小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

植野直花から学ぶ負けヒロインの生き様(上)

1.はじめに

 人と人が関わる時、そこにはいくつもの関係が生まれる。もっとも基本的な類では好き-嫌いが挙げられるだろう。集団内では複数人の好意が特定の人物へ集中する事態が発生しうる。その際、好意を寄せられた対象が好意を寄せた成員から1名を選び、当人のかかる感情を是認すると*1、必然的に実を結ばなかった好意を抱く者が現れる。このような状況を観測する第三者は、1人の被恋慕者に好意を寄せる複数の恋慕者について勝ち-負けで分類することが可能となる。男性を被恋慕の立場とした異性愛が前提のコンテンツ――主にマンガ・アニメ・ゲームのポップカルチャー――において、後者に選り分けられる女性は一般的に負けヒロインと称される*2

 本稿では作品内の時系列的な継起である物語内容に準拠した関係性の整理をヒロインの視点から行ったうえで、彼女は何をもって「負け」となるのかについて考えてみたい。従来のポップカルチャーに関する夥しい考察は、往々にして特定の属性や記号をあたかも符牒かのごとく用いる様式に則っている。これは前提となる術語を知っている者にとっては理解もたやすく、故に円滑な議論へ貢献さえするが、その分かりやすさは語意や語用の検討においては硬直した態度という阻害剤と化し、諸刃の剣の様相を呈する。こうした難局を打破するには、拍子抜けされるかもしれないが作品に没入してキャラクターが取り結んだり切り離したりする関係をひたすら追う手法が効果的と思われる。属性に関する思索はその作業を終えたあとでも遅すぎることはない。

2.物語へのアプローチ

 物語をどう分析するか。その筋道は何本もあり、道普請ははるか昔から行われている。それこそ順々に確認しようと思えばアリストテレスの『詩学』を起点としなければなるまい。本節は用いるアプローチの紹介ではなく既存枠組の課題点を確認することが目的なので、簡潔に済ませる。それでも面倒なら本節末尾のごく短い整理を読んでもらえば十分だ*3

 多数の異なる物語と向き合う研究者が主に注目してきたのは、作品はいかなる構造を成しているのか、そして作中で登場人物がどのような機能を果たしているのかという2点だった。最初期の論者であるV.プロップは19世紀後半に出版されたロシアの民話集に集録されている魔法が出てくる昔話を読み解いて、登場人物のパーソナリティに関わらず実行される行動を物語に対する「機能」とし、合わせて31個のタイプがあるとした(Adam 1984→1999=2004:36-42)。

 上記の理論をプロップが著したのは1928年。当初は学界でほぼ等閑視されていたが、約30年後にロシア語から英語に訳されると参照が増え、構造主義の先駆者とみなされるに至った。彼に影響を受けたA.J. グレマスは神話の比較を踏まえつつプロップの類型論を発展させる形で、主体である登場人物が物語のなかで結びつく対象とそれによる状態を用いた分析を試みている(Adam 1984→1999=2004:86-93)。たとえば主体であるシンデレラはガラスの靴という対象を履くことで、はじめて「舞踏会で王子と踊り、彼が捜す美しい女性」という状態になる。ほかにも登場人物に付与されるいくつもの主体性、役割やシークエンスに基づいて物語内容を詳述する手法を編み出しているが、当論は主題と関係ないのでそのような発想がある、ということの確認に留める。

 これらの議論のうえにさらなる理論的思索を重ねたのがR.バルトである。彼は構造分析における対象を3点挙げている。すなわち①登場人物の属性の収集と分類、②登場人物の機能の収集と分類、③行為の収集と分類だ。①は属性や状態についてなんらかの指標を設ける「指標分析」、②における機能とは行為主体の特質と換言することができる。さしずめ機能への注目は行為主体に焦点を当てる「行為項分析」であり、先に紹介したグレマスが創始者とバルトはしている。③は物語内の行為がどう連なっていくのかに経験的な関心を寄せる「シークエンス分析」となる(Barthes 1971=1979:58-59)。

 上掲の各論は物語論の系譜に置かれ、ストーリーを分析する際のフォーマットとして用いられてきた。ここで挙げたのはごく一部でもっと取りあげて然るべきなのだが、本節の冒頭で述べた2点に注目した代表例として3者を挙げた*4。彼らのアプローチは読んで字のごとく「物語の論」であって、作品内のキャラクターには重きを置いていないことに注意したい。登場人物のキャラクターである性格(パーソナリティ)を見出す試みはかえって物語論が解き明かさんと欲する物語世界やその構造を曇らせる。あくまで登場人物は「表象される世界の一部分」で、品詞による比定さえできれば十分なのであり、彼の価値は「社会文化的」なものに過ぎないとされる(Adam 1984→1999=2004:94)。

 物語論は作品を構造として捉えたり登場人物等の各要素を分析したりするには適している。しかし、そのようにしか解読できないと指摘することも可能だろう。キャラクターを重視する近年の見方からすると、その役割を物語の継起やそれに対する機能のみに限定するのは過小評価といってよい。また、物語論は演繹的に考えられた側面もあるとはいえ、結局は「型どおりの」ストーリーにそぐうようなフレームになっている。プロップがロシアの昔話から機能を列挙し、グレマスが神話を比較するなかで改善を試みて、バルトが創世記で適用しているように、理論的核心に近づこうとしたり分析手法を厳密にテストしようとしたりすると、いつ成立したのかも曖昧なほど過去からある物語に出動要請がかかる。現代の、それこそマンガやアニメにも応用しようと思えばできるが、その際に物語論はかえって理論負荷性としての弊害を望まずとも発揮してしまう。

 ゼロ年代以降、ポップカルチャー作品の考察では内容全体から各キャラクターやその構成要素への主眼の転換が起きた。より正確にいうならば、論者は厳密な構造を物語に見出さなくなり、付随して自身の論旨にもそういった枠組を設けようとはしなくなった。21世紀に限定した場合、その嚆矢は東浩紀に求められるだろう。東は『動物化するポストモダン』で大塚英志による世界観や設定としての「大きな物語」ではなく、それらを用いた「小さな物語」を消費する物語消費という説明図式を踏まえたうえで、ポストモダン的状況では「小さな物語」の背後にはひとつづきの要素の寄せ集めとして「大きな非物語」が潜むと述べた。いわゆるオタク文化とみなされるものの「大きな非物語」には、すでにコードとして成立した投入-析出が一意的に定まっている「萌え要素」が含まれる。この場合、析出されるのは「萌え」という感情で、投入される記号が無数に生み出されている。

 東はコンテンツの消費を、それ自体のキャラクターやTVシリーズ等のストーリーを含む「小さな物語」と深層の「大きな非物語」=データベースを同時に消費することとした(東 2001:78-79)。つまりデータベース消費である。当図式においてマグカップと等価にされるほど、物語は地位を下げている。あまりに相対的な価値を下げているせいで「物語」の語用に混乱を来たしているぐらいだが*5、キャラクターやその構成要素である記号体系への関心の高さの裏返しともいえる。

 『動物化するポストモダン』が依拠しているのは大塚英志、A.コジェーヴ、J.ボードリヤールなどで、すでに紹介した物語論を直接参照していない。東の専門とする学問領域が異なるといってしまえばそれまでだが、物語を論じる際に物語論を必ず経由しなくてもよくなったともみなせる。対象とする作品世界と受容する消費者の関係性が変化したと解釈することも可能だろう。「動物化」というタームは短絡的に心地よい感情を惹起する作品や描写を欲求する受け手の傾向を指したものだったが、はたして論者は逃れられていたのだろうか。

 ゼロ年代からテン年代における批評は、作品がなんらかの記号やカテゴリの煮凝りであるという認識のもと、「大きな非物語」と照らしあわせて解剖していくようなスタイルのいっぽうで、古来よりある「社会反映論」が繁茂した。後者の代表例として宇野常寛が挙げられる。宇野はまず従前の、ほかでもない東を含む自身より前世代の論者をひとしきり批判したあとで、独自の構図に基づき作品から社会の変化を論じていく。ただし、その内実は現実と虚構の安易な結合、種々のディシプリンに従う術語の無邪気な利用という点で古典的だという指摘もある(千田 2017:322)。かくあるが故の「分かりやすさ」が読者を惹きつける要因となっているのは確かだ。

 現実社会の構造を論評に織り交ぜるのは東のノベルゲームやインターネットの複層性に関する指摘にしろ、宇野のSNS等のコミュニティ生成を下支えするアーキテクチャへの観測にしろみられることで、この点における両者の距離はさほど離れていない。こうした文書を読むことによって新たな共感や気付き自体は生まれる。ただ、作品に由来しない同時代の背景と重ねあわせようとすればするほど、肝心の物語の内容は指から逃れていく。

 以上、物語論、データベース消費、そして近年の動向を杜漏を承知でまとめた。共通する問題点をひとつに絞るならば、先験的に定めた概念や定義への固執による記述と説明の不明瞭さに尽きる。なんらかの具体例から枠組を検討すれば、とりあえず当事例に関しては不備のない論理を展開できるが、他作品に敷衍しようと色気を出した途端に不備が生じる。物語論は形式を重視した神話や民話に適しても近年のポップカルチャーにおいても有用かは疑わしく、データベース消費はキャラクターを論じる際に直観と合致する説明をしてくれても物語内容の解説になるとは限らない。社会反映論に類するものは厳密には物語の「分析」をしておらず、あくまで社会の被説明変数として算出されたコンテンツを社会や世間の評論に援用しているというほうが実態に即している。

 結局、論者であっても任意の事象を説明したい欲求が先行していて、充足を叶える作品や類型を探しているだけに過ぎないのではないか。この身も蓋もない指摘はそっくり本稿にも跳ね返ってくるが、根本的な反証をするよりは粛々と破綻が生じないように分析を進めるのが最善だろう。

3.負けヒロインはカテゴリではない

 われわれはどうすればよいのか。創作に現実をオーバーレイする行いから降りたあとに残される選択肢はひたすら物語に構造と機能を見出す事務作業、もしくは「萌え要素」を見つけました! いいですね~と反応する動物的な価値判断の2択だけではないはずだ。

 ポップカルチャー作品を構成する様々な要素=カテゴリを起点ではなく終点に置きなおす作業は、有効な手立てのひとつとなる。外見のような悟性以上の観察プロセスを必要としない要素もあるが、成立したカテゴリすべてがそれに該当するわけではない。「お嬢様」をお嬢様たらしめるのは水着回で遊びに行くプライベートビーチのみならず日常的な会話や彼女の振る舞いに見出せるだろうし、「ツンデレ」をツンデレたらしめる因子は例の口上*6だけではなく、他ヒロインも含めたやり取りのそこここで感知されるはずだ。

 冗長な文章を読んでくださっている賢明かつ忍耐強い方ならとっくに気付いているだろうが、任意のキャラクターを負けヒロインと定めたうえで論じても同じ隘路に入ってしまう。ここで断言しなければならないのは負けヒロインはカテゴリではない、ということだ。そもそも負けるという行為は優劣が発生する一連の出来事を終えたあとで最終的に判明する結果であり、属性として先行するのは矛盾する*7。どのように、何に負けるのかを地道に追跡することで、はじめて負けヒロインとはなんなのかについて語れるようになるのだ。

                                    (続く)


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*1:n股をかけるとか適当な肉体関係を結んで恋人にはならないとかいうパターンは除く

*2:女性同士の恋愛を描く「百合」作品でも負けヒロインは生じうるが、今回は触れない

*3:実のところ簡潔というより粗雑なので読み飛ばしてほしい

*4:統辞論に倣ったものや読者の読解により接近した研究も多数あるものの、上掲と同様に本稿の関心からは逸れるため割愛する

*5:この点に関するインターネット上で閲覧可能な指摘は山川(2014)を参照

*6:わざわざ書かなくてよいだろう

*7:つまり現時点でタイトルはまだ適切とは言えない