小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

電子感想戦 第1回 田山花袋『少女病』(2)

 前回に引きつづき、電子感想戦の議事録を掲載したいと思います。人数も増えて感想戦はさらに盛りあがりを見せました。具体的なテクストの読みこみは複数人ですると1人でするのとはまた違った楽しさがありますね。

 参加者:10nies(以下、10)

     エチゴ二ア(以下、ヱ)

     モロトフ・カクテル(以下、モロ)

     つおおつ(以下、鳥)

     てねてんね(以下、て)

     航空志望(以下、航空)

      

 

少女病』の空間構造
 10:夜の部はいったんテクストを順々に読みこんでいきたいと思います。まず最初に主人公杉田の住環境から見ていきましょうか
 ヱ:千駄ヶ谷に田んぼってのは時代の違いを感じますね
 航空:「淋しい田舎」であると表記されています
 鳥:千駄ヶ谷から角筈の工場。眺めいいですね~
 10:当時の山手線はルートが違うんですよね。1行目からギャップを感じます
 鳥:そうなんか、具体的に教えてください
 10:まず「山手線」という呼称が誕生したのがこの作品内の時代(1907年)の6年前です。当時はまだ代々木駅に山手線が停車していません
   現在の環状運転を始めたのは1925年からです。おそらく作中では赤羽から品川、池袋から田端を行き来していたと思われます
 モロ:そんな昔の作品だったのか……語群からつい最近の作品かと……
 10:杉田のまなざしがあまりにも現代的ですからね(笑)
 航空:女性に対する形容がいわゆる「今っぽい」からだと思われます、背景描写の本題からは少し離れますが
 10:ええ。個人的に当時の男性がどれだけ乳房にフェティシズムを感じたかが気になりました。着物は一般的に胸が大きくないほうが綺麗に着こなせるというので、江戸までは少なくとも着こなしの面で見ると胸が大きいことはディスアドバンテージだったはずです
 ヱ:ブラジャーは1907年にはまだ無さそうです
 10:なるほど……そもそも近代以前には下着がなかったですし、江戸時代の日本人の肉体を鑑みても要らなかったですよね。おそらく明治維新以降も栄養状況はさほど変わらなかったと思いますが、女学校にいけるような家の娘なら意識できるほどの発育をしていたのかもしれない……
 鳥:ちなみに、1905年における女子の中等教育進学率は5%となっているので、作中に出て来る高等女学校の生徒は今風に読み替えれば大学院生でしょうか。にしてもかなりのお嬢様ですね。萌え
 航空:私としては文中に多用される「肉」という表現が気になりました。特別に乳房について、というフェティシズムではなく、ふっくらとしている女性に対しての意識が大きかったのではないでしょうか
 鳥:そのあたりは、当時どのような人が一般的に魅力的な存在とされていたかが分かる資料があれば、面白いんでしょうけど…今度探してみたいですね
 10:ですねえ。当時の男性のフェティシズムは調べてみたいです
 ヱ:「この男の姿のこの田畝道にあらわれ出したのは、今からふた月ほど前」というのは、引っ越したばかりということだと思うんですけど、この時代引っ越しは普通にあったことなんでしょうか
 10:引っ越しが一般的だったかどうかはわかりませんが、当時の代々木はピカピカの新興住宅地でした
 ヱ:なるほど。新築に引っ越したばかりなのに死にたい死にたいと思考を巡らせ、ついには事故死してしまうんですね。残された家族がかわいそうです
 10:それはまったくです。そもそも代々木駅の開業が1906年9月ですから、10年前のつくばエクスプレス沿線のような感覚でしょうか
 鳥:前半では至る所でこの辺りの新興住宅地感が醸し出されてますね
 10:具体的にどこらへんでしょう?
 鳥:植木屋の描写、武蔵野のなごりのかなたに貸家建ての家屋が五、六軒できたところなどですかね、新築の医者の構えの大きな門、なども…
 10:確かにそうですね。杉田の住む貸家建てが「粗雑な普請」であったことからも、けっこう急ピッチな開発だったのかもしれません
 ヱ:急ピッチに都市を拡大する必要があったのは、地方から都市に人口が移動してきたからですか?
 10:男が地方出身者か否かは、定かではないですね。1907年の直近3年は1年で10万人増となっていたようです
 鳥:今調べた所だと、1876年から1920年で東京の都市人口は大まかに2倍になっています。所謂三大副都心のあたりだと、明治期は酪農をやっていたということも知っておくと面白いかもしれません
 ヱ:スプロール化はその頃からですかね。スプロールには浪漫を感じます
 10:貸家建てが複数棟できているのなんて、その先駆けって感じしますよね
 鳥:そろそろ第二節いきましょうか
 10:さて、杉田の通勤ルートは国有化されたばかりの「甲武線」で代々木駅からお茶の水駅まで向かってから路面電車に乗って神田錦町にある出版社へ向かうといった感じです。外濠線、という路面電車が出てきますがこれはかなり短命というか短期間の名称です……杉田が乗った外濠線にあたる路線をのちの都電にあてはめると、錦町線があてはまりそうです。錦三丁目が開業したのは1904年末ですね
   もうちょっと詳しくいうと、外濠線はさまざまな系統をごっちゃにしたもので、それが細かく分かれたのだそうです。錦町線はその一部でしょう。ちょうど始発駅はお茶の水駅ですし
 モロ:御茶ノ水までくると親近感湧きますな 落ち着いた文芸の世界って感じで
 鳥:そういえば杉田が使ってるのは定期券じゃなくて赤い回数切符なんですね
 航空:この時代に定期券というものはなかったのでしょうか?
 鳥:今調べた所、通勤定期券(にあたるようなもの)の導入は、1908年らしいです
 10:おお、では定期券のない最後の時代ですね
 航空:ちょうどない時期なのか、あったとしても親しみのないものであると考えられますね
 て:こんばんは。流れ概ね把握しました
 10:おお、こんばんは!
 航空:こんばんは~
 モロ:ばんはー
 ヱ:遅れたけどこんばんわ


少女/女性の相貌
 ヱ:少女は牛込で降りる様ですが、当時牛込周辺に教育機関はあったのでしょうか
 10:牛込は現在の市ヶ谷なんですよね。教育機関ということなら、おそらく日本大学の前身がありました
 モロ:日大の役員の身としては一応馴染みありますね。といっても、学祖・山田顕義日本法律学校を作った、その後色々あった、くらいしか知識ありませんが
 ヱ:東京女子師範学校ですか
 10:いえ、すでに東京女子師範学校は東京女子高等師範学校に改称され、お茶の水に移転されています。お茶の水駅の少し北にあったようですね
 鳥:そもそも、この牛込で降りる少女については、毎朝会うわけでもない、二十ニ、二十三といった描写から、学生である可能性が薄いのでは、もっとも大学生ならあり得ますが
 ヱ:そうですね「もうどうしても二十二、三、学校に通っているのではなし」という描写がありました
 10:もうすでに市ヶ谷のあたりなら発達していますからね。勤めていたのかもしれないし、習い事でもあったのか……
   いや、これはちょっと読み違いをしていますね。「もうどうしても二十二、三」の女性は「千駄谷の田畝の西の隅で、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘」で、牛込で降りる少女は「肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘」という違う女性です
 ヱ:ほんまや
 10:二で留針を拾い、声をかけたのは牛込で降りる少女です。「信濃町から同じ学校の女学生とおりおり邂逅」しています
 ヱ:じゃあやっぱり学生か
 10:妙ですよね。なぜ同じ学校なのに三駅も離れている牛込を利用しているのか。少なくとも信濃町から出ている路面電車青山通りから四谷三丁目を経る信濃町線のみです。それを利用していたとなると四谷三丁目から新宿~半蔵門を走る新宿線に乗ったと考えられるので、もしかしたら麹町学園かもしれません
 鳥:ん、その人が信濃町に住んでいて、牛込に学校が有って、信濃町乗車で代々木から乗車してる女子と合流するんではないのか
 10:ああ、確かに文章読むとお茶の水方面に走る列車で信濃町で合流してますね。ただ日本大学(旧制専門学校)は当時女子を受けいれていなかったそうです。1920年が初の女子生徒受け入れのようですね。となるとどこか少し離れたところへ通ったのか……もしかすると三輪田かもしれないです。ちょうど市ヶ谷と牛込のあいだぐらいですね
 ヱ:ちなみに、当時日本ではまだアルミニウムの精錬は行っていなかったはずなので、少女のアルミニウムのピンは輸入品かもしれません
 10:そうだとするとすぐれて記号的ですよね。舶来品のヘアピンなんて
 モロ:舶来品ということは、良家の子女だった可能性も。当時は普通の学校ですら学費高そうだし
 鳥:先程も書きましたが、女子の中等教育進学率は5%ほど。今の大学院程度です。師範学校なら学費+生活費を国が出してくれるので例外ですが、普通の女学校ならお嬢様と言って差し支えないでしょう
 10:そりゃあそうでしょうね。現在より「少女」という身分があやふやというか、ステイタスに近かったので
 ヱ:やっぱりお嬢様=萌えですね
 10:当時(明治後期)、少女の一生を疑似体験できる双六が出たのですが、そこでは面白いことに「都会」か「田舎」でスタートが別れているのです。「都会」は「音楽」、「編み物」、「小学校卒業」から女学校に行けるのですが、「田舎」から女学校に行くためには「田舎」の「小学校卒業」から「都会」の「音楽」に運よくコマを進める以外手段がないのです
   ここから当時の「少女」がいかに高いステイタスであったかがわかりますよね。「少女」は単に年齢による若さだけではなく、都会的で、お金持ちで、教養ある偶像だったのです。女学校に進むために「音楽」、「編み物」が必要なところからもそれが伺えます
 ヱ:なるほど。少年はいても少女はまだレアだったんですね
 10:そうですね。ただ作中の描写で面白いのが少女が溌剌としているんですよね。当時の女性像、少女像を形成するにあたって西洋医学の見地から月経に着目し、女性を「潜在的な病人」に仕立て上げているのですが、その過程で芸術作品においても弱弱しい、加護すべき女性がけっこう目立つんです。「深窓の令嬢」なんて言葉も、どちらかというと動ではなく静ですよね
 鳥:それは自然主義ということと関わりがありそう、男の枠にはめない、本当の少女を、ありのままの少女を描きたかったのでは
 10:それはあるかもしれませんね。テクストだけを読めば男性がまったく干渉しない少女を描いていますし。まあ、花袋が活発少女にフェチを感じていたら話は別ですが……(笑)
 モロ:「肉づきのいい、頬の桃色の、輪郭の丸い、それはかわいい娘」ってどんな感じの娘でしょうか 昔は太ってる女性がモテたと言いますけど、この時代はどうなのか
 10:栄養状態が今よりもよくなかったので、「肉づきのいい」の基準が今とは違ったのかな
 モロ:つまり今の普通?
 10:なのかなと
 航空:痩せている、ということ自体が貧相であるというネガティヴな意味を持っていたのかもしれません


顕在化するまなざし
 ヱ:杉田さん越してきて2カ月前後なのに、描写ではあたかも昔からのルーチンであるような印象を結構受けました。あと、2カ月で「冬の寒い夕暮れ、わざわざ廻まわり路みちをしてその女の家を突き留めたことがある」なんてなかなか行動派ですよね
 モロ:ストーカー規制法が出来たのはごくごく最近ですけど、当時はそんなことは気にされなかったんでしょうか 作品は違いますけど、江戸川乱歩の「少年探偵団」も尾行してますよね
 10:「ストーカー」という概念がそもそも定着していなかったのかもしれません
 モロ:その時代生まれたかったなぁ……好きな娘をいつまでも見ていたい……
 10:さっきも言ったけど、杉田のまなざしが当時にしては斬新なんですよね
 モロ:生まれた時代が正解だったのかな
 10:とはいえ当時の男性がそういうまなざしを持っていなかったわけではないのです。当時のお茶の水付近を走る電車は通学時間帯ともなると女学生がたくさん乗って「花電車」と呼ばれていたそうです。この名称こそ、当時の男性の心象を体現していると思います
 航空:風情があっていいですねー
 て:具体的に言語化したことが斬新ということですか?
 10:はい、そもそも女学生の集団がそう言語化されるということは、そういう認識を持たれたと見ていいと思うのですが
 て:主人公の異常な描写と同時に、女学生に対して当時の多くの男性が持つ心象を改めて体現することで、男性読者自身の狂気性に気づかせるのに効果的になっていると云える気がします
 鳥:主人公自体を異様に書いたあとで、大抵の男性がしてるであろう女学生の視姦という行為をさせているのは面白いですね
 て:自然主義文学という形式は、読者の狂気性を相対化するのに好都合ですよね
 10:登場人物≒作者をナチュラルに描き、それにツッコミを入れたり同感したりすることで読者の思考をあぶりだしているということでしょうか
 て:そうですね。登場人物の思考がナチュラルに描かれ、しかも自己完結しているというという点が、特に狂気を描くのに好都合であると思います。ナチュラル、つまり主観的であるからこそ、読者が客観的な視点で見やすい気もします
 10:反駁する人間の不在が異常性を顕在化させているのは、あるかもしれません。客観的に狂気性を判定できるのは、杉田の行動がティピカルな男性像であるからですよね
 て:チェスタトンが、「狂気の最大にして見まごうかたなき兆候は、完璧の論理性と精神の偏狭とがかく結合していることにある」と言っていますが、反駁する人間の不在は、完璧の論理性の印象を読者に与えますよね。実際に完璧な論理かはともかくとして
 10:論理性の保証という面で見ると、この作品は高いですね。最後に死んでいるあたり取り付く島もないですし
 ヱ:よく読んだら杉田の細君まだ25、6ですね。それでもう老いているとは……
 鳥:二十ニ、三の女性にときめく一方で、二十五六の女性にときめかない。彼にとっての線引は年齢じゃなくて、所帯じみてなさかもしれないし、現代のロリ界隈の一派のように、年齢による厳密な区分けがあるのかもしれません、はたしてどっち?
  ただ、三章で細君の所帯じみた描写をわざわざしているということは、杉田にとって所帯じみてなさは重要なファクターだったのではないかと想像されます。家庭に入る前の少女は素晴らしいのに、それが家庭に入ってしまうと興ざめ。名門高校少女は素晴らしいのに、名門大学女子は興ざめ。身につまされます
 ヱ:それはありそうですね
 10:年齢はあまり関係なさそうですよね。なんというか、年齢が重要な属性になっていない
 て:その辺の主人公の感覚は、読者が安易に共感できない点に効果がある気がします。当時の読者の感覚分からないですけど
 鳥:少女/細君という二元論ならともかく、嫁や細君を地女として、遊女を恋愛対象として見るという考えは、江戸時代から普通にありますね、少なくとも細君に欲情しづらいというのはこの時代のコンセンサスじゃないかなと、その点で言うと恋愛結婚なのもほりさげなきゃ掘り下げなきゃいけない所だと思いますが
 10:「読者の狂気性を相対化」する効果ってことですかね
 て:そうですね、作者がそれを狙っていたかどうかは議論できないですが、その相対化に関して効果的になるように、小説全体が作られているように感じます
 ヱ:普段とは違う「それは不器量な、二目とは見られぬような若い女」が電車に乗ってきたのにはどのような役割があるのでしょうか?
 10:相対化による強調でしょうか。細君もそうだと思います。今でいう合コンの引き立て役でしょうか
 ヱ:細君とは登場する状況が違うので役割も異なるはずです
 鳥:細君と少女の対比、少女というカテゴリーの中での対比だと思います。でも前者はともかく後者はもうちょっと掘り下げるべきな気がします。対比というには不器量な少女の描写が少なすぎる気がするので
 ヱ:描写量が少ない割に、強烈な表現を多用しているように思えます
 10:記号をとりあえず寄せ集めた感がありますよね

 

静物の物語る世界
 10:さて、いったん作品の読み進めに戻りましょうか。杉田は作中で37歳。小説が売れなくなって青年社という雑誌社に勤めています。現在の彼について、三で友人が話しています
 ヱ:デカダン、~論、~万能といったような表現は、いかにもこの時期の作家だなあという雰囲気を感じます
 10:~論って新しい言い方ですよね。「的」は明治時代からもてはやされたというのは知っているんですが
   あと、気になった言い回しでいうと「身を傷つけた」ですかね。婉曲的な表現として一般的だったのか、それとも花袋独自のレトリックか……
 モロ:最近の、何でもかんでも「主義」をつけるのと同じような感じでしょうか 民主制→民主主義、みたいな
 10:とりあえず昨日の最後のほうで話しかけたことから。便利な言葉なので一気に使われるようになったんでしょうね。三の杉田の家、客間兼帯の書斎の描写から杉田自身の描写へと移り、友人の話へと移ろう部分は悲哀を誘いますね。
    「家の南側に」から始まる段落、細君と子供たちを書いていますが、次の「客間兼帯の書斎」との対比が余計に。当たり前といえばそうなんですが、この作品はけっこうわかりやすく二元論的な配置をしているように思えます
 ヱ:細君と子供たち、それに対する客間と書斎は、どのような対比を表しているのでしょうか?
 10:各々の形容から読みとけると思います。細君は「着物は木綿の縞物」、髪型は「やや旧派の束髪」です。対して客間と書斎にあるものは「ガラスの嵌まった小さい西洋書箱」、「春蘭の鉢」です。所帯じみているか否か、もっというと肉体的/非肉体的と配置できるかな、と……あとは、ありがちだけど東洋/西洋ですかね。春蘭の鉢は非西洋だけど
 ヱ:客間・書斎については「幅物は偽物の文晃の山水」であり、「春の日が室へやの中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが好い」とありますが、そこらへんは細君と子供たちへの対比としては弱く感じます
 10:対比という言葉がふさわしくなければ、客間・書斎が杉田のパーソナル・スペースとして一線を画す空間となっていることにより、所帯じみた家庭と差異が際立っているという感じでしょうか
   肉体的/非肉体的という面で見ると、「末の男の児が、かアちゃんかアちゃんと遠くから呼んできて、そばに来ると、いきなり懐の乳を探った。」と、ここの部分は地味にいろいろと読める一文だと思います。母に甘えるというありきたりな場面ですけど、肉体に触れることができているんですよね。対して杉田はけっして少女の肉体に触れることはない。具体性に対する杉田の抽象性がより一層露わになっているとは見えませんか?
 ヱ:少女に留針を渡すのは、杉田による接触とはまた別でしょうか
 10:子供が乳房と触れることは、杉田が留針を渡すことと同意ではないのかということですか?
 ヱ:そうですね。杉田との対比として書かれるなら、杉田が接触を持った理由は何なのでしょうか。杉田は唯一留針を渡す時のみ、少女と接触を持っています。例えそのことが杉田の少女病を進行させているとしても、わざわざ接触を持たせた理由は何なのか、気になります
 10:前日のオナニズムと関連しますが、小説の効果としてはまったく無関係であるよりも少しだけ接点があったほうがより妄想が膨らみますよね。杉田の少女病悪化の一里塚としての接触ではないかな、と
 ヱ:友人も「先生のはただ、あくがれるというばかりなのだからね」と言っていますが、ストーカー(=能動的)をしたりと、その線引はどこなんでしょうか
 10:難しいですね……杉田自身も「電車で女を見るのは正面ではあまりまばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに斜に対して座を占めるのが一番便利だ」といったり、「柔かい着物が触る。えならぬ香水のかおりがする。温かい肉の触感が言うに言われぬ思いをそそる。ことに、女の髪の匂いというものは、一種のはげしい望みを男に起こさせる」としてみたりでブレブレなんですよね(笑)
 ヱ:それに「若い美しい女を見ると、平生は割合に鋭い観察眼もすっかり権威を失ってしまう」わりには「この男は若い女なら、たいてい……中略……何かしらの美を発見」するとあって、それはどうにも優れた観察眼であるように私には思えますよ
 鳥:観察眼については、若い美しい女以外に対するものではないでしょうか。文中でしばしば自然の美しさ、そしてそれに目を向けない杉田について指摘されている気がします
 10:美女・美少女以外はピンボケのようにあやふやになってしまうということですかね。確かに風景描写が杉田視点であるとすれば、微細に目を配ることができているのに少女が出てきた途端少女にのみ固執しています
 ヱ:なるほど。しかし杉田の少女小説はやはり「観察も思想もないあくがれ小説」ですよね
 10:そうですね。勤務中でも暇を見つけては「一生懸命に美しい文を書いている」ようで。しかも「少女に関する感想の多い」ようですし。重症ですね(笑)
   本当にそこは読んでて首を傾げたくなりましたね。昨日の夜の部でてんね君が指摘していたのを振り返るに、杉田の行為を客観的に読者が読むことによって、改めてその異常性がわかると捉えられるかもしれません。さきほど細君と子供たち/居間と書斎で対比を試みましたが、居間と書斎/雑誌社のほうがより露骨です。具体的には明るい/暗いですね。自宅のほうは「春の日が室の中までさし込むので、実に暖かい、気持ちが好い」、雑誌社は「編集室は奥の二階で、十畳の一室、西と南とが塞がっているので、陰気なことおびただしい。編集員の机が五脚ほど並べられてあるが、かれの机はその最も壁に近い暗いところで、雨の降る日などは、ランプがほしいくらい」とある
 ヱ:「総領の女の児」は「千駄谷の田畝の西の隅すみで、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家」の児でしょうか
 10:普通に読めば、そうですよね。ただそこもすごく妙だなと思います
 ヱ:あ、総領って長男長女のことか
 10:言葉のギャップにやられましたね。じゃあ普通の家族団欒ってことだ
 ヱ:「千駄谷の田畝の西の隅すみで、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家」の方も、総領娘は総領の娘ではなく、長女のことっぽいですね
 10:そうなりますね。いやはや昔の話を読むときは注意しないといけないことが多い……
 10:季節が春っていうのに、なにか意味合いはあると思いますか?
 ヱ:どうでしょう。春は陽気ですし、(当時は分からなかったでしょうけど)生体ホルモンのバランスが崩れやすく精神疾患を起こしやすい時期ですね。発表したのが5月1日らしいので、単純に書いた時期が春だった影響かもしれません。
 10:発表した時期を鑑みて単純に春、執筆していたからというのはわかりやすいですね。個人的には「春」から想起されるイメージが、少女の縁語のように働くからなのかとも思ったのですが……ほかの方はどうでしょう
 モロ:春は夏ほど情熱的でないので、話がこれから進展する印象を受けました
 10:なるほど。確かに夏よりは穏やかですよね。話がおおまかに見て杉田の逡巡に終始しているのも春という季節ならではという感じがします
 モロ:ただ、春夏秋冬の4つだと気づかないけど春の後は梅雨があるんですよね 死はその暗示かも この前の分岐にも被りますが
 ヱ:四の最初の方で出てくる、走馬灯という表現が気になりました。現代では走馬灯は死につながりますが、この連想が発生したのはいつなのでしょうか。また、走馬灯は夏の季語でもあります
 10:走馬灯を人生の比喩としたら、文中の走馬灯である「無言の自然」よりも少女を選んでいるので、自分の人生よりも少女のほうが大事だ、と読むこともできるかもしれません
 ヱ:なにせ憧る程ですからね
 10:ですよね
 モロ:ただ、爽やかさで言ったら恋話って初夏のイメージなんですよ。春はなんというか、冬が抜けきれてない毒々しいイメージ
 ヱ:時期を正確に考えるのであれば、「庭の松に霜よけの繩なわのまだ取られずについている」ことからも、春になったばかりであると考えられますね。
 10:季節と死、というのがひとつ出てきましたね。作品の発表時期と近い、だいぶ原初的な研究ですが1897年にデュルケームが『自殺論』という本のなかで、自殺率は気温的に厳しい冬ではなく、だんだんと温かくなる1月から6月にかけて上昇していくと記しています
 10:デュルケームは自殺の原因を春に求めることはしていないし、むしろ反対さえしていますが、寒さが落ち着いて暖かくなるときに、一種の緊張が解けることは無関係ではないような気がします。鬱病も治りかけ(回復期)で自殺衝動が強まるそうですし

 

花袋の影
 ヱ:話題には関係ないですが、「先生、お茶の水から外濠線そとぼりせんに乗り換えて錦町三丁目の角かどまで来ておりると、楽しかった空想はすっかり覚さめてしまったような侘わびしい気がして、編集長とその陰気な机とがすぐ眼に浮かぶ。」という一文の、主語の置き方はあまり見かけない方法だなと思いました
 10:この場合の先生って杉田かな。電鈴というよりは電話の会話内容ですか
 ヱ:杉田だと思います
 10:よくよく読むと不思議ですね。なぜここだけ「先生」なのか……それにすごく変則的だし。いったん杉田の職場の描写をしてからそこに向かう杉田の憂鬱を書いている。しかも「先生」なんて呼称をして。なんか、ここだけ杉田と筆者である花袋が混同しているように思えます
 ヱ:違和感ありますよね。せめて「先生は」とか助詞を付けてくれればよかったのに
 10:かなり臨場感があります。筆者が臨場感のある文体を用いたということは、杉田と自己をだぶらせていたのではないかと思います。精神的な距離がかなり近くなっている
   上記でエチゴ二アさんが引用したのは五の序盤です。ここでいま一度全体の構成を振り返ると、一は主人公杉田と彼の人となり、住環境などの説明に始終しています。二は一の終盤で見かけた同じ時間帯に甲武線を使う女学生との接触。三は物語全体から見ると挿入された部分で、前後の時間的な繋がりはなく、杉田の家庭の描写と彼の人生の遍歴というか、どうして少女病に「罹患」したのか、そしてその病状について。四で二の通勤途中に戻ります。代々木駅からお茶の水まで。車内で杉田が何をしているかといえば、乗り合わせた少女の観察や、過去の観察の回想です。そして最後の五では、勤務する雑誌社での鬱々とした時間と、退勤後の溢れでる厭世観。最後は感情を清算するような死です
   書いてみて認識させられたのですが、この話は回想や説明を除くと1日の出来事なんですね。だいぶ劇的だ……この話を読んでみて、執筆の背景を考慮せずに感想を述べると杉田のみならず、花袋自身の自己満足、もしくは自己完結的な話だと思いました。その気になればこの設定で長編小説も書けただろうに、短編で、しかも1日という作中時間の結末に主人公の死を持ってきたというのは、乱暴という感も抱かずにはいられない。ただ、そういう構成にしたなんらかの意図がもし花袋にあるとしたら、少女病患者のあるべき姿をこの作品をもって提示したのではないでしょうか。テクストだけで見ると杉田の厭世的かつ唯美的な姿勢が死に結実し、テクストの長さを俯瞰してみると、このような急進的、または悲劇的な結末を迎えるほかないのだ、という意志表明だと思いました。みなさんはどういう意見を持ちましたか?
 ヱ:この小説の最も重要な部分は「人間は本能がたいせつだよ。本能に従わん奴やつは生存しておられんさ」という主張ではないかと思いました。本能に従わなかった結果として杉田は肉と霊にズレが生じ、少女病に罹患し、最後には死んでしまうわけです。
 10:的確な指摘だと思います。確かに後悔は「本能に従わ」なかったことにほかならないですね
 ヱ:乗客に押し込まれ、車外に押し出されそうになってもなお、杉田は少女に我を忘れてうっとりとし、何のアクションも起こしません。そして結果として死ぬ。つまり、死を避けるには主張をしなければならない、ということでしょうか。または、杉田=花袋だとするならば、主張するよりも死を、ということなのでしょうか
 10:それは両義的だと思います。花袋は杉田でもあり、また杉田の友人であるともいえます。おそらく花袋はどちらの思考も持っていて、それがジレンマだとわかっていたから分人させたのでしょう
 ヱ:なるほど。少女病は脱却すべきものであるが、同時に、少女病こそ自身のアイデンティティであり、変化は許容できない、といったところでしょうか
 10:そうですね……生存とは本能に従うことであるというのを命題にしたら、少女病死に至る病だと思います。その場合、少女病は脱却すべきものですね。ただし少女病は比喩的な言い方で、フェティシズムのひとつだから本来は矯正や完治する必要はないんですよね。如何ともしがたかったので、花袋はデウス・エクス・マキナ的な死を杉田に与えたのかもしれない。となると、杉田の死は無言の抵抗ともいえる
 ヱ:ジレンマを自己解決することはできず、外部要因に殺されてしまう。要するに、社会が私たちを殺しているんだ、ということを杉田の死を通して示しているんですかね
 10:おお、まさしく。もう一歩踏みこんだ読みかたをすると、この作品が間テクスト性を帯びて現代に問いを投げかけている気がします。私見を続けると、「少女にまなざしを向ける」ことの禁忌的な態度が、現実だけでなく非現実にも向けられている、ということでしょうか。かつては非現実に目を向けること自体が弾圧の対象となったが、現在は非現実の実存が揺らぎ始めている。それは現実が非現実に近づいたからなのか、非現実を認識する現実世界の住人が現実と非現実を混濁させているからなのか……理由はいろいろ考えられます
 ヱ:メディアの発達によって間接的な情報の入手が増えたと考えるなら、現実は非現実との境界を曖昧なものへと変えていっているかもしれませんね。また、非現実への志向を弾圧したということは、それが弾圧せねばならないほどの力を潜在させていた、とも捉えられます。そのポテンシャルが、現実と非現実の混濁によって解き放たれたのかもしれません
 10:非現実指向のポテンシャル、はまさに今発揮されていますね。非現実は現実の補集合、補完的存在だったにもかかわらず、逆に非現実が現実に影響を及ぼしている場合もあります。ふたたび読解に戻ると、当時はまだ現実の引力が強かった。ひょっとすると、少女病はそれを打破する突破口になりえたかもしれない。こののちにフォロワーが現れたかどうかわからないので、推測にしか過ぎませんが

                           (11月3日)

 

 物語空間から田山花袋の試みの考察まで、短編であるにもかかわらず非常に読みごたえがある小説でした。参加した会員は誰も国文学を専攻しているわけではないので、いわゆる適切な手順を踏んでいないかもしれませんが、むしろ様々な視点で作品を見ることができたのではないかとまとめたものを読みかえして感じました。

 初めての試みで読みづらい点もあったかと思います。ご意見・ご感想をコメント欄や小学のTwitterアカウントのほうに、お気軽にお寄せください。