小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

人間はいつになったらクイズの出題をやめられるのか

そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。(ルカによる福音書第4章3‐4節)

 

 みなさんは大学入学共通テスト(以下共通テスト)の問題作成方針が今年の1月末に変更されたのを憶えているだろうか。ごく簡単にいえば、記述式を諦めた。その理由として採点の精度への疑問、自己採点の難しさ、費用対効果の不確かさが挙げられている*1。英語民間試験の導入も見送られ、結果的に共通テストとセンター試験の目に見える変更点は「数学Ⅰ」「数学ⅠA」の時間が70分になったこと、英語の得点配分が記述200点リスニング50点からリーディング100点リスニング100点になったこと、大学の成績提供が9段階式+国語の大門別点数になったことぐらいで、問題の具体的内容がどれほど変わるかは出たとこ勝負なのが実態だ。

 人員的技術的な側面による共通テストの意欲的な試みの挫折は、傍観者からすると単なる「骨折り損」の感を抱かせるが、この意味についてすこし考えてみたい。すなわち、導入されようとしていた記述式には、知識を問うという点においてどのような新規性があると考えられていたのか。また、ここでいう「知識」は共通テストという制度においていかなる意図を持たされていたのか。

  前者の疑問については3年前に公表されたマーク式のモデル問題が参考になる*2。たとえば国語は街並み保存地区の景観ガイドや駐輪所の契約をもとにした会話が出題され、文章の読解というよりは議論の要約や定められた条件で手際よく意見表明ができるかを見極めようとしている。妙に抽象的で指示語を追わなければ理解できないセンター試験の文章とはまったく違う。実社会で役立つ知識を直接試したいという狙いがひしひしと伝わってくる内容だ。

 しかし、この国語の問題は本当に「表現力」や「知識」とやらを測れているのだろうか。たとえば景観ガイドの問題は問1~3までが要約や理解を試す形で、本人がどう表現するかなんていうことは必然的に最重要事項から落とされる。20~40文字程度では手短に伝えるという点でしか文章力は活かせないだろう。しかも問題文はたいして長くもなければチラシ調のガイドラインとそれに対する会話なので、センター試験の問題文と比べて相対的に内容は把握しやすい。それこそセンター試験レベルの文章のポイントを上の文字数で要約するというなら、相応の力量が必要となるだろうが、これで把握できるのは学力というよりは、具体的にいうと議題ですばやく話すのに必要となる対応力に留まる。

 問4で試そうとしている表現力についてもみてみよう。詳細は問題文を確認してほしいが、住宅の改修の制限や外装の調整といった、ありがちな景観保護による空き家増加防止と観光地化をもくろむガイドラインに反対する父と賛成する姉を目の前にして、回答者は姉の立場についた100字程度の意見を求められている。それは1文目に姉の意見とガイドラインの方針が一致する理由、2文目に「経済的負担」を軽減する方法を述べたうえで、問題文の「ガイドライン」を引用して1・2文目の根拠にした回答でなければならない。まるで砂場に幾重もの境界線を描いて、そのなかで子供を遊ばせるようなものだ。

 だが、まだこれら諸条件は正確な採点のために避けられないと擁護する余地がある。私が問題だと感じたのは、行政が示した方針に賛成するのを前提として、なおかつ肝心な経済的負担の行方は住民(=回答者)に任せるという姿勢である。そもそもなんでこんな条件が出ているのかというと、父親の「住民の負担が大きすぎる」指摘に、姉が「ある程度の住民の自己負担は必要だと思う。こういう地域づくりって、行政に任せっぱなしにしたままで、私たち地域住民は受け身でいていいのかな」と反駁しているのを掩護しなければならないからだ。姉は公務員なのだろうか。

 いっけん、これには落ち度がないと思わされる。しかしその正当性はあくまで行政の立場からみたものでしかない。回答例では「景観を保護するのに必要な予算は、計上を検討する」というガイドラインの記載を根拠にして、経済的負担を減らせると述べている。問題文にあまり込みいった内容は期待できないが、実際の景観保護の指針では、住民の生活上に必要な改修は内外問わず基本的に支援する体制が整っている。おそらく問題文の地域の「街並み」の保護では自己負担となるであろう屋内のリフォームにも、実際は予算が計上されている*3

 簡潔にいうと、実際のまちづくりはここまで「街並み」というパッケージを先行した実施はできないのだ。実際の過程でアクターに求められる複雑なスループットを、共通テストで問うのは非現実的という反論はもっともだが、一市民である回答者が行政の要請に応じる形で意見を表明する形で現実を要約した問題は、基本的にトップダウン型で面倒な部分は住民側に投げるポリティクスを密輸入していると考えたくなってしまう。

 続くモデル問題も、契約書をちゃんと読んで自分でさまざまなケースに対処できるようになってほしいという「要請」である。これらの問題について記述することは、確かに実社会の役に立つ。ただしここでの「役に立つ」というのは、厳密にいえば社会が求めるシステムに馴致させられて、役に立たせられることにほかならない。記述式で具体的に問われる知識の新規性とはこうした態度を前面に出して問うことであり、共通テストで問われる事実が、その知識の普及と定着を補強する。これが出題「意図」とみなせる。記述式というとなんだか自由で、クリエイティブで、新しい試みに感じられるが、そこで書かされるものが恣意的ならば、結局はそこそこ自発的に考えられる都合のいいエージェントか否かを診断されるだけになってしまう。

 上記の主張は「考えすぎ」と捉えられるかもしれない。それは管見自体が持つ不備に対する指摘だけでなく、記述式テストに対する素朴な信頼によるのではないかと思う。この信頼はふたつの側面を持っているはずだ。記述させればマーク式では分からない能力が測定できるという期待と、マーク式で把握できる能力には限界がある、もっと明確にいえばそんなものは実社会で役に立たないという不信である。

 後者の「一問一答」への疑念は杞憂ではなく、経験的に感知されてきたものと考えられる。だがいっぽうで、暗記は不要と断言するには時期尚早というのも分かっている。ウェアラブルのAI端末に依存している異星人が地球にやってきて、それなしでは2ケタの足し算さえもできない様子をみたら、あなたはどう思うだろうか。中等教育機関までの暗記を基礎とする学習の重要性を認識するにちがいない。同時に、単に暗記するだけで終わる知識だけでなく、知識の活用に関する知識、いわゆるメタ知識の必要性も痛感するはずだ。

 ところで、先に示した例え話はある程度現実となっていることを、日々の生活のなかで実感している人も多いだろう。Siri、Google Home、Alexa……あなたが使えるAIアシスタントに機械でも理解できるぐらい明快な質問を投げかけると、求めている答えを教えてくれる。口を開くのが面倒であれば、検索エンジンで気になる質問をするというよりオーソドックスな手段に頼ってもいい。こうした「日常」は、それを可能とする技術がなければ実現不可能だった。拙稿ではその技術が自然科学によるものか、長い時間をかけて改良が重ねられた複雑な社会制度そのものや、それによるシステムかの区別をつけず「奇跡」と称したい。

 そう考えるとこの世界は奇跡を重ねてきた結果といえる。コンロのつまみをひねって点火できるのは、火打石を使っていた時代の人からすれば奇跡であり、火打石で火が起こせるのは、舞錐式で火を起こしていた人からすれば奇跡である。現代日本人のほとんどが文字を読めるのも前近代の人々からすれば奇跡だし、極端にいえば文字を用いて情報伝達ができること自体が奇跡といえる。

 ただし、奇跡はその時代を生きている人に共通するわけではない。諸事情で学校に通えない人はたくさんいるし、最先端の技術がすぐに普及するわけでもない*4。奇跡といいえる技術やそれに含まれるあらゆる知識が「日常」に溶けこむには、E.M.ロジャースの5類型が教えてくれるとおり時間がかかる。

 この時間差が奇跡の陳腐化を防ぐ鍵となる。まだ奇跡とみなされうる技術や知識を持っている人々がとるであろうアクションは、その奇跡をなるべく持続させること、つまり秘匿である。こうした話をする際に、すぐ思いだされるのはM.ヴェーバーの権力や支配に関する論攷だろう。ごくかいつまんでいうと、権力(官僚制を想定している)が支配を維持しつづけられるのは、権力組織が知識を独占しているからだ、と述べたものだ。

 この知見を踏まえると、暗記テストとその出来で階層づけられる大学のレベル――学歴が就職の際のトラッキングになるのは、かなり妥当なことだ。ある種神秘的な専門知識の「実践」は、実は思ったよりも簡単なのかもしれない。ときどき医師免許を持っていない闇医者が逮捕されたという報道を聞く。実情はともあれ一定年数医師を「できた」ことは、否定したいが揺るがしがたい事実である。基本的に非常に高い学力が求められる医学部や医師国家試験の合格を経由しない医療行為が受けいれられていた現実は、確かにある。

 ここでテストを課す意味が2点挙げられる。ひとつは闇医者のような求められる技量に達していない者を安全や信頼のため、事前に排除する役割。いまひとつはすでに述べた「奇跡」を保護するための役割。厄介なことに、医療のような専門技術は前者の点が理解されやすいが、いっけんそうでないものは後者の点で批判に晒される機会がある。それこそ官僚は税金を給料としていることもあり、厳しい目を向ける人もいるだろう。

 本文は特定の職業への批判を目的としていない。それはおのおのの領域の裁量によるもので、部外者がとやかくいう資格はない。各資格試験やそれに基づく職業よりもよっぽど疑問視したいのは、さきほどの一点目の意味が必ずしも要件にならないにもかかわらず、テストが問われる事態だ。こういったことはたくさんある。云々検定だのなんたらクイズ大会だの、そのなかには娯楽の形態をとられるものも多い。

 こういったテストで問われる知識は暗記しているに越したことはない。調べられない状況だってあるし、わざわざ検索するよりは頭に入っているほうがなにかと捗るからだ。だが、調べれば分かるのもまた事実である。

 「調べれば分かる」、これは根深い問題だ。なぜ文系は理系にくらべて大学機関で軽視されがちなのか。冒頭でも触れた大学入試で、なぜペーパー試験を求めない形態が拡大しているのか。さまざまな理由が挙げられるだろうが、対象とする実態がどうあれ「調べれば分かる」という思いこみは、確実にその指向の原動力になっているはずだ。

 では、調べても分からない、つまり一対一の問答では把握できない力を記述式かなにかで試せばよいのか。それでは共通テストの試作品の二の舞を踏むだけだ。かといって「未知」である点に偏った評価を下すと、そもそも「未知」にアクセスできない社会経済的状況におかれた人々が除外される、前時代への逆行を犯してしまう。

 私はこうした考えを経たあとで、「奇跡」が普遍となった世界を想像する。石からパンを生みだす奇跡を使わずともパンがいつでも得られる世界でこそ、人々はそれをどうやって有効に活用するかを考えられる。ここで得られるパンに、優劣はない。東京でできたパンも、僻地でできたパンも腹に入れば同じで、問うべきなのはそのパンの用いかたである。サンドイッチに使いにくいからといって、フランスパンが無用の長物になるだろうか。同様に地域にはその地域特有の知識(ローカルナレッジが想起される)と問題と、問題を解決する知識体系がある。これを軽視してはならない。念のために付記すると神の言葉を信じる義務もない。社会における問題は一筋縄ではなく、だからこそ多種多様なアプローチが求められる。そんなことを、テストで測れるだろうか?

 クイズは時代遅れの営みといわれる時代が来なければならない。何かを問うことは相手の思考や知識の枠組を自然と束縛する行為だし、問うことで自身を知識の持つ側に定位しようとするならば、ただ嘆息が漏れるばかりだ。所与の知識から生まれるものこそ本物の知といえよう。

*1:日本経済新聞,2019,「共通テストの記述式問題、なぜ見送り 3つのポイント」,日本経済新聞ホームページ(=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53440380X11C19A2000000/,2020年5月24日参照) 

*2:https://www.dnc.ac.jp/albums/abm00009385.pdf

*3:たとえば金沢市の「金澤町家の保存と継承」は、町家の維持・修復、居住性・利便性の向上、活用促進を3つの方針として掲げており、あくまで住民・利活用者を前提としたプログラムとなっている。金沢市ホームページ(https://www4.city.kanazawa.lg.jp/11107/machiya/index.html,2020年5月25日参照) 

*4:私はGoogle HomeやAlexaといったAIアシスタントを持っていない