小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

植野直花から学ぶ負けヒロインの生き様(中)

4.ヒロインは何に負けるのか

 ようやく本題に入る。分析対象は漫画『聲の形』である*1別冊少年マガジンで2011年2月に読み切りが掲載されたのち、週刊少年マガジンで2013年36・37合併号(8月7日発売)から2014年51号(11月19日発売)まで連載し、単行本は全7巻発刊された。聴覚障碍を持つ西宮硝子と石田将也の交流を中心にコミュニケーションでの困難とその克服を描いた作品、という要約で間違っていないと思う。

 大雑把な時系列を先に記しておくと、第1巻の1話から4話までは石田の通う小学校に硝子*2が転校してきた小学6年次の1年間に紙幅の大半が割かれ、それ以外は第6巻に収録されている主要キャラクターの独白的なエピソードを除き、ほぼ石田たちが高校3年次の1年間に沿って進み、彼らの成人式当日で幕を閉じる。主に石田の1人称視点で世界は描かれており、彼が拒絶した人物の顔に貼られる×印によって象徴的に表される。

 当作品は2016年に山田尚子監督によってアニメーション映画化(制作は京都アニメーション)されており、何度かテレビ放映もされたのでそちらをご覧になった方もみえるだろう。また講談社青い鳥文庫から上下巻構成でノベライズされており、原作コミックスにないシーンもあるが本稿では漫画のみを対象とする。ここまで来てわざわざ伝えるまでもないが全編にわたる内容を対象とするので、その点ご理解願いたい。

 分析手法はいたってシンプルで、何度も述べているように特定のキャラクターと彼女が好意を寄せるキャラクターを中心とした関係の結合と切断の様態を追跡していく。本稿における前者は植野直花、後者は石田将也である。『聲の形』は聴覚障碍が主要な題材とされているため、どうしてもメディアの紹介や公的な利用では硝子が聾啞であることに目が向きがちになる。もちろん悉皆確認できないほど世間に溢れる考察には本稿のように他キャラクターに目を向けたものがあり、植野について似たような方針で言及しているものも存在するだろうが、再発明を承知で負けヒロインについての考察を走らせる車輪製作にとりかかりたい。

  植野は石田と同じ小学校だったが、中学年-高学年ごろまで接点はなかった。作品内でのふたりの出会いは、植野の回想から確認できる(図1)。

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図1 6巻 p.132

 石田たちが小学校何年次の運動会かは不明だが*3、少なくとも5年次以前に植野と石田は出会い、そして植野はその時から「ずっと石田が好きだった」(6巻 p.131)。

 石田はどのように当時を振り返っているのだろうか。植野がアルバイトをしている猫カフェに来店した際、同伴した友人の永束友宏に尋ねられてこう語っている(図2)。

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図2 上段右は3巻 p.96、それ以外は3巻 p.95

 石田が主導した硝子へのいじめが問題となり、その後仲良くしていたクラスメイトからいじめられ高校3年生まで尾を引いた経緯から、小学校時代は石田にとって思い出したくない記憶になっている。実際、永束に植野かどうかを確かめるため猫カフェへ行こうと誘われた際、「気まずい仲なんだ 本当に…」、「思い出すとちょっと辛いくらい…」(3巻 p.87)と机に顔を伏せながら返している。とはいえ、小学校当時は「女子の中で一番話してた奴」だったと石田に記憶される程度の関係は築いていた。しかし、植野の本意は伝わっていない。

 小学校時代に戻ろう。石田と接点を持とうとする植野は、石田の母が経営する床屋へ散髪に来ている(図3)。

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図3 1巻 p.26

 テクスト内ではいつ頃から石田家に通っているか描かれていないものの*4、仮に先の運動会以前より散髪に来ているなら石田を既に知っているはずなので、それ以降の可能性が高い*5。だとすれば、植野は石田の実家が床屋を営んでいることを知ったうえで訪ねている。図3にあるとおり、仮に石田と遭遇しても校舎で交わすとげとげしい会話の反復に過ぎないが、関わりを持っていることに間違いはない。

 6年生に進級して友人の島田一旗や広瀬啓祐が馬鹿げた放課後の遊戯から離れていくなか、石田は「退屈に負けてしまう」(1巻 p.47)恐れを抱く。そんな4月上旬、5年次の学年末から噂されていた転校生、西宮硝子が石田や植野のいる6年2組にやってきた。石田は硝子をからかうことに楽しさを見出し、やがていじめへとエスカレートしていく。

 石田における退屈との戦いだった硝子へのいじめは、植野には違う意味を持っていた。石田の喜ぶ顔を見る。そんな彼女にしてみれば、いじめ行為を「反対する」という選択肢は端からなかったのである(図4)。硝子の世話役を担任から任され、苛立ちが募りつつも発露できなかった植野にとって「ヒーローに見えたのかもしれない」(6巻 p.133)石田に加担することは、自分自身の憂さ晴らしも兼ねたが関わるきっかけにもなっていた。

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図4 6巻 p.133

 硝子へのいじめは高価な補聴器の相次ぐ紛失という形で問題となり*6、校長も参席した「総合学習」を機に石田のクラスでのポジショニングは一変した。仲が良かった島田や広瀬、その他クラスメイトからいじめを受けることになったのである。だが、担任は「西宮をいじめた奴がなぜ友人を裁く権利があると思うんだ?」(1巻 p.153)と斬り捨て、「自己責任」の一言で介入しようとはしない。

 いじめの標的にされてしばらくのち、石田は上靴が8足もなくなった真相を暴くために午前7時前に登校し、硝子が朝早く来ていることを知る。彼女は教壇の花を飾るついでに、チョークの誹謗にまみれた机を拭いていた。石田が垣間見た当初、硝子相手かと思った落書きは石田に対してであり、その事実を知ったのは硝子が転校したのちだった(1巻 pp.154-156; pp.166-168)。

 石田の机の落書きを消しているのは硝子だと最初に知ったのは、石田本人ではない。植野だ。島田の誘いを断れず、意に反していじめに加担した植野は島田たちから落書きが消されている旨を聞き、誰が消しているのかを確かめに朝早く登校する。がらんどうの教室では、石田が見たのと同じ光景が広がっていた(図5)。

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図5 1巻 p.135

 「拭かないといけない理由」について、硝子が石田に好かれていると勘違いして好意を持ち、石田を振り向かせるために行っていると植野は推測した(1巻 p.136)*7。この解釈による硝子の行動は、とうてい植野が許容できるものではなかった(図6)。

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図6 p.136

 植野が石田を「将也」と呼ぶのは全編をとおして床屋での1コマ(図3)と内心を吐露した図6の2度しかない。前者は石田の母に対するものだったので、実質このコマが唯一下の名前で指示していることになる。加えて「私の将也」という非対称的な属格で言及された関係は、交際どころか告白さえもしていないからこそ植野の石田に対する強い感情の証左となる。

 こうした解釈のもと、植野の硝子に対するいじめは意味付けが変化している*8。図7の「あんたがいなくなるまで」「戦ってやる」という言葉は、石田と関わるためのいじめではなく、石田と独占的な関係を持とうとしている(と植野が解釈する)硝子に対抗するべく、彼女を石田から切り離すためのいじめになっていることを明らかにする。こうして硝子と植野は後者の一方的な敵対関係という強い負の関係で結ばれることとなり、それは高校3年次に再燃した。

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図7 6巻 p.137

 石田は島田、広瀬、植野、本編でしばしば関わることになる川井みきと同じ公立中学校へ進学したが、島田と広瀬によって完全に孤立した日々を過ごす。そのなかで、植野は石田に1回だけ声をかけている(図8)。

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図8 3巻 p.73

 女子高に進学した植野と近隣の公立高校に進学した石田はすっかり連絡が途絶えた。ただし、植野は進学先で同じ小中学校に通っていた佐原みよこと交流するようになった。佐原は石田たちと同じクラスで硝子と交流を持とうとしたが、のちに不登校となり、中学校では保健室登校をしていた(3巻 p.37; 6巻 p.82)。植野には長らく苦手意識を持っていたものの、学内のデザインコンぺの1件で*9話すようになり、仲良くなった(4巻 pp.54-56)。

 植野と石田の再会は意外な形でもたらされる。5月中旬ごろ*10、高校からの帰り道の駅前*11で小中の同級生に対する決別に思いを巡らせていた(3巻 pp.73-75)石田は、偶然にもバイト先の割引券を配る植野に出くわす(図9)。「西宮のためになるかもしれない」(3巻 p.89)と考えた石田は永束とともに猫カフェを訪ねたが、髪を結わえて眼鏡をかけた植野には気付かず、彼女が永束に話しかけてきても特に反応せず、店を出た。植野はここで行動に出る(図10)。

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図9 3巻 p.83

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図10 上段は3巻 p.100 下段は3巻 p.102

 出店した石田に手渡した猫型のポーチに忍ばせたシンプルな手紙は、手違いで永束が受け取った。勢いづいた永束は硝子の妹、結弦を引き連れてさっそく店を訪ねて告白を承諾する。が、植野は思いどおりにならなかったことに憤り、身も蓋もない言葉を永束に浴びせた(図11)。

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図11 3巻 p.107

 石田のメールアドレスを聞き出そうとした植野から永束は逃れるが、それしきのことで植野は諦めない。交流が続いていた川井経由で連絡を取ろうと画策し*12、対して石田は断るよう言伝を頼む。しかし、1枚上手な川井は植野に協力する形で放課後の校門にて石田と植野を引き合わせた(3巻 pp.113-116)(図12)。

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図12 3巻 p.116

 「完全に絶交したと思ってる」(3巻 p.96)石田からしてみると、この再会は不可解の極みだった。石田にとって植野は「俺のこと嫌いだった」(3巻 p.119)はずの人間であり、わざわざ会いに来る関係ではもうなかったからだ。成り行きで石田の自転車にふたり乗りする植野は、石田からプレゼントされた猫型ポーチを持つ硝子を走り際に見かける。石田への返礼品を花屋で探す硝子に、植野はにべもなく「気持ち悪ッ」(3巻 p.121)と言い放つ。しかし、石田の「あれ 俺があげたんだ」(3巻 p.121)という言葉を聞いた彼女は、言葉を発せずに首を垂れた*13

 かかる現状が植野にとって好ましくないことは明白だ。ほかでもない硝子が、自身の告白の手紙を入れた猫型ポーチを石田から渡されている。しかも手紙は誤配されて「モジャ頭のデブ」に届いた。転倒させてまで自転車を止めた植野は、硝子のもとへ向かい小学校の時と同様、補聴器を外して石田に手渡す(図13)。

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図13 3巻 p.127

 補聴器を硝子に返す石田を、植野はさんざん笑い飛ばしてひとりその場を立ち去る。そののち、帰路の傍らでうずくまる彼女は泣いていた(図14)。

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図14 3巻 p.135

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図15 3巻 p.136

 これを機に本意を分かりかねる石田は拒絶の象徴である×印を植野に付与した(図15)。乗りなおした自転車の荷台で硝子との関係について聞いた植野は、ふたりが付き合っていないと分かり「泣き損したわー」(3巻 p.137)とあっけらかんな様子でふるまう。つづいて石田に硝子や佐原と交流するようになった理由を聞き、植野は「それって友達ごっこだよね」(3巻 p.139)と一蹴した。石田の奔走はかつて破壊してしまった硝子と皆が仲良くできる「可能性を返してあげた」いがためであり、植野もそのなかに含まれてはいた。だが、植野は「無理!」「私 西宮さん嫌いだし!」と間髪を入れずに断る(3巻 p.138)。後述するが、それは植野が望む「石田と自分の関係」ではなかったのだ。
 後日、植野は石田の家を訪ねる。小中学校の時、声をかければよかったと思っていたのに何もできなかったことを詫びるためである(図16)。石田は謝罪に対して硝子へ先に謝るよう訴える。この齟齬は石田と植野が想定する関係図の不一致によるもので、前者は硝子を中心とした関係の再生、あるいは再構築を考えており、硝子と植野の和解が先決されるべき事案とみなしているのに対して、後者は石田(と自分)の関係が中心にあり、硝子は謝罪の対象でさえない(3巻 p.153)。

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図16 3巻 p.151

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図17 3巻 p.153

 むしろ硝子は「石田と私の時間」が「壊れてしまった」原因でさえある(図17)。植野が思い浮かべる関係に硝子は見当たらず、排除することではじめて成立する。そんな彼女と石田が分かり合えるわけもなく、激しく反発して別れることになる。しかし、植野の石田と硝子の交流を疑うまなざしは、ほかでもない石田にも不安として内在しており、故に石田は植野を完全に払いのけられない。

 忘れてしまいそうになるがこの話は石田と硝子を中心とした物語で、本筋は永束が提案して石田をはじめとするメンバーが加わった映画制作に沿って進む。成員が固まった6月中旬ごろ、彼らは遊ぶこととなり、そこで石田は思わぬ参加者と出会う。植野だ(図18)。相変わらず主要キャラクターのなかで唯一×印が付きながらも、積極的に石田へ関わろうとする。もっとも、誘ったのは川井だった(4巻 p.27)。

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図18 4巻 p.27

 石田の予想に反して遊園地*14でのひとときは楽しく、「友達っぽい!」(4巻 p.38)とさえ思えたが、売店でアルバイトをする島田に遭遇し激しく動揺する(図19)。一瞬外れた植野の×印もすぐに付け直された(4巻 p.46)。島田の台詞にもあるとおり彼らを引き合わせたのは植野で、その目的は小学校の時のように「仲良くなれたら」(4巻 p.47)という気遣いだった。石田も気付いているように、植野の善意は働きかけられた者が断固として拒否するところまで彼の試みとパラレルである。

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図19 4巻 p.45

 「西宮さんが来なければみんなハッピーだった」(4巻 p.52)。植野の主張は石田が他者とのコミュニケーションに挫折した際、ふと浮きあがってくる。もちろん石田は「決めつけるなよ……!」と否定するが、硝子が来るまでの関係性を重視する植野にとっては「壊された」という形容がもっとも適っている(図20)。

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図20 4巻 p.53

 硝子を拒む植野、植野を含む6年次のクラスメイトを拒む石田。似通っている彼女を強く糾弾できない石田に対して、植野は自ら硝子と対話に臨むと表明。しかし、それは硝子との和解ではなく、かつての関係性を復旧させるための手段だった(図21)。

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図21 左は4巻 p.58 右は4巻 p.59

 この試みは植野が硝子は嫌いだという事実を再確認する形で終わった。結弦が硝子に預けたカメラで隠し撮られた観覧車の会話では、硝子に対しても持論を曲げない様子が窺える(図22・23)。相互の無理解――硝子も植野たちを理解しようとしなかった――により溝が深まり、そして攻撃も相互に行われたと植野は考える(4巻 pp.76-78)。彼女にとって小学6年次の硝子に対する行為はいじめではなく、戦争のようなものだった。硝子は何を武器にしたのだろうか。植野によればそれは「大人たち」で「石田は友達を失」う犠牲を払った(4巻 p.78)。

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図22 4巻 p.77

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図23 4巻 p.78

 ただし、植野だけが恣意的に石田との関係を構築しようと目論み、硝子を陥れようとしている見方はフェアではないだろう。相互に嫌悪している状況を認め合う形での和解に持ち込もうとした植野に対して硝子は「私は私のことが嫌いです」(4巻 p.83)と返し、交渉は決裂した。「私と話す気がない」(4巻 p.86)という植野の指摘は的外れではなく、硝子と植野が敵対関係で結ばれていることを再認識させる一幕となった。

 7月に入るか入らないかという頃まで植野と石田は接触していなかったが、石田家で映画の相談をする折にまたしても川井の呼びかけで再合流している(図24)。植野はあっさり謝って遊園地での一件も収束し、映画制作はひとまず順調に進んだ。しかし、滞りなく進んでいるからこそ石田は不安に駆られてしまう。その帰結として、夏休み期間の登校日*15に不要な詮索をされた川井の逆上によりふたたび孤立の危機を迎える(5巻 pp.104-111)。

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図24 5巻 p.11

 いじめへの罪悪感を抱きつづける石田は猫とじゃれる植野に出くわす。川井との騒動で映画制作に参加できない旨を告げられると、植野は「罰が足りない」と自責する石田に「インガオーホーなんてクソくらえ!」と喝を飛ばし、関係修復のチャンスをねだる(5巻 pp.115-118)。この行動は以前の「石田と自身の関係」に拘泥する態度と一線を画している。「みんなと仲良くしたい」(5巻 p.118)石田を後押しするための、純粋な善意なのだ。根本的な動機は孤独な石田を見てばかりいた中学校時代の後悔で(図25)、2者の関係が起点にあるにせよ、終点には硝子や永束を含む小学校時代とはまったく異なる集団がいる。

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図25 5巻 p.119

 植野にとっても賭けだった集会は、石田が硝子と結弦以外のメンバーに心無い言葉をぶつけて解散するという最悪な形で終わる。西宮姉妹以外の成員に×印が付与され、作りかけた関係を遮断する石田に植野は毎日連絡をかけるが*16、彼は放置する(図26)。そして夏休みの後半戦を硝子や結弦と遊ぶことに費やす。「私と一緒にいたら不幸になる」(5巻 p.156)と伝える硝子の不安を蹴散らすように時を重ねる石田は、西宮家と見物した花火大会でひとりだけ早引けした硝子の背中を見送りながら「何があっても西宮を守る」、「それだけのために生きられる」と決意を新たにする(5巻 p.178)。

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図26 5巻 p.157

 硝子が自宅マンションのベランダから飛び降り自殺を図ったのはその直後だった。気にかかり追いかける石田が寸前で阻止したが、硝子と引き換えに転落してしまう(5巻 pp.184-190; 6巻 pp.4-20)。石田を事故の衝撃で意識不明にさせた罪咎について、植野は硝子を激しく追及する(図27)。

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図27 6巻 p.33

 激しい暴力を振るう植野は、表層的にはもっとも硝子を拒んでいるかのようにみえる。はたしてそうだろうか。「こいつはみんなの気持ちを知りもせず 勝手にそれが一番いいって判断して飛び降りやがったんだ!!」(6巻 p.39)という言葉は、非常に感情的でありながら硝子の内心を見事に汲み取っている。植野にとって硝子は自身を含む石田の人間関係を破壊した張本人で、あまつさえ自殺を引き留めさせる形で彼の身体をも損傷させた、文字通りの「害悪」である。行動主体の石田の動機が身を挺しても硝子を守るためなのだから、植野の疎外はいっそう際立っている。彼女が望んだ関係はまったくといっていいほど叶わないことを加味すると、硝子への態度にはますます納得がいく。

 乱闘は硝子から彼女の母親へ相手を変え、他者の制止でなんとか終了する。駐車場の隅で佐原に心配される植野の考えることは、石田から見た自分の醜い姿の想像だった(図28)。

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図28 6巻 p.47

 ここであっさり引き下がるような植野ではない。西宮家以外を拒み、硝子との関係を強固にしようとした石田が動けなくなった時、彼以外の人間を排除してふたりだけの関係に沈み込んでいこうと病室のドアを閉めたのである(図29)。

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図29 6巻 p.62

 病室での籠城を咎めたのは川井ぐらいで(図30)、石田の母親さえ植野の身勝手な行為を「好きにしなさい」(6巻 p.116)と放っておく。「お墨付き」をもらった植野が目を閉じる石田の傍に寄り添うあいだに、映画制作を再開させる動きが徐々に起き始めていた。

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図30 6巻 p.114

 病室内で植野は何をしていたのか。自身を拒むことのない意中の相手とふたりになった彼女は唇を何度も寄せつつ(図31)、石田と出会った小学校の記憶を思い出していた。「西宮なんかにダマされんなよ」(6巻 p.138)という返事を求めない言葉は、硝子と石田の関係は虚偽であると植野がみなしていることを改めて傍証する。

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図31 6巻 p.131

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図32 6巻 p.138

 石田が命の危険を冒してまで硝子を守るのは「カワイソーで無口」なパーソナリティに魅力を感じただけであり、本当の心配というよりも色仕掛けの一種を硝子にかけられただけと植野は考えている*17。しかし、かかる見解は逆説的に石田と硝子が彼と植野においてなるように願った関係を結んでいる事実を認めており、「ザマーみろ」という台詞も劣位に立たされながら一矢報いたために口をついて出たものである。

 客観的に見て石田への慕情が叶わないことをすでに植野は悟っている(図33)。川に落ちた石田を助けたのは島田と広瀬で、前者は映画の音楽も植野に誘われて制作している(6巻 p.140-141)。植野は植野なりに彼女がずっと求める硝子の転校してくる以前の関係を再生させる努力をしていた。しかし、当の石田本人が意識不明になっては元も子もない。ならば病室で閉鎖的な関わりに耽溺するほうがよい。植野の本心は事実上の敗北宣言とも見受けられる。

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図33 6巻 p.141

(編集上の都合でコマ割りを変更している。上段右は本来の順番では最下段に来る)

 雨の降る暗い道を硝子に送られた植野は映画制作が再開すること、そして植野が来てくれたら嬉しい旨を筆談で伝えられる(6巻 p.143)。意地になって植野に食らいつく硝子に苛立ちも見せたが(図34)、最後は根負けして「音楽タントウ」=島田の連絡先を教える。「見ていることしかできない」と自己を責める植野だが(6巻 p.148)、石田に一言も声をかけられなかった中学校時代と比べたら、映画制作のグルーピングへ寄与しており前進しているといえるだろう。同時に石田との関係修復を抜きにした働きかけは、従前の画策が終わりを迎えたことも暗示させる。

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図34 上段は6巻 p.145 下段は6巻 p.146

 事故から約2週間経った9月2日*18の深夜*19、石田は目を覚まし毎週火曜日に鯉へパンをやったり、映画制作のメンバーと落ち合ったりした橋で硝子と再会する。橋上で石田はうわべだけのコミュニケーションが自殺未遂という悲劇を招いたことを詫び、硝子は泣きながら手話で応じている*20。そして、石田は硝子へ素直な気持ちを伝え(図35)、硝子も「分かりました」と手話で返答した(7巻 p.38)。

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図35 7巻 p.37

 回復した翌日、いつもどおり病室を訪ねた植野は石田の母から目覚めた旨を聞いたが、顔を見せずに帰ってしまう(図36)。植野が毎日病室へ訪ねていたことを石田はすでに硝子から聞いており(7巻 p.43)、その内実を知らないまま謝意を抱く。

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図36 7巻 p.42

 9月中旬ごろ、石田は文化祭へ行くために久方ぶりの登校をして完成した映画を見る。歓声をあげた恥ずかしさから一度はトイレに籠るが、永束に連れられてメンバーと再会を果たす(7巻 pp.61-83)。全員と会話するなかで植野を含めた全員の×印が外され、石田がようやく心を開く瞬間が訪れる(図37)。

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図37 7巻 p.95

 文化祭終了後、各員は進路にむけて歩みを進める。石田は上京を考える硝子をいったんは地元に残るよう説得するがのちに態度を変えて後押しし、結局硝子は東京へ行く運びとなった。そして石田も理容師の専門学校へ志望を固めた。そんな折、植野が石田家を訪ねる(図38)。

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図38 7巻 p.152

 植野には伝えたいことがいくつかあった。美容師ではなく理容師資格を目標にする硝子*21、転落した日に石田を助けた島田と広瀬。そして「少なくとも……3つはある」(7巻 p.155)石田が知らないことの最後は告げず、走り去ってしまう(図39)。

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図39 7巻 p.159

 最後まで植野は硝子のことを「好きになれないし」、「好きになりたくない」とさえ思っている(7巻 p.158)。しかし、そんな植野を石田は否定しない。好き-嫌いは不変のものではないから、小学校の時のように友人だった島田たちが突如として「一番わからない奴」になることもある。同様に、嫌いな人間がいつまでも嫌いなままであるとも限らない(7巻 pp.158-159)。

 石田の励ましに涙を拭うばかりの植野も、成人式当日は着付やヘアセットを硝子、佐原を交えた3人で行うほどになった(7巻 p.173)。相変わらず手話を交わすふたりに厳しいツッコミを入れるが(図40)、それでも隣合って式に出席している。本心は作品内から分かりかねるが、少なくとも植野と硝子の関係性は花屋の軒先や遊園地の観覧車で見受けられたそれとは違う。石田、硝子、永束、川井、植野、真柴の6人で記念写真を撮っていること(7巻 p.179)からも、植野が思い描いていたものではないにせよ、新しい関係が築けたと分かるだろう。

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図40 7巻 p.178

                                    (続く)


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*1:なお、以下で『聲の形』から引用する際には「巻数 p.(pp.)ページ数」で出典を記載する。スタイルが混在しているが可読性を考慮した結果である旨を断っておく

*2:彼女の妹も主要人物として登場するため名前で記載する

*3:硝子が転校してきた小学校6年次には運動会の描写がなく、開催時期もテクストから断定できない

*4:図3の来店時期は少し前の島田の台詞(1巻 p.23)や葉が落ちた街路樹から5年次末ごろと推定できるが、確定には心許ない

*5:石田の母に「いつもありがとうね」と出際に言われているので(1巻 p.27)、当該シーンの時点で複数回来店している

*6:「たった5ヶ月で」「8個も紛失または故障」した補聴器の総額は「170万円ほど」にのぼった(1巻 p.120)。額の大きさで石田も事の重大さに気付き、名乗り出ようと手を挙げかけたところで担任に一喝される(1巻 pp.121-122)

*7:管見の限り、作中で明確な理由には触れられておらず、あくまで読み手の想像に委ねられている

*8:そもそも例の総合学習以降は石田でさえ「西宮いじりは完全に無理だろうな」と判断している(1巻 p.132)

*9:2人が進学したのは服飾系の高校

*10:以降でたびたびおおまかに示す時期については、ほとんどが本編からの推測である。日にちが明記されているのは石田が自殺を予定した4月16日(水)、永束が映画の調達品を用意する期日として設けた7月18日、後述する夏休み期間の登校日である8月5日、意識不明の石田が目覚めた9月2日である。硝子と石田らが橋で会う火曜日に着目すれば精密な時期の比定も可能だろうが、二次的な関心のため立ち入らない

*11:JR岐阜駅周辺と思われる。3巻 p.82のふたりが対峙する背景は、岐阜駅北交差点から駅方面を見た景観と類似している

*12:川井は石田と同じ高校へ進学し、3年次ではクラスも同じになっている

*13:このシーンは最高なのでぜひ原作を読んでいただきたい

*14:4巻 p.32の全景からナガシマスパーランドと推測される

*15:8月5日(5巻 p.91)

*16:8月5日は火曜日だったので、翌日からずっと続けている

*17:図7の台詞からも、植野が小学生の時から硝子の聴覚障碍を「武器」と捉えていることが窺える

*18:6巻 p.166

*19:なので正確には3日

*20:重要なシーンだが、いっさい訳はなく(もっとも本作品の手話はまったく訳が付記されていない)、石田の返答を介した解説もない。解説サイトによると、石田ではなく自殺企図によって周囲の関係を壊した自分に非があると述べているようだ(sora 2014)

*21:石田の実家は理容で、彼自身は硝子が美容師を目指していると勘違いしていた