は現実っぽく感じること。なので、バーチャルリアリティなんて用語も成立する。USJで車に飛び乗ってくるスパイダーマンVRゴーグルをかけると現れる深田えいみは、「リアル」ではないが、「リアリティ」を感じられる。リアルを客観的に疑った(ex.これはゴーグルが見せている映像だと理解する)としても、「リアリティ」を感じたことは否定できない(深田えいみの吐息をたしかに俺は感じた)。「リアリティ」とは快感とか恐怖を実感して対象が実体を持つかのように否応なしに感じてしまうこと。

 

さらに東は同じくアスワンと噂された人物と実際に接触し、「彼はアスワンだ」という「リアリティ」について研究していく。

 

ここでアスワンという妖怪について簡単に解説するよ。試しにググってみると上半身と下半身が分離したコウモリ女の画像が出てくる。これは内臓吸いというアスワンの5分類の1つ。その他にあるのは吸血鬼、獣人、人食い鬼、妖術師。

メディアや怪談話のときはコウモリ女みたいな化け物として表象されるアスワンだけど、東の調査当時、フィリピンにおいて最も頻繁かつ広範に見られたのは妖術師としてのアスワンで、とりわけ共同体内の誰かがアスワンだと噂されるときは5分類中1番人間の姿に近い妖術師のアスワンが語られる(東 2011: 128)。

 

 

妖術師としてのアスワンは共同体内の他の成員を病気にしたり殺したりすると定義されている。てか妖術師ってそういうもんやし。

でもあくまでも概念でしかない。

「現実」の生活世界内ではたとえ知識と実践を共有したとしてもその運用の仕方に差異が生じるのは当然で、ある成員にとっては妖術師アスワンとして排除される人物であっても別の成員にとっては包摂する対象となる(ibid: 147)。

現実は多元で錯綜している。

 

 

フィリピンのL村に暮らすハンス老人は74歳。アル中。交通事故のために杖なしでは歩けない身体障害者で、妻を病気で亡くしたため独り暮らしだ。

ハンス老人がアスワンだと噂されるようになった理由は、同じくアスワンだとされる人と酒の回し飲みをしたから。ハンス老人の妻も回し飲みをして、死んでしまった。ハンス老人が死ななかったのは「もともと邪悪なものがあった」からだとされた。

 

ただし東の「ハンスはアスワンなのか」という問いかけに確信を持って答えた人はおらず、ほとんどは「みんながそういう」と曖昧に回答し、ハンスの身体的特徴を挙げるだけだった。例えば、ハンス老人は人を見るときにカッと目を見開いて覗き込むように見るし、歩くときは前かがみで宙に浮いてるような歩き方をするとL村のとある女性は言う。また別の女性は夜中にハンス老人が歩いているのと、アスワンと一緒に現れる鳥の鳴き声を聞いたという(東 2011: 150-151)。

 

ハンス老人だけが死ななかったことで発生した「ハンスはアスワンだ」という噂は、彼の不利な属性によって強化されていた。夜中ふらふら歩ているとか目つきがおかしいというアル中に由来する不審な言動や、杖をついて歩くという「前かがみで宙に浮くような歩き方」。これらの属性がハンスの困難な暮らしを作り上げ、また彼をアスワンにしていた*1

 

 

一方。

困難な暮らしをしているハンスを扶助する人たちもいる。親友と親族の6人がそうで、彼らはこの身体障害をもつアル中の高齢者にたいし、米を与えたり小屋を与えたり精神的なサポートしている。

彼らにとってハンスの不利な属性はアスワンの根拠とならず、むしろ支援する根拠となっている。彼らはハンスをアスワンとは呼ばない、それどころかロウェーナという人物はアスワンだという噂に対して猛然と反発さえするのだ。

 

  ロウェーナが選択して行ったのは、アスワンの知識を適用しないという実践であ

 る。ロウェーナにとって、妖術師アスワンという「物語」はハンス老人に対して成立

 しなかった(東 2011: 165)

 

 

 

ただいま、2020年暮れの日本。

2000年代初めのフィリピンはどうだった?

 

アスワン。それは近代化してもなおフィリピンにいる妖怪。消えゆく前近代の迷信であるどころか、むしろその存在感は大きくなっている。

妖術は、客観的に見て誤りだったとしても、それを信じる人たちにとっては意味のあるリアリティ。ハンス老人の例からわかるのは、個々人が状況や関係性に応じてアスワンの知識を運用しているということ。それによって現実が多元的であること。

身体障害者のアル中老人というファクトは一方で排除の対象である妖術師というリアリティになって、また一方では援助の対象というリアリティを構築した。

 

じゃあなんで俺たちはリアリティを構築するのか。その答えはむしろファクトフルネスでハンスが述べていたように思う。

 

中立性を保ったドラマティックでない世界の姿は、正しくても退屈すぎる。ワクワクするような話やドラマティックなニュースに私たちはいつも気を取られてしまう(ハンス 2018: No.3927)。

 

この人間の習性みたいなんについては東(2011)もわかってたっぽい。考察部(p391-399)に似たようなことが書いてあるんだけど、俺には文章が難しくてな、とはいえ頑張って読んでみた。

 

「アスワンなどいない」とわかっていても近所のあいつがもしかしてアスワンだったらという恐怖感(リアリティ)はどこから生まれるのか。それは、合理的な思考や内在的な実践をルーティン化した日常が揺さぶられた時の隙間。その隙間から非合理な実践や超越的想像力が動き出す。揺さぶられてるからどっちがリアルでどっちがフィクションかは決定不可能となる。呪術とは「人を〈いまここ〉と〈いつかどこかで〉で、同化しつつ差異化し、そして拘束しつつ解放するアイロニカルな心意作用(p399)」。

 

つまり、人がリアルを見てそうでなかった可能性を想像する限りリアリティは不滅ってこと。

 

ハンスがファクトとドラマを用いて人間のものの見方の二極を提示したとするなら、東はその間にあるどっちつかずの領域、僕たちが実際に普段しているものの見方を提示したといえる。

 

客観的なデータと迷信めいた妖怪。一見真逆そうで実は似たようなこと言ってた。

 

実際のところ、ファクトとドラマをそれぞれが運用して各自が自分好みのリアリティを作り上げている。ファクトだけで生きてる人間もいないし、ドラマだけで生きてる人間もいない。

 

 

2020年の日本に引っ張ってくると、妖怪じゃないにしろ国とか通貨とか、あるいは終身雇用とか、人気のドラマってあるからみんなある程度リアリティを共有出来ててそれが今日の現実を形作ってんだなと思った(小並感)。

だとしたら今一番熱いドラマは鬼滅の刃とコロナってことになるな。不謹慎かな。

 

 

 

じゃ、そういうことで。俺七沢みあのVR観て寝ますんで。

おやすみなさい。

リアルな夢を。

 

 

・参考文献

東賢太朗(2011)『リアリティと他者性の人類学 現代フィリピン地方都市における呪術のフィールドから』三元社.

 

ハンス・ロスリング, オーラ・ロスリング, アンナ・ロスリング・ロンランド著. 上杉周作,関美和訳(2018)『FACTFULLNESS 10の思い込みを乗り越え、データをもとに世界を正しく見る習慣』日経BP社.

*1:これらの特徴はアスワンの一般的な定義とは異なる。こうしたアスワンを東は実体験に基づく個々の文脈に根差した経験談のアスワンとしている[東 2011: 102-114]