小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

今年はこういうの読みました2021

 早いもので2021年も終わりです。オリンピック・パラリンピックの開催、一昨年末から続くCOVID-19の世界的な感染拡大。世界で何が起きようと、世界がいかに変わろうと、結局は自分で決断して、生きていくほかありません。判断を他者に投げださないためにも、本から得られる知識や知恵はきっと有効な手立てとなるでしょう。もちろん、判断が求められつづけるばかりでは疲れてしまうので、休息のための読書もアリです。というわけで、今年も読んだ本の紹介で締めくくりたいと思います。よいお年を!

 

10nies

石牟礼道子,1972→2004,『新装版 苦海浄土――わが水俣病――』講談社

 

 今年は水俣に注目の集まる何度目か分からない年となった。「MINAMATA―ミナマタ―」の公開が、存在しか知らなかった多くの人々も内実へと目を向けるきっかけをうみだしたのだ。監督と主演をジョニー・デップが務めたことで、話題性は高かった。

 国内の公害問題を訴えかける先駆となった水俣病の映画が外国人によってつくられたことは、もしかすると日本のクリエイターに対する憤りを覚えさせたかもしれない。なぜ負の側面に目を向けないのか。政治や社会問題に関する映画を制作しても、たいていはミニシアターでの上映にとどまってしまうだろう。そうした配給体制も相まって、志のある人がいても実現するハードルは高い。

 新しい作品がつくられることには意義がある。しかし、先へさきへと闇雲に目を向けなくても、50年近く前に書かれた本をめくれば、頁の表面に映像も及ばない豊かな世界と真に迫る病の実態が拡がっている。

 石牟礼は天草出身の主婦である。水俣周辺で発生した「奇病」の真相を追いつづけた彼女の本作は、患者の語りに着想を得た心象世界と、残酷なほど客観的な診断書とが入りまじる不思議な文体で展開される。不知火の海上に漂う漁師が食べた潮水で炊いた白米、発症からわずか1ヶ月で亡くなった劇症患者のカルテ、めちゃくちゃな音程で歌う君が代。すべて、水俣病という出来事によって引きおこされ、壊されたものだった。

 読むものを圧倒させる患者や彼らの家族の「語り」は、石牟礼が実際に聞いていないものもある。言語障害を患った人々の言葉は、活字ほどなめらかではない。実際、石牟礼も当作がいわゆるノンフィクションやジャーナリスティックな著作でないことは暗に認め、詩、浄瑠璃のごときものと形容している。

 社会科学的な関心から読むと、そのような背景は看過しがたいと思われてもしかたあるまい。だが、どんな社会調査や民族誌よりも、ふだん現実に対して抱く感覚にもっとも近いと私は思った。価値中立的に描写したつもりでも、世界は世界を描く人間の主観による総体に近い何かでしかない。石牟礼は、石牟礼と人々の関係のもとでテクストが生まれたことを否定しない。その事実を受けとめたうえで、東京や水俣での公害反対運動や補償運動を展開させた。

 賢しらなジャーゴンを用いたり、換喩で事象を別の言葉へすりかえたりするのが達者な人ほど、自身が対象とみなす世界から独立していると錯覚しがちである。しかし、誰ひとりとして価値観から自由ではないし、神の視点からの俯瞰も許されていない。言及する対象と自分自身がいかなる関係にあるのかを再考するヒントを与えてくれる当作は、水俣病の記録以上の意義を有している。水俣に注目が集まろうがなかろうが、読みついでいくべき作品といってよい。

 

ヱチゴニア

支倉凍砂,2014-2015,『WORLD END ECONOMiCA』Ⅰ-Ⅲ KADOKAWA

 

 『ワールドエンドエコノミカ』(以下、略称WEE)は支倉凍砂によるライトノベルだ。

 支倉凍砂と言えば、やはり『狼と香辛料』を思い浮かべる人も多いだろう。私は中学生の頃に『狼と香辛料』を読み、幼稚ながらも経済という学校では習わなかった分野の面白さに心を踊らせた記憶がある。しかし、『狼と香辛料』シリーズは少し巻数が多く、結局私は途中で読むのを止めてしまった。

 それから10年近い時間が流れ、私はすっかり株の世界にハマっていた。といっても、まだ右も左も分からない初心者だし、ハマったきっかけも別に『狼と香辛料』ではないけれど。まぁそれは置いておく。

 偶然にも、あるいは必然的だったのかもしれないけれど、そんな私の前に支倉凍砂の作品が再び姿を現した。それが、WEEである。

 WEEは上中下巻の3巻構成で、ライトノベルから少し距離を置いてしまった人でも読みやすいだろう。内容は、月面に人類が進出した世界で、株の取引をする話だ。月面という壮大な舞台装置を用意したのに、やってることはSFチックな戦争や冒険ではなくて、傍から見たらチマチマした株式取引なのだ。しかし、それが如何に熱いことなのか、この作品はその魅力、いや魔力を読者に伝えてくる。

 元々WEEは同人誌としてコミケで発売された作品で、だからこそできるラノベにしては少し大胆な構成である。というのも、ネタバレを防ぐためボカして言うが、1巻の主人公はなんとも情けないのだ。あんなに情けないまま、マイナスな状態で1巻の幕を閉じてしまったら、読者にかかる精神的な負担は非常に大きくなる。漫画やラノベなどの読者層を考えると、そのような負担の大きい作品は普通はウケないし、編集も許可しにくいだろう。にもかかわらず、それでも読ませてしまうのが支倉凍砂の凄いところでもある。

 2巻と3巻は株好きなら垂涎ものだ。端的に言えば、エンロン事件とリーマンショックのパロディーである。そのことは隠されてもいないから、元ネタを知っていれば、途中まで読んだ時点でオチに気付くだろう。それでもページをめくる手は止まらない。まるで水戸黄門のように、もう展開は決まりきっていても、それでも読んでしまうのだ。面白いから。

 本書は株の世界やそのご近所に住んでいる方なら間違いなく楽しめるし、そうでない人にも心からオススメしたい作品である。特に『狼と香辛料』が好きだった貴方には、ぜひ一度手に取ってみてほしい。

 

つおおつ

猪野健治,2015,『テキヤ社会主義 1920年代の寅さんたち』筑摩書房

 

 近年になってリメイクされた国民的映画『男はつらいよ』を知らない人は少ないだろう。柴又出身のテキヤである寅さんが、行く先行く先で出会った人を助けたりしながら恋に落ち、恋破れる日本映画の傑作である。この映画が余りにも有名すぎるため、一般社会におけるテキヤ(縁日等で露店や見世物を営む人たちのこと)のイメージはほぼ寅さんに収斂しているといっても過言ではないだろう。

 さて、本書ではまずテキヤの文化・歴史を整理したあと、1920年代にテキヤと呼ばれる人々がどう社会主義運動に関わってきたか記述した本である。まず、この本を読んで衝撃を受けたのは、テキヤの世界ではどこかの一家に所属していないと香具師としての商売ができず、またタカマチ(大きな祭礼)を渡り歩いて商売をするわけだが、タカマチを訪れた際にその土地の露店を仕切る一家や親分に必ず挨拶をしなければいけないため、寅さんのような一匹狼は存在し得ないことである。

 他にも社会主義運動家の演説が、本来お客が来ない縁日の露店の端っこでなされると人だかりができて商売が繁盛するためテキヤにとって社会主義運動家はありがたい存在であることを始め、テキヤについて門外漢である私には衝撃的であることが多く、本書の主目的であるテキヤ社会主義の関わり合いの歴史を理解することだけでなく、テキヤの文化・人間関係を知れるのが本書の魅力だろう。

 また中学の日本史程度の知識しかない私にとっては、当時の運動家は無政府主義者でも社会主義的主張をしていたことや、無政府主義社会主義者でも普通選挙運動に加担していたなど教科書レベルの日本史では別個に記述されているそれぞれの政治的運動の境界がかなり曖昧であることも新鮮だった。

 体系的に本書の魅力を語るには時間的リソースが足りず面白いと思った部分を列挙することがやっとだが、どこかひっかかった所があればおすすめしたい本である。

 

ぽわとりぃぬ

久保明教,2020,『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社.

 

 本書は人類学者が家庭料理について綴った学問的考察でありエッセイである。著者はアイボの論文でおなじみの久保明教。彼の手によって1960年代から2010年代に至るまでの日本の家庭料理の変遷が関係論的にたどられていく。研究者であり生活者でもある久保明教というアクターによって書かれた本書は、私たちがそれぞれの家庭料理や暮らしについて再考し再実践する契機なのだ。

 

 以下、あらすじ。

 久保は日本の家庭料理の変遷を追跡する目安として、モダン(1960~70年代)/ポストモダン(1980~90年代)/ノンモダン(2000~10年代)という区分を導入する。これら三区分はそれ以外に取って代わることはなく、現在も時に摩擦しながら同居している。

 モダンの家庭料理において手作りとは、全国チェーンのスーパーやインスタント食品によって標準化・商品化された食品を自分なりに選び、家族の口に合うものへと組織する創意工夫の営みであった。毎日違う料理を作ることは専業主婦から夫への返礼であり、存在意義をかけた闘いであった。

 ポストモダンはモダンの「基本的な家庭料理」を解体する。つまりはカテゴリーに当てはまらないカフェやレストランのようなアレンジ料理を家庭で作ることであり、それにより家庭料理と外食を自由に往来するゆとりができる。

 ポストモダンの闘いとは前年代の規範を批判することであったが、その進展によりノンモダンにおいて標的としての規範をイメージすることはもはや難しく、料理研究家/一般の主婦、家庭料理/お店の料理といったかつてのコンテキストは弱体化している。あるのはクックパッドに代表されるような膨大なデータベースであり、それらを探索することによって日々の暮らしを自由にデザインする。ノンモダンの闘いとは欲求の充足と共同性の構築(デザインにいいね!やフォロワーが付くこと)との結びつけである。

 

 以上、かなりざっくりと要約した。感想を一言でいうと、日々なんとなく送っている暮らしについて言語化されたので自覚的になれてよかった。ほぼ毎日自炊する私の暮らしは、ノンモダンが強い3つの複合といえる。

 

 内容以外にも、

家庭料理において100パーセントの手作りなんて有り得ない。100パーセントを目指せば無限後退をしつづけ、ついには地球さえ手作りする羽目になってしまう

のような面白い文言が随所に散りばめられていて楽しい。久保自身が料理研究家のレシピを作り食べ比べする企画も差し込まれていて、読んでいて飽きない。

 エッセイかつ学問的考察である本書を読むと、難しい論文を書く研究者久保明教の人となりに親近感を覚え、同時に生活者久保明教の知識や思考回路が勉強になり、なんだか一挙両得の気分になれる。

 

 さて。本書が家庭料理という膨大な営みの部分的なつながりであることは著者も認めているが、私から見て言及がなされていないと思った事柄をここに挙げておく。それは、しょうがないから自炊している人たちの存在である。コンビニ弁当やファストフードばかり食べるのは不健康、毎日外食では赤字になるとかの理由で家庭料理に「徴兵」された彼らについての記述が少なかった。逆にいうと、本書に挙げられた人たちはみな料理好きな「志願兵」ばかりなのだ。私もまた「赤紙が来た」一人であり、同類は友人やYouTubeの限界ナイトルーティン動画などに発見できる。本書に触発されて、彼らについて書きたくなった。