小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

「自称アスペ」はテリヤキバーガーか

 これはお前の話じゃない。

 

 コミュ障、アスペ、ADHD発達障害、鬱……あなたはどの病に苦しんでいるだろうか。

 いや、この聞き方は正しくない。あなたはどの病を選んだだろうか。

 本稿は上記の病気の存在を否定しない。

 理解なく甘えと切り捨てたりもしない。

 本稿で問いたいのは病を自称するという行為だ。ここでいう「自称」とは、その病気が自分にも当てはまる状況を経験しているが医学的な診断を受けてはおらず、自己認識に留まるという曖昧な領域だ。つまり、客観的に症状があるかどうかは関係なく、あくまでも自身でその病気にかかっていると思っていることが重要だ。

 病院で診察を受けたわけでもないのに、「私はコミュ障だから」とか「俺は発達障害かもしれない」という人間をけっこう見かける。そいつらを見ていて不思議に思うのが、彼らの態度から後ろめたさというか、苦しんでる感が感じられなかった。まあ見せないだけかもしれないけど、逆に「改善に向かってこういう努力をしてる」という話も聞かない。ただ「私はコミュ障だ」という自己診断で止まっている。さすがに霊が見えるレベルの嘘ではなく、生活のうえで経験した苦しみ、ある病気に当てはまるかのような状況が土台になっているとはいえ、主観の域を出ておらず、あくまでも自称アスペ・自称コミュ障でしかない。

 

 こいつらなんで自分の病気や障害を図々しく言って歩くんだ?

 病を公表するのにはリスクが伴う。ハンセン病患者は隔離という差別を受けてきたし、知的障害のある同級生のあいつは「たんぽぽ学級」という「特別扱い」を受けていた。精神病院は山奥に建てられている。なんらかの病、異常な状態にある人間は社会的な排除を受けるのだ。

 だから今、私たちは血眼になってマスクをつけている。

 このように隠すもの、遠ざけるものであるはずの病の中から、上記に挙げたようないくつかだけは積極的に選び取られ、公表できるという特権性を与えられている。

 病人とは思えないほど活発に自称して歩くが、そのエネルギーを改善には使わない。

 ならば彼らの目的は何か、あるいはこれらの病を自称することでいかなる効用が得られるのか、本稿はそれを探りたい。

 炎上するのが怠いから何度だって繰り返そう。私はこれらの病気の存在を否定しないし、苦しんでる人を傷つけたいわけでもない。

 本稿が対象とするのは自称〇〇だ。

 

 

 まずは自称される病気についてサクッとみていこう。鬱は別として、私が挙げたのがコミュ障、アスペ、ADHD発達障害。アスペとADHDは同じ発達障害という大きな括りの中の別タイプである。障害と名は付くが、生まれつきの脳の特性であり病気とは異なり、個人差も大きい。

 ADHDは多動・衝動性、不注意という症状を持つ。一方、アスペ(正式名称アスペルガー症候群)はかつて存在した障害だ。広汎性発達障害の下位診断として、自閉症などとともに位置づけられていた。だが2013年に国際診断基準が新しくなって(DSMって基準の第5版が出たってこと)、広汎性発達障害自閉症スペクトラム障害というカテゴリーに取って代わられ、複数の下位診断カテゴリーが再定義された結果、アスペルガー症候群という病名は無くなった。自閉症スペクトラム障害は「対人関係が苦手・限定された興味」という2つを満たすかが診断基準で、その診断結果はレベル1から4までの幅を持つ。この幅があるからスペクトラム(連続体)なのであり、恣意的に障害の有無を区分することは困難である(1), (2), (3)。

 自閉症スペクトラムというカテゴリーの誕生からわかるように、発達障害の示す「障害」の領域は、行政や専門家のサポートがなければ生活がままならないというレベルから、なんとなく周りとズレているなというレベルまで幅広い。換言すると、「普通学級の俺たち/たんぽぽ学級の彼ら」という単純な2分法では分別できないグレーゾーンにいる人たちを指す用語といえるし、あるいは誰しも多かれ少なかれ発達障害的な人であるともいえる。

 で、コミュ障は、コミュニケーション障害の略で、こちらも障害とは言うものの吃音とかの病気とも言語が話せないという類の障害とは異なる。「初めての場で上手く馴染めない」、「飲み会で盛り上がれない、会話が続かない」といった曖昧な出来ないという実感であり、その特徴は自閉症スペクトラムの特徴と類似する。個人的にインフォーマルな会話において、アスペとコミュ障にたいした違いはないと思う。

 そして障害というネガティブなイメージではなく性質の1つ、個性として捉えようとする風潮がある。有名人も発達障害を公表していたりする。

 

 

 香山(2008)は「私は鬱と言いたがる人たち」を論じた。従来の鬱病にくわえて新型うつが現代では増えてきている。新型うつは典型的な鬱病とは異なり、自分の好きなことをしているとき、楽しいことがあった時は症状が緩和するという特徴がある。そんな特徴があるために性格との区別が付きづらく、甘えだと言われたりもする。そんな状況下で表れたのが「私は鬱と言いたがる人たち」なのだ。

 まったく症状がないのに鬱と作為的に名乗れば、それは「詐病」という仮病だ。しかし「私は鬱なんです」と積極的にいう人は、確かに鬱病の症状をもつ。そして「治りたい」と口にしてもいる。とはいえ、結局なんらかの力が彼らを治療から遠ざけているというのだ。

 彼女によれば自称鬱にはつぎのような効用があるという(p81-90)。

 

不本意な状況を、自分の能力不足に帰属させず、自分も周りも納得するストーリーが出来上がる

・平凡でない個性的な自分というアイデンティティを持てる

・マイナスな要素をプロフィールにすることで注目や同情が得られる

 

 こうした効用は疾病利得と呼ばれるものだという。疾病利得があるからこそ自称鬱は散々自称する割に、医者に通ったり環境を変えたりはしない。ただしこの計算は無意識下でおこなわれている。本人は意識の上では「治りたい」と思っているのだが、鬱病であり続けることがなんらかのプラスに働くと無意識は察知し、鬱病の症状を作り出すのだという(ibid: 90)。だが専門家からすれば自称鬱と本当の鬱病は見分けることは可能だ。

 現代は鬱病を理解し温かく受け入れようとする動きが活発だ。それを悪用し、鬱病の診断書を会社に提出し社内でわがままを通す社員さえもいる。松葉づえや痩せたという症状と違い、鬱病は外から見てわからないからうってつけなのだ。そうした現状も鑑み、香山は鬱病が普通の病気であること、誰しもにかかる可能性があり、普通に治療すれば普通に治る病気であることを本人や周囲、社会が認識してほしいと結論している(ibid: 終章)。

 

 鬱を自称すると上記のようなメリットがあり、それは周りの人間が鬱を特別視するほど大きくなると考えられる。自称鬱の要点は外見からじゃわからないという点だろう。

 香山は自称鬱に焦点を絞って論じた。とはいえ本書においては類似の役割を持った病として「アダルトチルドレン」や「多重人格」というものも挙げられている。個人的には80年代にあった「パラノイアスキゾイド」というカテゴリーも同様であると思う。鬱に限らずとも精神疾患を自称すれば、同様の疾病利得を獲得できるだろう。

 

 

 香山の報告から9年。

 精神疾患精神障害は身近になった。ネットやSNSにはその手の診断が溢れかえっているし、私たちは会話の中でしばしば使う。それらはもはや原義からずれ、正式な病名ではない。

 なんか話の通じないやつがいたら「私/あいつはアスペ」。飲み会で盛り上がらない人がいたら「あいつ/自分はコミュ障だ」。精神が不安定な時は「病んだ、ヘラってる、鬱」。ネットのコミュ障診断やら発達障害チェックやらをやってみてその気があるのかと思ってみたり。

私たちが日ごろ使う「メンタルヘルスを損なった状態」を表す用語を定義し、メンタルヘルススラング」として包括的に理解しようとしたのが松崎(2017)だ。メンタルヘルススラングは公式な診断ではなく、非公式の場で使われる率直な表現方法だ。

 彼女が論文中にて列挙したメンタルヘルススラングは以下の10個だ。

 

「プチうつ」 「アスペ」

「コミュ障」 「かまってちゃん」

アダルトチルドレン」 「多動」

「メンヘラ/メンヘル」 「依存症」

PTSD」 「対人恐怖症」

 

 新聞紙や雑誌、一般書、インターネットサイトと女子大生とのディスカッションとして抽出した(ibid: 200)そうだが、個人的に「メンヘル」と「多動」と「PTSD」は聞いたことがない。男女の差もあるのかもしれない。病気じゃないけどHSPも入れちゃっていいんじゃないかしら。

 松崎自身の調査でもばらつきがあったようで、それをふまえて私なりに考えてみると、「アスペ」、「コミュ障」、「かまってちゃん」、「メンヘラ」、「依存症」、「対人恐怖症」が筆頭といえそうだ。

 松崎の調査によって得られた知見は以下であるといえる。

 

 女子大生にとってメンタルヘルススラング

 ・他人ではなく自分のことを説明するために使う

 ・もっとも使うのはコミュ障である

 ・深刻に聞こえすぎないようジョークとして使う

 ・自分を表現しやすい

 

 メンタルヘルススラングは使いやすいラベリングであって、文字通り病気として受け取ってはいけない。それらは性格の延長にあるのだといえる。スラングというだけあってかなり手軽な使われ方をしている。

 一方で松崎(2019)はメンタルヘルススラングに潜むリスクを指摘してもいる。メンタルヘルススラングを使うと、目の前にある困難を簡単に説明できてしまう。そのため問題自体に向き合う機会を失い、ときに解決しようとする前向きな姿勢を損なう可能性があるという。また、流行し定着した言葉でセルフラベリングすることで、体験や行為をその人も気づかぬうちに型にはめてしまう可能性もある。こういう自分を一定の型にはめる物語を、ドミナント・ストーリーっていうらしいですよ。私とはこういうものだと信じてるってところが要点で、「私はコミュ障だからテニスサークルなんか入れない」と自分で自分を規定するからその人は文芸サークルや公務員志望になるわけです。

 

 

 自称〇〇を香山が病人の延長上に置いたのに対し、松崎は性格の延長上に置いた。私たちの用法に近いのはメンタルヘルススラングだろう。

 メンタルヘルススラングは、自己や他者を紹介するときに使われ、最も人気なのはコミュ障で、ジョークとしての軽さを備える。そしてその効用とは、自身を他者にそして何より自分自身に理解可能なかたちにすることといえる。精神疾患ないし気分の落ち込みは外見からは判断がしにくく、また発達障害やコミュ障のような漠然とした違和感は違和感のまま抱えていると辛い。そういう時に使うのがメンタルヘルススラングである。だが、アイデンティティの一部として人格を形成しうるために、かえって自分を社会的な鋳型にはめてしまう危険性を持つ。

 

 

 当初、「なんでこいつらこんなに自分の障害を言って歩くんだ?」という素朴な疑問を動機に書き始めた本稿は、香山と松崎の研究によってあらかた解決してしまいました。びっくりしたよね、まさかメンタルヘルススラングなんて概念がすでにあるとは思わんかったよ。

 要するに、鬱やらコミュ障やらアスペやらを自称するやつらの目的は、ちょっと特別な自己を獲得したいというものである。正式な病名をもって線の向こう側に行きたくはないが、かといって標準に埋もれるのも嫌だ。あわよくば、標準的な人間が負うべき労苦を免除されたい。発達障害系のメンタルヘルススラングに限っていえば、あの成功した有名人と自分を同一視するなんて効用もある気がしないでもない。まあ、とにかく今挙げたこれらのことがメンタルヘルススラングを自称する効用であるといえよう。

 

 

 なんか、予想内に収まった結論しか出なかったな。

 つまんね。

 なのでここからは、メンタルヘルススラングをなぜ大学生が使うかについて考えてみたいと思う。メンタルヘルススラングは「主に20前後の若者が使う用語(松崎 2017: 200)」だ。15歳でも25歳でもなく20前後の大学生の若者だけが使用するこのスラングは、あたかもその世代だけの共通語のようである。ということは、この世代だけが共有している「普通の人間」像というものがあり、そこから自分が外れているなと感じたときにメンタルヘルススラングを用いて自己を説明するのではなかろうか。

 その「普通の人間」とはすなわち就活で求められる「社会人」なのであり、大学生が「私ってコミュ障だから」とか「俺ちょっとアスペ入ってるんだよね」なんて自己紹介するのはそうした社会が押しつける鋳型への抵抗であり、その実践は翻って「社会人」という存在の虚構さを明らかにする。そう言ってしまうと、あまりにも短絡的で頭ハッピーセットな結論である。

 

 70年代から始まったらしいグローバル化は冷戦終結後に顕著となったが、結局のところアメリカ化でした。ジーパン履いてマクドナルド食ってコカ・コーラ飲むっていうのが「理想」として世界中に広がり世界の文化が均一化してしまうかに思えたが、どっこいローカルな人たちもたくましく、アメリカの文化を直輸入するわけではなく、各地の文化に沿うように作り変えた。このグローカリゼーションという動きは、とはいえ、アメリカの文化に抗するという受動的なものであり、結局のところグローバルに従属しているのだ。

 日本においてその象徴といえるのがテリヤキバーガー。アメリカから来たハンバーガーにジャパニーズトラディショナルテリヤキソースが塗られているわけで、それはアメリカの文化と日本の文化が合わさった新しい食べ物だ。とはいえハンバーガーという大枠は受容しているので、テリヤキバーガーはアメリカの文化に反応して作られた従属的な産物といえる。

 メンタルヘルススラングを使う大学生にも同じことが言える。自称アスペにしろコミュ障にしろ、コミュニケーションを重視するという価値基準を受容したうえでの自称なわけで、それはどこまでいってリア充大学生に従属する存在なのだ。スラングとしてのアスペやらコミュ障やらは、リア充ないし社会人というアメリカに反応して生み出されたローカルな人間像であり、それもそれで鋳型なのである。

 あいつらとは違う特別な人間を目指して自称していたつもりが、いつのまにやらあいつらの劣化版になってしまった。それが嫌なら、数を増やすしかない。あなたも私もコミュ障という風にすれば、少なくとも劣位に置かれることは無くなる。なぜならそうなった時点で、コミュ障は人間のパターンの1つになったからである。自分の言いたいことを上手く伝えられず、相手の意図がわからないときがあり、気分が滅入る日もある。もはや「普通の人間」だ。普通から逃れるのはかくも難しい。

 ONIGIRI食って寝よ。

 

 

〈参考文献〉

香山リカ(2008)『「私はうつ」と言いたがる人たち』PHP新書

松崎良美(2017)「“メンタルヘルススラング”を定義する:都内女子大生を対象とした横断研究より」津田塾大学紀要(49), pp197-216.

    (2019)「メンヘラ、コミュ障を『自称』することの、知られざるリスク」現代ビジネス

         https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66742 (2020年7月18日閲覧)

 

〈参考サイト〉

(1)厚生労働省 “発達障害

       https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_develop.html (2020年7月26日閲覧)

(2)e-ヘルスネット “ASD自閉症スペクトラム症、アスペルガー症候群)について”

        https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-005.html (2020年7月26日閲覧)

(3)日本医事新報社 “DSM改訂によるアスペルガー症候群診断の変更点”

        https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=8219 (2020年7月26日閲覧)