小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

今年はこういうの読みました2020

 中国でよう分からん肺炎の症例が確認されたと思ったら、あっという間に世界中へ感染が拡大して振り回された2020年。家にこもって活字を読む機会が多かったのではないでしょうか(読む量が増えたかどうかはさておき)。来年もきっと続くであろう新しい生活様式にむけて、会員が今年読んだ本を紹介します。面白そうなのがあったらチェックしてみてください。それではよいお年を!

 

10nies

大塚淳, 2020, 『統計学を哲学する』名古屋大学出版会.

 

 ぶっちゃけると私は定量的な方法、名指し(といってもだいぶ範囲が広いが)すれば統計的手法に長らく疑いを持っている。とはいえ統計モデルの具体的な不備を指摘する知識は当然持っておらず、たとえばp値を用いて5%水準で有意と分かりましたとか、決定係数がでかければ回帰式には説得力がありますとか、そういう機械的な適用で満足している事例研究への疑念である。

 本書は帯にあるとおり、「統計はなぜ科学的な根拠になるのか」という問いについて哲学的視座、具体的には「世界がどのようなモノから成り立っているかについて」思索する存在論、「命題や概念の意味を明らかにする」意味論、「仮定され解釈された存在を、実際にデータからどのように推論し、正しく認識するのか」に関わる認識論の立場から考える(pp.5-7)。

 本書ではベイズ統計(2章)、検定統計を中心とした古典統計(3章)、最尤法と回帰モデルの紹介から始まり、ディープランニングにも触れ(4章)、統計学とはちょっと距離を置く因果推論も言及する(5章)。序章で著者自身も述べているように、通しで読む必要はなく、自分の関心と近いところからかいつまんでみるのがよいだろう。

 と書いておいてなんだが、せっかく買ったし読んだというには一読するべきだろうと思い、愚直に頭からページをめくった。「データ解析に携わる人にちょっとだけ哲学者になり、また哲学的思索を行う人にちょっとだけデータサイエンティストになってもらう」(p.4)とあるように、同書はある程度どちらかの素養がないと難しい内容を含む。分かったふうに言っているが、ほかでもない私がどちらの知識もほとんど持ちあわせていないのでなかなか骨が折れた。特に具体例は名前しか聞いたことのないベイズ統計から始まるので、いきなり面食らってしまった。

 各章は統計手法や関連する数理的メソッドの具体的説明とその長所短所、そして哲学的含意という構成になっている。いずれにしても共通しているのは統計によっていかに帰納推論を行うか、という難問への回答と、それに関わる先の哲学的な考察である。推測統計は通時的に適用できる確率モデルと実際に得られたデータを二元論的に存在づけており(p.217)、検定理論や因果推論において明らかなように、反事実でありつつ可能な世界を想定し現実とのズレから事例間の関係や世界がどのようになるのかという予測を立てる。ベイズ統計のように得られたデータから仮説に関する信念の程度を根拠づける内在主義的な認識論に立つか、あるいは古典統計のように統計が正当化されうるかに着目する外在主義的な認識論に立つかという問題立ては、統計学に閉じこもっているとなかなか考えの及ばない領域だが、統計を正しく用いる際には避けてとおれない発想だろう。

 本書を読んで、私は闇雲に統計的手法へ食ってかかるのはよそうと思った。ただ、その有用性に信頼を置いたわけでもない。データは確かになんらかの含意を有しているし、そこから引き出せる可能性は大きい。しかし、データを利用し、解釈するのは人であることに変わりない。より精確な利用のためには、各人が統計的手法を地道に学ぶほかない。そういう当たりまえに気付かせてくれる一冊だった。

 

www.unp.or.jp

 

ヱチゴニア

会社四季報 2021年1集』,東洋経済新報社,2020.12

 

 久々に会社四季報を頭から読破した。会社四季報は辞書に近いため読破することは一般的ではなく、つまりこれは暇人の遊びなので、興味の無い人にはお勧めしない。さて、本書シリーズを知らない人に軽く説明すると、この本は上場企業およそ3800社の業績など重要指標をまとめている。色々な見方があるが、株式投資を行うさいの参考にするような使い方が多いだろう。どのように参考にするのかというと、それは多くの人が既にネット上で解説しているのでそちらに任せるとして、今回は大株主の欄に注目して少し書こうと思う。

 大株主とは要するにその企業の持ち主のことだ。証券会社などが持っていることが多いが、それは見ていてもつまらないので変わり種を紹介すると、非常にまれだが宗教法人が混ざっている。その宗教法人がその企業の株式を大量に保有するに至った経緯を想像すると、それだけで少し楽しい。その寺のHPを見て住職の顔を確認し、この人が投資をしているのかなと妄想を膨らませるわけである。また上場企業ではないが、文化放送は成立のつながりから聖パウロ修道会筆頭株主であり、このように設立時の支援に由来する場合もある。それ以外にはノルウェー政府の名前が目立つ。実はノルウェー政府は150社以上の企業の大株主であり、日本株への投資総額は数兆円を超えるようだ。JT筆頭株主財務大臣であることや、国際石油開発帝石筆頭株主経済産業大臣であることも味わい深い。個人の株主でも、どこかで耳にした人物が時たま現れるので無視できない。

 四季報は一見ただの数字の羅列で退屈に感じるかもしれないが、このように特定の部分に着目するだけでも、様々な楽しみ方ができる。もし書店で見かけたら、ぜひ手に取ってみてほしい。

str.toyokeizai.net

 

つおおつ

織田作之助夫婦善哉

 

 日本の戦後直後の文学を少しでもかじったことのある人なら、人々の当時の虚無感を分かりやすく滑稽な作品で打ち砕いた無頼派として太宰治坂口安吾織田作之助の3人がいたということはご存知だろう。この3人の中で、『走れメロス』がほとんどの国語の教科書に掲載されており誰もが読んだことのある太宰治、『堕落論』が倫理の教科書に載っており他のエッセイもしばしば国語の副読本などに掲載される坂口安吾に比べて、我々Z世代以降の人間がとりわけ馴染みが薄いのが織田作之助であろう。本作は織田作之助の代表作であり、短編で笑える小説なので小学読者にもぜひおすすめしたい。

 

 明るい芸者・蝶子が妻子持ちの31才の化粧品卸の旦那・柳吉に惚れ込み、結局柳吉は父に勘当され駆け落ちする次第となり、仕方ないので新たに2人で商いを始めて最初はうまくいくものの柳吉が芸者遊びをするせいでダメになってしまいまた別の商いを始めては柳吉のせいでダメになってしまう……というのを繰り返す戯作小説であり、今風に言えば「だめんず」ものである。

 

 泣きあり笑いあり、最後はほっこり、という流れは戯作小説であるため当然と言えば当然である。しかしながら商売が最初うまくいくものの柳吉が台無しにしてしまい、また別の商売をやり直すという構図が成立するのは、大資本が発達する前の、まだ「小商い」が世間に通用する時代だからこそ、という見方をすると違ったものが見えてこないだろうか。

 

 橋本健二『新・日本の階級社会』では現代の人々を「資本家階級」(大企業経営者)「新中間階級」(大企業のホワイトカラー)「労働者階級」(中小企業のサラリーマン)「旧中間階級」(零細事業者)「アンダークラス」(非正規労働者)に分類している。「旧中間階級」の特色は、旧中間階級はアンダークラスと同じくらいの収入の場合もあるが、自分で商売をしているためうまくいきさえすれば自分が豊かになれること、つまり希望があることだ*1

 

 なかなかやり直すのが難しいとされている現代において、柳吉・蝶子のように小商い(特に実店舗!)を繰り返すのは困難であろう。もし柳吉・蝶子が現代でてんやわんやするとして、私達はそれを笑い飛ばせるのか。彼らはすぐに「希望」のない「アンダークラス」落ちしてしまい、「希望」があるからこそ笑いの対象となる戯作小説ではなく『クローズアップ現代』に取り上げられる存在になってしまうだろう。大資本が発達した世の中で、夫婦の商売ドタバタ物を明るく描く方法は分からないが、『夫婦善哉』を読んでふとそんなことを考えた。

www.shinchosha.co.jp

 

ぽわとりぃぬ

村田沙耶香 2016(文庫版は2018) 『コンビニ人間幻冬舎

 

 本の帯にはこう書かれているしあらゆる感想ブログも文庫版に解説を載せた中村文則もこの見解を一致させている。

 

「『普通』とは何か?を問う衝撃作」と。

  

 主人公古倉恵子は、郊外の住宅地の普通の家で普通に愛されて生まれ育ったが、少し変わった奇妙な子供だった。

 公園で死んでた鳥を、お父さんは焼き鳥が好きで私は唐揚げが好きだからという理由で、母に「食べよう」と提案しドン引きされたりとかしてた。

 こんな感じで「普通」とは違う古倉はそんな自分を「治さなくては」と思いながら育っていた。もちろん中高とボッチだった。

 そんな大学一年のある日、ふとしたきっかけでコンビニのアルバイトに応募。初バイトの日に「いらっしゃいませ!」と声を張り上げた瞬間、「私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った(p25)」。

 それから古倉は18年コンビニバイト。コンビニの水を飲みコンビニ弁当を食い生活の全てがコンビニに。本人は満足してるっぽいけど、徐々に周囲から異物扱いされてく。ある日白羽という人物がやってきて「お前の生活はおかしい」と言われる。

 で、ちょっと話飛ばすけど、この白羽と「歪な」同棲をすることになる。古倉が初めて男と同棲したことで周囲は色めき立つが、この主人公は周囲と同じ基準を持っていないがために、結局異物な自分を再アピールする結果に。で、一回コンビニ辞めてみたりする。

 でもやっぱりコンビニがないとどう生きていいかわかんない古倉。やはり自分がコンビニ人間だと自覚して、再びコンビニに戻る決意をするのだった。

 

 

 ざっくりまとめたあらすじだけど、この小説の問う普通てのが普遍的やってことがわかる。それをコンビニという小さな箱で描いたのがこの小説の卓越さ。それに普通を問うだけあって人間への観察力がすごくて、かつその描写がコミカル。

 ただ俺はメラネシアの役割的人間―Individualよりperson が優越してる人間像―を知ってるし、自由恋愛が近代に創造されたことも知ってる。

 みんなも正社員が今や普通ではないくらいの意識は持ってるだろうし、この手のテーマの作品は何回か見たことあると思う。

 

 

 だから周囲が古倉に押し付ける「(ヘテロ)恋愛をしなければ」とか「就職しなければ」とかいう普通に「またこれか……」という退屈さを、俺は感じた。

 それでもこの小説が斬新だったのは、主人公をアスペ女にすることで定型発達が持つ普通/異常=勝ち/負けという等式から脱出したことだ。

 古倉の対として描かれる白羽が固執するこの等式(大企業に勤めてきれいな嫁さんをゲットしなければ)を古倉は持っていない。埒外にいる古倉の視点からは、普通に拘る人間たちの奇妙さは滑稽で怖く映る。

 

 

 そう。

 持っていないだけだし、脱出に成功しただけだ。

 それだけでも十分にすごいし、ぜひ読んでみていただきたい。

 

 決してこの小説は普通を問うていない。主人公はそれをないがしろにして一抜けしただけ。

 むしろ普通は温存されているし、これとこれって名指した分、普通はますます明瞭に強固になってしまった。

 

 ましてや普通に異議申し立てをしてオルタナティブな生き方を提示したわけでもない。

 ガイジだろうがコンビニ人間だろうがどれだけの言葉で飾り立てようと、人の腹から生まれて一直線に老いていくことは撤回できない。その過程で再生産を要求されることも。

 

 つまり。国民年金所得税、将来へのリスク……。あるいは古倉が定職についてないと親の介護で古倉の妹が割を食うことになりうること。70歳ぐらいでコンビニから放逐された古倉の面倒を妹の子どもが見ざるを得ないだろうこと。

 普通から脱出したデメリットの描写がない限り古倉はフィクションのキャラの域を出ないと、個人的に思った。

 

 

 欲を言えば、こうした危機的状況に対面した時コンビニ人間がどう対処するのか知りたい。またしても?誰かに面倒ごとを押しつけて脱出するのか、あるいは治るよう努力するのか、はたまた普通とは違うオルタナティブな回答を提示できるのか。

 そこまであがいてようやく俺たちは問うことができる。

 普通とは何か。

books.bunshun.jp

*1:『新・日本の階級社会』中で取られたアンケートで将来への希望を問う項目があるが、アンダークラスと旧中間階級で回答は異なっている。