小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

ヌける/ヌけないエロマンガへの接近①

 こんにちは、ぽわとりぃぬです。エロマンガを研究するうえでつぎの2冊は必読です。永山薫の『エロマンガスタディーズ』と稀見理都の『エロマンガ表現史』。前者をエロマンガの歴史と社会的意義を考えた本と位置付けるなら、後者はエロマンガの技術的価値を考えた本と位置付けられるでしょう。

 そんな両巨頭の肩に乗っかれば楽なのにもかかわらず、本稿でエロマンガのヌける/ヌけないを分析しようと試みるのは、私が常々、エロマンガに限らず作品を考察するときに鑑賞体験が扱われないなと思っていたからです。

 ある作品を論じるといったとき、おおよそがその作品の社会背景や意味を探ったり、その作品の技術の高さを分析したりで、肝心の感情の動きが考慮されていない。『JOKER』でいうなら、弱者男性を描いたという社会的意義やホアキン・フェニックスの卓越した演技という技術的達成ばかりが盛んに語られ、その手前にあるはずの「おもしろかった」という感情は軽んじられている。ジョーカーをあのように描いたのもホアキンが役作りに励んだのもそれは面白い映画を作るためであって、社会的映画史的に意義ある映画となったのは結果論です。

 私がそんなことをもそもそ考えている19年前にすでに、映画を題材に議論を展開していたのが社会学者の長谷正人(2001)です。彼によると、現代の映画をめぐる言説は、その作品の技術的達成や監督の才能といった「美学的読解」、もしくは内容やテーマを社会的文脈において分析する「政治的読解」という2つで構成されているというのです。長谷は、これら2つの言説は映画というフィクションへの没入を前提としているのであり、そのために多くの観客が娯楽として気軽に楽しんだという当たり前の事実を見損なっていると指摘します。そしてそういう気軽な楽しみ方とは、フィクションをフィクションと知りながらもあえてその嘘に乗っかって楽しむという「遊戯的コミュニケーション」なのであり、それは翻って我々の生きる現実もまたフィクションに満ちている(「黒人とはこういうものだ」というような)と気付かせてくれるというのです。

 まずなによりその作品が娯楽としておもしろかったからこそみんなが考察を始める。ならばその源泉となる感情を見過ごしていいのでしょうか。

 というわけで本稿では、エロマンガの「エロかった」を分析する、というか分析するためにはどうしたらいいのかを考えていこうと思います。

 

 さてさて、人間の活動に感情が大きな役割を果たしていることはいうまでもありません。これにかんする文化人類学の知見を書き連ねてみると、ルース・ベネディクトによれば我らが日本文化は恥の文化ですし、エヴァンス=プリチャードによれば政府をもたないヌアー社会は闘争によって維持されているし、さらにギルモア(1987)によればスペインのアンダルシアのとある村では敵対心・攻撃という負の感情によってさえ社会が団結するそうです。また妖術には人びとの不安を取り除く機能があります(ということは取り除かなければならないほど不安の社会的影響力は大きい)。

 

 このように感情は社会に不可欠なものですが、デュルケームが分析対象になりえないと警告し、ウェーバーが攪乱要素と位置付けたことで、社会学では遠ざけられたそうです。関根(2015: 14)によれば、人類学においても1980年くらいまでデュルケームの見方が支配的だったそうで、感情研究は心理学・生理学の範疇に入るとされてきたのだとか。ちなみに先述のギルモア(ibid: 27-29)によれば、人類学の巨人レヴィ=ストロースもまた曖昧模糊だとして感情を切り捨てたそうな。

 さてそんな社会学への批判として1970年代後半、感情社会学という分野が登場いたします。感情社会学は文字通り、感情のもつ社会的要素を考察の対象とします。感情社会学に言わせれば、従来、非合理的な残余として遠ざけられていた感情だって社会的なものである。崎山(2005: 18)によれば、感情社会学の理論的視座とは「感情と合理性を対置させずに、合理性の中に感情を見いだしていく、あるいは感情の中に合理性を読み解く」ことだそうです。また小野(2012: 24)によれば、感情社会学は「合理的説明の埒外に置かれていた感情に焦点を当て、…(中略)…社会・文化的な要素が関わる余地やそれら要素を分析・考察の対象とする」そうです。

 まあとどのつまり、感情社会学が扱うのは感情経験(怒りそのものではなく、怒ること)であって、そのためには「〇〇ホルモンが分泌されれば怒りの感情が湧く」という生理学的な説明だけじゃ不十分だし、また感情経験は「この怒りの感情は私にしかわからない」という個人の中にしかないものでもないということ、なんでしょう。

 ただし、あらゆる感情が社会的かといえばそうではなく、例えば恐怖の感情は他者とかかわりがなくても起こり得ます。ですが、日常の生活におけるほとんどの感情は人と人の関係を軸にして成り立っており、人間の感情は内と外との複合的な過程の産物なのです(内堀 2012: 35)。

 

 では感情が社会的なものだとして、我々の感情のどこに社会性が入ってくるのでしょうか。

 怒りの感情を例に、感情経験のプロセスを見てみましょう。神経伝達物質であるアドレナリンが分泌される(生理的変化)と心拍数が上がります(身体的変化)。ですが心拍数が上がっただけでは緊張との区別がつきません。こうした変化を「怒り」だとラベリングして初めて我々は怒りの感情経験を経験するのです。

 つまりこんな感じです。

 

[生理的変化]→[身体的変化]→[認知的ラベリング]⇒感情体験

 

 試しにヌけるという感情にあてはめてみましょう。

 

[テストステロンの分泌]→[勃起]→[性的興奮としてラベリング]⇒ヌける

 

 重要なのはラベリングです。この過程で文化や社会規則の影響をうけます。ヌけるという感情体験を体験するには、それがマンガというメディアの読み方を知っていなければならないし、男性向けエロであることを知ってなければならないし、そこに描かれたやたら目の大きなキャラクターが「美少女」であることを知っていなければなりません。

 上記の図式はシャクターという心理学者の研究により導き出されたそうですが、これを感情社会学は輸入し、[ラベリング]を切り口に理論展開していきました。成立期の感情社会学はこのラベリングに社会性をもとめた点で共通し、ケンパーらの実証主義派とショットらの相互行為派で論争が起きたり、ホックシールド感情労働という概念を提起したりしました。

 そんな詳しい話は割愛するとして、とにかく感情社会学が本稿にもたらす知見は感情にも合理性があるし、その過程には文化的社会的要素が深く関わっているということです。

 

 

 感情だって合理的だし社会性があるという理屈をつらつらと説明してきました。じゃあエロマンガを上記の図式の左側に配置して、感情体験を記述していけばいいのかというとそう簡単にはいきません。

 先述の内堀が指摘したように、多くの感情は人と人との関係で生起します。だとすると、エロマンガに感じるヌける/ヌけないは恐怖と同じく例外に当たります。なぜならもちろんエロマンガは人じゃないから。

 このままだとエロマンガは「読まれる」存在でしかありません。「読まれる」存在というのはそこに意味や美的価値を探られる作品だということです。このままでは人間に感情を生起させる存在として扱うことができませんし、20年前の映画批評の再生産にしかなりません。

 ていうかそもそも、つまるところ単なるインクの染みでしかないエロマンガを、人と同じように扱うことはできるのでしょうか。

 

 

 だいたい90年代ぐらいからでしょうか、人類学に存在論的転回という「静かなる革命」がおきています。従来の人類学は、「現地の人々が現実をどのように認識しているのかを記述し解明すること」を主眼に置いていたので、認識論的人類学ということができます。

 一方、存在論的転回をした人類学、つまり存在論的人類学は「ある現実が人や物、道具などの間で形成される関係を通じてどのように生成されるかの解明」を主眼に置きます。

 新たに重要となったのは関係性を描くことです。なので存在論的人類学は、主体と客体という二分法の視点をもたないという特徴があります。関係次第で主体と客体は入れ替わるのです。例えば、私が車を運転している時、主体は私で客体は車です。しかし車がエンストすればどうでしょう。車は私を困らせる主体へと転じ、私は客体となるのです。

 そしてもう1つ。存在論的人類学は、現実とは特定の諸関係が相互に影響して作られていくと考えます。なので関係を観察するにあたって、人にだけ特別の地位を与えることはしません。人や制度やモノ、動物、神、人工物等々はすべて均等に扱われ、「アクター」と呼ばれます。

 

 つまり、存在論的人類学にならえばエロマンガもまた人に働きかけ関係を生成するアクターとして扱うことができるのです。要は、ブルーノ・ラトゥール(Bruno Latour)のアクターネットワーク論(略称ANT)が人類学にも影響を与えたってことです。そしてこのANTを芸術論に応用したのが、これから紹介するアルフレッド・ジェル(Alfred Gell)です。

 

 

 イギリスの社会人類学者であるアルフレッド・ジェルの趣味は「日曜画家Sunday Painter(Gell 1998: 72)」。彼は著書『Art and Agency』において、芸術作品を社会関係のなかで働くエージェントとみなす芸術の人類学を提案しました。

 それ以前の人類学的芸術研究は、例えばアフリカの仮面とかネイティブアメリカンの彫刻といった、非西洋の「未開芸術」に潜むその文化固有の美的価値を明らかにしようとしていました。一方で、作品に込められた象徴的意味を探るアプローチもありましたが、これらはジェルに言わせれば「『人類学的芸術』に適用される芸術理論(ibid:1)」、すなわち非西洋で作られた芸術を西洋の芸術理論で評価するやり方なのです。

 これに対しジェルは上記の芸術の人類学を提案したわけです。ジェルは芸術を意味や美の問題として分析しません。芸術の人類学において、芸術作品は超越的な美の表現でも、意味を伝達する視覚的コミュニケーションの媒体でもありません。代わりに問うべきは社会的連関(ネクサス)のなかでどのように芸術作品が働いているのか、すなわち、芸術作品が生産され流通し消費されるその社会的過程を分析することです(ibid: 3; 内山田 2008: 159)。

 

 ジェルもまた存在論的人類学者なため、人とモノを区別しません。人やモノを均等に、エージェントとして扱います。エージェントとはエージェンシーを行使する人やモノです。エージェンシーとは、意図によって起きる出来事です。その出来事が起きる過程で関係してる人やモノがエージェントというわけですね。

 エージェントが働きかける相手はペーシェントと呼ばれます。じゃあモノに意図はないんだから常にペーシェントかというとそうでもなく、地雷は兵士の殺意(というエージェンシー)を媒介することができます。つまり、特定の社会関係においては、モノもまたエージェントとなるのです。

 つぎに、芸術作品ではなくインデックスと考えます。インデックスとは(そのインデックスの作者の)エージェンシーをアブダクションすることができる存在のことです。ざっくり言って「人の作ったもの」と考えてもらっていいと思います。重要なのはそこから他者の意図や能力を推測できる人工物だということです。

 アブダクション? 日本語にすると仮設的推論。相手がモノに込めた意図についてその痕跡から思いをはせることです。例えば相手の笑顔を見て「この人は好意的だな」と漠然と想起するのがアブダクションです。もちろん作り笑いの時もありますから、この推論は誤ることもある。だから仮設的、確固たる根拠のない推論なのです。

 何でアブダクションが要るのかというと、インデックスとしての芸術品は「一定の認識論的不明瞭さを性質と(渡辺 2008: 138)」するからです。完全に理解しきれないのがインデックスなのですが、とはいえ出来事にはそれっぽい説明を用意する必要があるのでアブダクションは不可欠なのです。ま、とりあえずの理由付けがアブダクションってことですね。

 

 ジェルの芸術の人類学が対象とする領域は、「(物理的視覚的)インデックスが、エージェンシーのアブダクションという特定の認識作用を引き起こす状況」であり、これを彼は「芸術のような状況art-like situations」と呼びました(Gell 1998: 13)。(芸術)作品は多様で多層なエージェンシーを観る人に伝達し、人と社会的な関係を構築していくのです。作品を中心とした作り手と受け手のつながりを分析するのがジェルの理論です。

 

 インデックスが伝達する芸術的なエージェンシーには様々な種類がありますが、「芸術のような状況」を引き起こすのは「魅了captivation」と呼ばれる作用です。

 例えばあなたがなまはげを見て「怖い」と思ったとします。そうするとあなたの体は硬直して、「親のいうことをよく聞くんだぞ~」というなまはげの忠告を素直に受け入れるでしょう。このような作品が持つ人を操作する魔術的な力、それが魅了です。

 ジェルは自身がフェルメールの『レースを編む女』に対面した時を事例に、この魅了を説明しています(ibid: 69-72)。自身も絵を趣味にしているジェルですが、フェルメールの絵を前にして頭の中では描ける想像が出来ているし絵の描き方もある程度知っているのに、どうやってもフェルメールと同じように描けないという現実を知り、感嘆と敗北感で愕然としたそうです。これが魅了のメカニズムだそうです。そして、自分じゃ絶対に描けないと思うけど作品はそこに実在してる、この心理と現実の格差が大きいほどより魅了されるそうです。こう書くと魅了されるには技術的知識が必要かにみえるのですが、それはジェルがアマチュア画家だからそうなっちゃっただけです。この点は本人も強調しており、作品に魅了されるにあたって、作者の制作過程を想像する能力は必須ではありません。せいぜい、材料と道具がわかればいいのです。

 「紙とペンだけでこんなマンガが描けるなんてすごいな」とでも感じた瞬間、すでにあなたはその作品に魅了されているのであり、そのエージェンシーに働きかけられたからこそあなたは購入ボタンを押したのです。

 

 

 私は一体何がしたかったんでしたっけ。

 そうです。エロマンガのヌけるヌけないを分析したかったんです。そのためにまず感情が文化的社会的であることを示し、理論化可能であることを示しました。つぎに存在論的人類学の視点を導入し、エロマンガを行為主体へと位置付けました。そして作品を中心とした関係を分析するジェルの理論を紹介し、その中から魅了という概念をピックアップしました。 

「ヌけるとはエロマンガに魅了された状態である」というのだけでは不十分です。ジェルは西洋/非西洋の区別がない人類学的芸術理論を打ち立てようとしたため、ジェルだけを引用して論じると現代日本エロマンガが持つ文化固有性をないがしろにしてしまいます。シャクターの図式では物足りないですが、個々の文化・社会を扱える感情社会学もまた必要です。

 なので今後の展望としてはジェルの理論を参考に、エロマンガを中心として構築される社会関係を考えるとともにエロマンガを形作る文化・社会要素を考えていこうと思ってます。

 フェルメールの絵が行使するエージェンシーは才能や技術に原因が帰せられますが、他にもいろんなパターンがあります。ダリの『記憶の固執』とダヴィンチの『モナリザ』ではエージェンシーの因果関係が違っているのです。つまり「作者の技術が高ければよりヌけるエロマンガになるのだ」という単純な話でもないのです。

 感情社会学は感情社会学で、感情体験を論理的に記述したがゆえに「生きられた感情体験」をないがしろにしていると批判されているようです。それを乗り越えるにはメルロポンティの現象学が有効なようですが、私は『知覚の現象学』を序章で挫折した人間なので道のりは険しそうです。

 とはいえ、本稿はエロマンガのヌけるヌけないという領域に一歩近づけたんじゃないかと思います。というか、分析出来るかもよ提案できただけでもやった価値はあったなと思います。計画ではこの後快楽天とかを事例に分析してみよう考えていたのですが、7000字に到達してしまいそうなので稿を改めようと思います。

 次回お楽しみに。

 

 

 

参考文献

Gell, A.,1998,“Art and Agency: An Anthropological Theory”. Clarendon Press.

Gilmore, D. D.,1987,“Aggression and Community, Paradoxes of Andalusian Culture”. Yale University Press, New Haven and London.  (=芝紘子訳 1998 『攻撃の人類学―ことば・まなざし・セクシュアリティ藤原書店).

長谷正人,2001,「映画の政治学・再考:『国民の創生』の受容をめぐって」『立教アメリカンスタディーズ』23, pp-83-106.

小野奈生子,2012,「感情社会学の変遷と課題 社会・文化性の問い方をめぐって」北川毅編著『文化としての涙 感情経験の社会学的究』勁草書房

崎山治男,2005,『「心の時代」と自己 感情社会学の視座』勁草書房

関根久雄,2015,「はじめに」関根久雄編著『実践と感情―開発人類学の新展開』春風社

内堀基光,2012,『「ひと学」への招待―人類の文化と自然―』放送大学教育振興会

内山田康,2008,「芸術作品の仕事―ジェルの反美学的アブダクションと、デュシャンの分配されたパーソン」『文化人類学』73(2), pp158-179.

渡辺文,2008,「芸術人類学のために」『人文学報』第97号,pp125-147.