小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

感想『闘争領域の拡大』―救いとしての『プリンセスメゾン』と美少女動物園アニメ―

「や、絶対イケる、ワンチャン。」

 と、ツイッターでエンカ予定の女子と恋仲になることを絶対的に確信する、つおおつの友人のG氏。ここまではG氏によくあることなんですが、その直後つおおつとG氏の先輩であるO氏が開いた言葉によって、つおおつとあの作品の出会いは起こるのです。

――「G君の人生は、まるで『闘争領域の拡大』みたいやなあ」

 

 どうも。つおおつです。今回はミシェル・ウエルベック著『闘争領域の拡大』を読了したので、その感想について書いていきたいと思います。

 

 

 

 この作品は、精神的に弱っている30歳のシステムエンジニア「僕」と非モテ小太りで顔も悪く性的経験がないにも関わらず様々な女性に猛烈にアタックする28歳の後輩、ティスランの二人を描いた作品です。

 「僕」は「性的行動はひとつの社会階級システムである」と定義し、また経済自由主義において何割かの人間が大きな富を蓄積する一方で、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せないのと同様に、恋愛自由主義においては何割かの人間は刺激的な性生活を送る一方で、何割かの人間はマスターベーションと孤独の日々を送るとしています。

 そして経済自由主義によって新しく闘争領域があらゆる社会階層の人に開かれたのと同様に、恋愛自由主義によって恋愛という新たな闘争領域があらゆる社会階層の人に開かれたとしています。

  ティスランは、この恋愛自由主義の下で負け続け、最後にはクラブでナンパしたがついてこなかった少女と、その少女をゲットした少年を殺そうと思い立ったものの殺すことができず、ほぼ自殺と言ってもいい事故死を遂げ、「僕」はうつ病が悪化し失踪する…といった形でこの物語は幕を閉じます。

 訳者である中村佳子さんは、ウエルベックの作品の語り部(主人公)は、いつも観察をしていて、その結果出口のない不幸のシステムを発見してしまう。しかし、ウエルベックの作品の語り部、ひいてはウエルベック自身に「同情」する能力があるからその不幸のシステムの渦中にいる人に、読者は感情移入することができる…と訳者あとがきで書いています。実際感想サイトやSNSでこの作品の感想を見てみると、この作品における「同情」により心を動かされている人は多く、一見正しそうに思えるこの見解。

 

 しかし、つおおつはこの作品こそ「同情」を装って、恋愛弱者をウエルベック自らの商品として「見世物」にする、まさに恋愛弱者にとって第五列である作品と考えます。

  その理由はなぜか。答えは簡単です。恋愛弱者のティスランに対して、ウエルベックは「ナンパ失敗からの殺人失敗からの、ほぼ自殺と言ってもいい、そして同僚の誰一人にも悼まれることのない事故死」という最悪のオチを用意したからです。

 つおおつは、「同情」にこそ「励まし」が必要であると思います。自分の貧しさを明るく生きる事によって、同世代の庶民を励ました林芙美子の『放浪記』などがわかりやすい例でしょうか。あれほど底抜けに明るいものでなくても、引きこもりをしている過程で病んでいる少女や夢を追う後輩と共になんとか生きていくことで、ほどほどの幸せを見つける『NHKにようこそ!』程度の励ましでも十分だと思います。

 ではなぜウエルベックの作品ではそのような「励まし」が皆無なのでしょうか。

 こんなことをわざわざ書くまでもありませんが、恋愛弱者と呼ばれるような人でも、社会に貢献している人はたくさんいらっしゃるでしょう。しかし、そのような人たちを描いた所で、大した反響は望めないと思われます。「恋愛敗北者⇒悲惨」を際立たせて徹底的に恋愛弱者を「見世物」とすることにより、読者への印象を深め、作品のセールスを稼がんとしているから、「励まし」が皆無なのです。

 一見「同情」をしているように見えて、「同情」する集団を自分の食い物にするような作品。このような作品は、性的弱者をかなり小汚く、話題になるように偏って描いたことが明白である中村淳彦著『ルポ中年童貞』より隠れてその意地汚さが存在している分よほど罪深いのかもしれません。

 このような作品に対して、つおおつのような人間がとれるのは、『闘争領域の拡大』は中古で買うか図書館で借り、本当に弱者、あるいは孤独なものに救いの手を差し伸べる作品を新品で、また電子書籍でも揃えることにより、市場の力によって、このような忌まわしい作品を目立たなくするような措置くらいしかありません。

 あなたがそうすべき作品、それは先程例にあげた『放浪記』や『NHKにようこそ!』でもいいかもしれません。ここでは池辺葵の『プリンセスメゾン』といわゆる美少女動物園アニメを紹介しておきたいと思います。

 

 『プリンセスメゾン』。これは、ある女性が、孤独に心を蝕まれることもなく、ただ毎日を一人で、精一杯生きて、その延長線上で一人で持ち家を買わんとする物語です。主人公の沼ちゃんは、非常に強く、でも優しい心の持ち主です。

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 沼ちゃんの独立独歩の姿勢こそ、『闘争領域の拡大』の何十倍も孤独に苛まれる人の助けになってくれることでしょう。(この作品については、過去にも記事にしたことがあるので、ぜひ時間のあるときにこちら*1も読んで頂ければと思います。)

 

 つぎに美少女動物園アニメ。美少女動物園アニメとは、アニメ監督の山本寛氏が使い始めた言葉で、彼によると、

私の言う「美少女動物園」というのは文字通り、美少女を動物園のように扱うことです。
美少女がパフォーマンスやアピールをすることなく、人間の精神活動を見せることすらなく、動物園の動物のごとく閉鎖された空間の中でひたすら食って寝そべって、それだけを延々と客が眺めるだけ。

ということで、つおおつとしては、美少女動物園アニメは、日常系アニメの下位カテゴリにあたり、「恋愛やその他ギスギスしすぎた人間関係など、視聴者が心的ショックを受ける要素が登場キャラクターに美少女しかいない事により全く無くなっているアニメ」と定義します。

 このジャンルはまさに先述した闘争領域の拡大に対して、その拡大の及ばない区域、すなわちアジールを作っていると解釈できるかもしれません。このアジールの下では、自由主義における勝者と敗者といった尺度は存在せず、ただひたすらに平穏な空間が保たれ、視聴者もその空間に存在しているかのような気持ちになれます。

 つおおつのおすすめは『きんいろモザイク』です。なんといってもキャラ立ちがよく、登場人物たちの高校生活は決して順風満帆ではないものの、視聴者には心的ショックを与えないという美少女動物園アニメとしてバランスのとれた金字塔だと思います。

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 いかがだったでしょうか。『闘争領域の拡大』に、共感される恋愛弱者の方も多いと思います。しかし、目を覚ましてください。ティスランが死ぬ必要があったのだろうかと。他の社会的な貢献や、仕事を生きがいにしてティスランが生きるという選択肢、つまり恋愛弱者に残された最後の希望「別のことに打ち込む」をなぜウエルベックは描かず、あえて死というものをティスランにもたらしたのか。そこに向き合うことで、この作品がいかに恋愛弱者を後ろから撃つような卑劣な作品であるということが見えてくるのではないかとつおおつは思うのです。