小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

きれることの容易さ―きい作品を事例にⅡ―

 きい先生,単行本第3弾発売おめでとうございます。 www.wani.com

 

 本稿は前回*1にひきつづき,きい作品を題材に用いて,負けヒロインはいかなる存在として受け手の前に現れるのかという問いへの思索を行う。「特定のキャラクターが思いを寄せる相手と相互思慕になるのが失敗したと客観的に判断された時,その判断を下す者が特定のキャラクターを規定する際に用いる範疇」*2*3と,定義をひとまず付けた負けヒロインについて記述を試みる際,大雑把に分けると2つの工程へとりかかることとなる。すなわち,特定のキャラクターが好意を寄せるキャラクターとのあいだに相互思慕の関係を構こうとする過程を追う作業と,かかる過程と上記の定義を照らしあわせて,特定のキャラクターが負けヒロインであるかの判断を下す作業である。

 筆者はこれまで,どちらかというと前者に重点を置いた記述を行ってきた*4*5。一般的な負けヒロインへの言及は,後者ないしはかかる判断を前提とした各々の美的感覚にもとづく評価が目立つように思われたからだ。特定のキャラクターが負けヒロインであるという言明を事実とすることで生みだされるテクスト及びテクストの生成過程は,アフェクションを共有し,コミュニケーションの媒介となりうる有意義な事象(の成果物)である。いっぽうで,会話の蓄積や意思疎通を援助する新たな概念の提唱が先行し,キャラクターを負けヒロインとみなす認識過程については等閑視されてきたきらいを感じざるをえない。このような問題意識にもとづき,作品内描写の追跡に専従する形で,キャラクターが企図した恋愛関係の実現に失敗する=負ける経緯を記述し,負けヒロインと認知する過程の探究を試みてきた。

 かくして物語内容の分析を進めてきたが,しかしながら,下される判断の客観性を定位する困難さを折々で覚えた。思惟と言葉の叢を分け入っていく過程で,客観性を無意識のうちに薙ぐことがないよう,あらかじめ想起されうるふたつの語意に触れておくと,ひとつは文章やイラストを材料として行なわれる判断に対する客観性,いまひとつは特性を指し示すカテゴリに対する客観性である。

 負けヒロインの指示対象や含意の散乱は,後者にまつわる問題である。当項の客観性へ審問をはじめると,途端に意味は分散し,もはや雑談の俎上に載せる以外にカテゴリを設ける必要性はないような主観の並存が起きる。では前者の客観性を物語が担保してくれるのかというと,必ずしもそうはいかない。上で述べたように,負けヒロインの認知はテクストを読み,キャラクターの遍歴が負けヒロインの定義に該当するか考える二段階により構成される。片方のみで完結しない*6

 これまでのマンガやライトノベルを用いたケーススタディは,後者の焦点となる意味を冒頭の定義に固定することで,前者への照準を履行できた。時系列でみても,また指示内容の合意形成においても後者に関する論議を解体し,筆者の一存で統合的な内包を唱えるのは,かえって思索を後退させることとなる。本稿では冒頭の定義を前提としたうえで,カテゴリ付与の観点からみてより曖昧な事例に対して,キャラクター間の関係構築の記述を試みる。そして,負けヒロインとの邂逅という出来事を経験する際,読者が特定のキャラクターを負けヒロインと判断する過程の様態を検討していく。なお,取り扱う作品の性質上,未成年の閲覧は控えるよう,筆者からは言い添える。

 今回,分析対象とするのはきいが『COMIC快楽天』2017年9月号で発表した「つめたい雨、やさしい君」*7である。掲載紙と作家の概要は前回の記事*8を参照されたい。以下,当作の中心人物である辻󠄀英生*9と十美坂ちなつに関する描写をまとめて,二者の関係の変遷を整理する。

 辻󠄀(図1右)と十美坂(図1左)は,高校入学時に知り合ったと推測できる。登場人物がどの教育段階に通学しているかは明記されていないが,すくなくとも同じ学校に入るまでは知らなかったことが図2の描写から分かる。

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図1 左の女性が十美坂ちなつ,右の男性が辻󠄀英生 Ibid., p.190

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図2 最初に話してきたのは十美坂だった Ibid., p.210

 物語は夏休みが目前に迫った学期後半に始まる。図1のように,ふたりはイヤホンを分け合って音楽を聴いたり(Ibid., p.190),友人と屋上で昼食を食べている時に自慰についての冗談を交わしたり(Ibid., p.191)と,打ち解けた異性の友人という間柄だった。海外出張で親がいない辻󠄀の家で友人たちが泊まりたいと言った際は,辻󠄀が十美坂に「夏休みまでの一週間パシリ」と条件を付けて許可を出しており,他の者よりも距離の近さが窺える。

 とはいえ,ふたりは付きあっていなかった。辻󠄀も「卒業まで/こんなだと思ってた/ホントに/そう思ってた」(Ibid., pp.192-193)と独白している。その関係性に変化が訪れたのは,夏休み前,最後の登校日だった。十美坂が無断欠席をしたのだ(図3)。目配せをした先の友人もかぶりを振り,携帯電話でも応答せず,行方は分からずじまいだった。

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図3 誰もいない机へ目を向ける辻󠄀 Ibid., p.192

 突然の雨に降られた辻󠄀が帰宅すると,軒先には同じようにびしょぬれの十美坂が座っていた。青くなっていた唇に,辻󠄀は十美坂を家に入れ,風呂に浸かるよう促す。透けた彼女の下着から目を背けて,そっけなく対応する辻󠄀に,十美坂は「…風邪引いちゃうから――」と手を伸ばした(Ibid., pp.193-195)。

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図4 十美坂の発した言葉は,辻󠄀にとって予想外のものだった(Ibid., p.195)

 湯船に向かいあって入ると,十美坂は指示されたとおりに目を瞑っている辻󠄀の陰茎を握り,そのまましごきはじめた。辻󠄀は口頭で止めようとするが,瞼は開かず,十美坂に触れることなく,射精に至る(図5)。

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図5 辻󠄀は十美坂のされるがままだった(Ibid., p.199)

 湯に漂う精液を指で絡めて,十美坂はなしくずしに目を開けた辻󠄀へ問う。「コレ・・を…/ココ・・に出すんだよね?」(Ibid., p.200)。立ちあがった十美坂が指を自らの性器へ添えると,どちらからともなく,ふたりはつながった。射精を告げる辻󠄀に,十美坂は気にしなくてよいと述べ,そのまま彼は膣内に精液を出した。

 そののち,布団の上で寝そべりながら「5回も出しといて♡」とからかわれた辻󠄀は,照れながら「これから/いくらでも…そのッ/アレ…だからな*10」と十美坂へ返す。これを聞いた十美坂は,はっきりと応答せずに「――じゃあコレは?」と勃起の収まらない陰茎をさすった(Ibid., pp.208)。

 どれぐらい日数を経たのかは描かれていないが,「けっきょく十美坂は/何も言わずに/みんなの前から/いなくなった」(Ibid., pp.208-209)。十美坂の携帯電話は不通となり,彼女の家には売物件の看板が出された(Ibid., p.209)。「近所の奴らが何か色々うわさしてた」(Ibid., p.209)というだけで,理由は明確に記されていない。

 以上が物語の内容であり,辻󠄀と十美坂の関係性の変遷である。もしかすると,ここまで読み,なぜ当作をもって負けヒロインの論議を進めるのか疑問を持たれた方もいるかもしれない。一度は肉体的に接合した辻󠄀との関係が,読者には明かされない理由で切断されることをもって,負けヒロインと判断する*11ことへの疑念は,慣れ親しんでいる(であろう)負けヒロインとの不一致によるものだ。つまり,関係の切断をもって負けヒロインの判断を下すことへの違和感だ。

 負けヒロインは髪色などの属性へ還元できるものではないが,複数人との「争い」によって決まるものでもない。いわばカテゴリに関する論議の起点としての勝敗ではなく,カテゴリが付与される終点としての勝敗の決定が,かかるカテゴリの判断として為される。これは,ある意味で属性よりも単純な材料で実行される。記述されている内容をただ追っていく作業がメインとなるからだ。

 この作業をややこしくさせるのは,観察できた関係性の切断が,負けヒロインへのカテゴライズの論拠になるのかという審議である。今回の記事では深入りできなかったが,当作の性行為のシーンでは,過去の辻󠄀と十美坂の交流がセックスと交互にコマ割りされている。この描写により,微妙な距離感を保っていたふたりの性的関係が強調されており,また,本稿でも触れた前後の描写から,十美坂は自身が去ることを予期していることも窺える*12。そのような展開ののちに,十美坂は消える。先の概要では単純に関係構築の失敗が説明され,実際,そのような話ではあるのだが,読者にその判断を下させる描写は,腑分けすればするほど出てくる。

 今回の分析をもって,定義にもとづいて作品を読むと,キャラクター間の相互作用を分析し,負けヒロインの判断を下すのは容易であるのに対して,その判断の是非を考えるのは複雑かつ長大な議論を要請することが分かった。それはカテゴリそのものを否定するのではなく,個人の解釈をそのまま鵜呑みにすることでもない。ましてや,負けヒロインであることを前提とした論評を交わすことでもない。より作品内部の描写を細分化するなかで,はたして彼女はいかにして負けヒロインとなるのか,あるいはそうでないといえるのかを考えること,それこそが求められる議論だ。この当然といえば当然な提議は,本稿で例示したカテゴリにはあまりそぐわない作品から問うことで,ようやくまともに扱われうると思われる。より作品へ入っていく,テクストをそのまま用いることで,読者ははじめて論じあうことが可能となる。

*1:つながることの難しさ―きい作品を事例に― - 小文化学会の生活

*2:Ibid.

*3:シュレーディンガーの負けヒロイン――箱へ入れるには負けヒロインが多すぎる! - 小文化学会の生活

*4:Ibid.

*5:植野直花から学ぶ負けヒロインの生き様(中) - 小文化学会の生活

*6:ようは,読者=物語の観察者である私たちの参与があって成立する行為なのだ。シュレーディンガーの負けヒロイン――箱へ入れるには負けヒロインが多すぎる! - 小文化学会の生活も参照のこと

*7:本稿で参照したのは『群青ノイズ』に収録されたもの

*8:つながることの難しさ―きい作品を事例に― - 小文化学会の生活

*9:台詞の表記では「辻󠄀」だが,『群青ノイズ』p.193の表札では「辻」となっている

*10:以上の台詞がフォントで印字されており,同じフキダシに「オマエがいいならだけど」と手書きで添えられている

*11:ここでふたたび,上述の客観性についての注意を喚起せねばなるまい。「負けヒロイン」と呼称したからといって,十美坂をいわゆるハーレムもので主人公と最終的に結ばれなかったヒロインと同一視しているわけではない。冒頭の定義に該当する,すなわち望む相手との恋愛関係の構築が失敗したと,描写をもって判断されるキャラクターに対して負けヒロインと呼称している。乱暴な言いかたをすれば,カテゴリの名前はなんでもよい。悲恋を経たから悲恋ヒロインとか,描写内容そのものは悲劇的だが,そのようなヒロインを鑑賞する受け手にはある種の喜びとしか形容できない感情を喚起させる一連の過程を「もののあはれ」という美的理念に仮託し,あはれ系ヒロインとか言ってもよいかもしれない。しかし,本稿および筆者の関心は概念工学的活動には向いていない

*12:性行為中,十美坂はほぼ涙目や涙を流す描写がされている。痛そうにしている様子はなく,その訳を最初で最後の交わりと認識する彼女の心に求めることはできるだろう