小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

虚無虚無プリンの治し方

 僕は、何がしたいんでしょう。

 という漠然としたことを中高六年間、あるいはそれ以前から考えていた気がします。

 

 人生の、比較的多感であろう時期でさえ答えが見つからないので、きっと僕は最期まで見つけられないのでしょう。もし大人になってから見つけてしまったら、それはきっとマヤカシの類です。僕はそんなに賢い人間じゃありません。

 それに、もし仮に僕固有の行動原理なるものが確立できたとして、それ以降の人生はきっと味気ないものになるでしょう。僕が人間である以上、その枠から出ることは不可能ですし、多かれ少なかれ他の人と似るものになるのだと思います。その時の僕の絶望感たるや。コスパ的にちょっと割に合わないんじゃないかと。こういうわけです。

 しかも、僕は環境を変えることができません。「僕以外の何か」を認識した時点でそれは「僕を形づくる1つの何か」となります。僕は僕とは別の、環境という色眼鏡を始終かけ続けているのです。そんな脆弱で矮小的な存在がどうして確たる価値を作ることができましょうか。

 

 

 見つけられるはずもなく、不確実で、環境によってどうとでもなる、このあるかどうかもわからない存在は、しかし同時に未来に対する希望でもあります。

 わからないからこそ、学ぶ意義が生まれます。その先でどう役立つかはわかりません。

 わからないからこそ、儲けようとします。そのお金をどう使うか、使ってからどう思うかは使わなければわかりません。

 わからないからこそ、他人との意思疎通が生まれます。僕が思いもしなかったことを貴方は当然のように知っているかもしれませんが、それは話してみなければわかりません。

 価値という幻想は時に甘く、心地よいもので、時に酒を飲むよりも根源的で高次の悦を感じさせるでしょう。そして、時にはそれ自身が崩壊しうるほどの痛みと苦しみを生むでしょう。

 しかしそれは非情にも、ある意味では慈悲深く、僕が見ていると錯覚しているだけの幻でしかないのです。

 

 さて、この公平で無責任な幻想が、自分の持ちうるものの全てであると信じられる状態こそ、「虚無」と呼んで差支えはないだろうと思います。虚無という語から、あたかも価値が消失しているかのような印象を受けますが、しかし、実際には認識してしまったが故に「気づけない」のです。己のすべてを知りつくし、それ以上の不確実性を望めないとする信仰は、一見正当な手順で政権を手中に収める、いつかの僭主のようです。この時僕は過去と現代だけでなく、未来までもを統べる一個の統治者となるのです。

 つまり独裁者。独裁者の何が悪いというのを、ここで長々と論じる気はありません……が、社会における公共性や個人の機会、公平性という基盤が担保されているのなら、僕はそれでも構いません。ただし、それは一般的に大統領であるとか名君であると呼ばれるもので、一般的に独裁者の欠点は結果としてそれらを担保することができないからこそ社会的な悪であると断じられているのでしょう。

 ここでの独裁者というのは、人間には当然不可能である未来の統治を、できているつもりでいる者です。彼は自分の立ち位置を履きちがえ、地に足を着けず、段階を踏まずに、自分の価値を絶対的で完全なるものと思いこんでいるのです。もはや、価値を道具として使っていた結果、自分自身が価値となってしまったと考えてもいいでしょう。

 しかし、これは当然の成りゆきともいえます。なぜならば、自分は自分であり、他人には成りえないからです。誰も自分の考えること自体を疑う者はいないでしょう。その「自分」への信仰は「価値」への信仰へと変わり、結果、独我的な虚無へと陥るのです。

 しかし、独裁政が貴族政へと移行するように、我々の精神も流転すると思われます。それは虚無へ陥った時の、あの嫌悪感を思い起こせば皆さんも共感できるのではないでしょうか。今日持ちうる自分の価値は、明日には別の何かになっていることが多く、去年持っていた自分の価値といま持つ価値は異なります。それが自然であり、たとえそれが虚無という価値が人間の形をした場合であれど、変わることはないでしょう。

 

 人間の精神が流転するのであれば、その原動力はなんなのでしょう。さきほど、自分は自分であり、他人にはなり得ないという一般的に知られた原則を挙げましたが、しかし他人から見た時の自分は、はたして自分なのでしょうか? 誰かに心からの好意を抱き、それが説明不可能な愛であると理解してしまった時、その原因は自分だけにあるのでしょうか? あるいは、自分の考えること自体に偏見がないとどうして言いきれるのでしょうか? 自分の「考えること自体」に、「やい、『考えること』。お前は一体何者だ」と問いたところで、何も反応がないことは自明なのです。

 自分という不明瞭な概念を懐疑した挙句、その不明瞭さ故に懐疑すら懐疑せざるを得ないのですから、これほど考えるのに無駄なこともなかなかないでしょう。原動力とやらはウチにあるのかもしれませんが、おそらく一生かけても語りえないのでソトを見てみましょう。

 

 他者とはもっとも身近な異なる価値の持ち主です。自分では考えつかないことを、他者は当然のように考えています。たとえば、一杯の湯気の立った珈琲が置いてあったとして、僕は「熱そうだね」と言っても、他の人からは「苦そうだね」と反応するかもしれません。けっして僕が「苦そうだ」と感じていないわけではなく、その人が「熱そうだ」と感じていないわけでもない。ですが、その優先度あいは人の数だけあることでしょう。僕は珈琲が苦いことを過去の経験から当然のことであると感じているからこそ熱さの話題を取りあげるのであって、もし僕が熱い珈琲しか飲んだことのない人間なら、ただ一言、「珈琲があるね」としか言えないかもしれません。

 

 両者の差は、対象にかんしての経験の差から生じていると言っていいのではないでしょうか。

 生まれてからまったく同じ経験を持つ者はおらず、したがって全く同じ価値を持つこともあり得ません。そして、それは過去と現在の自分についても同様です。経験は精神下での時間作用に依存するので、その表象は現在のこの瞬間であり、かつその実質は過去の経験により得た知識から成りたっています。精神下での時間作用が不可逆である以上、経験の産物の集合である実質は時間の経過とともに膨らみ、同時にその表象も多様性を増していくでしょう。経験は成長するのです。

 

 しかし経験は単なる知識の集合体ではありません。経験が経験たる所以は、バラバラな知識の集合体を統括する一定の法則性があるからです。貴方は文章を読む時に文字の一字一字を焦点に当てるでしょうか。貴方は数学の難しい計算をいちいち加法の定義やゼロの定義から始めるでしょうか。時に立ちかえることもあることは確かかもしれませんが、普段から大多数の人々がそれを一般測として受けいれていなければ、これほど効率的な世の中にはならなかったでしょう。自然に身を任せた時に湧きおこるあの「感じ」は確かに知識の集合体ですが、それと同じくらい法則として認識できるものです。そして、それは自分の本性から生まれた優先順位という意味で、ほぼ価値と呼んで差支えないものでしょう。

 

 では、その法則はどのようにして生まれるのでしょう。形作る要素が知識という単一的なものであることから、その間にある関係性を見つけるには複数の知識を「結合」させるか「比較」するかのいずれかであると考えられます。しかし、何と何を結合や比較の指標とするかはその人個人の過去の経験に依存するので語りえません。1つの指標として、僕は「有用性」を挙げたいと思います。

 ここでの有用性とは、単に金銭等の利益になるものだけでなく、それらによって自発的に感じる「喜び」であるとか「幸福」を意味します。

 たとえば、勉強は将来的な有用性があってこそするものです。学びで得た知識や技術は、将来職という形で金儲けの元手となります。他にも、その学問を勉強することで自分のライフスタイルを変えるきっかけを作ることもできます。変えたかったからこそ勉強したのであって、その動機はやはり有用性でありましょう。なにも座学にかぎったことではありません。部活動に入らざるをえないのは、留年を回避するために先輩とのコネクションを作り、過去問を獲得するためという有用性からです。

 有用性という基準は古今東西の多くの人々の価値基準としてその地位を占めていることでしょうが、これは2つの意味で道理に適っています。

 第一に、本来人間の生み出したある1つの基準であるにもかかわらず、それが時代に流されることなく留まりつづけていられるほどの重みを備えていることです。これは人間がその種の枠からはみ出ない限り斉一的に続くのだろうと思われます。古代の人々が宗教を人生の糧としえたのは、その時点での情報を最大限に利用した結果、それが社会にとって有用だからこそであると思いますが、これは現代人が金銭や道徳という、社会的に有用であると判断した価値を当然のように使用しているのと同じことです。

 第二に、その斉一性から過去に起きた出来事をサンプル化できるようになったということです。人間の価値は人の数だけありますが、それがソトの環境に依存してしまうのは述べた通りです。これを利用して、「ソトの環境の条件を変化させた場合、人間はどのような変化をするのか」を観察することで、過去に起きた失敗を回避することが出来ます。もちろん、その見方が一面的であるという批判は免れません(その批判も「有用でない」という認識から生まれています)。しかし、この世の全ての価値を以て分析にあたれば、それは神という絶対的な視点から見ると、不完全であっても人間にとっての完全足りえるものとなるでしょう。

 

 以上のことから、人間社会というのは有用性という基準で歴史のサンプル化を繰り返し、いま何を為すべきかを決定しているという側面はじゅうぶんに見て取れると思います。それは科学における実験であったり、政治学における選挙であるわけですが、その判断をもっとも公平に扱うためにはただ1つの人為的・主観的な操作があってはいけません。人間は全知全能たる神になることはできず、他人の価値をすべて知ることもままならない不完全な存在であるので、自分にとっての価値の情報開示を常にしなければなりません。それは一言で言うと「正直であれ」ということです。わからないものをわかったつもりでいるのは人類共通の罪で、わからないことはわからないとはっきり意識し、わかることとの区別をしたうえで観察と経験による反省を加えつづけるべきです。貴方は他人の価値観を「まったく理解できない」と否定することもあることでしょう。それは個人の価値(=過去に得た知識の関係性)である以上、当然のことです。共感しうる者とわかりえない者の差は、所詮「見えていない」部分の程度の差でしかありえません。むしろ他人の思想を完全に理解したと考えてしまった時は(たとえば読書は自分の思考を他人に自ら貸しだす行為であるので)虚無以上に危険でしょう。それはきっと自分を神だと思い込んでいるのに等しく、まさに痴愚神と呼んで「しかる」べきです。

 

 個人は互いに価値的に不完全であるという点で、完全な価値たる神の下に平等でありますが、しかし、実際問題としては人間の経験で生まれた価値や社会的慣習の下に平等です。法というのは思うにこの価値や社会的慣習を自由に作り出せる保障でなければならないのではないでしょうか。過去の経験から得た法則のうち、例えば有用的でないとみなされるものは禁じるべきでしょうし、有用であると判断された場合は推奨されるべきでしょう。しかし、それは全面的な思考・行動・選択の自由を基盤としたある種の部分的例外であって、それが全てではありません。

 

 教育は基盤となる自由の範囲を拡大させ、平等の質を高めます。学問は全て人間が自分の為に生んだ人間の知を、他の人にも理解されるように加工されたものです(それは一般的に“論理”と呼ばれています)。ですから、自分の基準をそれまでその学問を築いた人達の基準に合わせ、ちゃんとした手順で段階的に物事を進めれば、たとえこれまで全く考えつかなかったことでも価値を見つけることが出来る、他人に出来ることは自分にも出来る筈であるという、個人の自由な裁量に任された強い確信が持てるようになるのです。ここから、虚無を克服することすら可能な更なる一般則が出せると考えます。

 

 それは不確定なはずの近未来にまで理解することなく手を出すこと、つまり「とりあえず、やってみよう」とあえて不確定な行動をとることです。それは自分にとって現時点では有用ではないのでしょうが、他人にとっては、あるいはその時代にとっては有用なものであるかもしれません。そしてその要請された有用性に触れ、理解し経験することで、本来知りうることのなかった異なる価値を得ることができるようになるでしょう。それに触れた時、どれほど精神の流転する速度が加速するかは、まさに「やってみなくちゃ、わからない」のです。

 

 ここに、正当な手順を踏んだ過去・現在・(近)未来を統べる正当な君主が誕生するのです。君主というのはあくまで例えですが、これは論語の人格者「君子」にも当てはめられるし、勿論政治用語「君主政」における君主にもあてはめられるでしょう。ひょっとすると、本来あるべき「大人」の姿なのかもしれません。

 

 ……という、あと半年で成人する僕からの意見なのでした。(了)