小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

路上でクルージング@八王子 番外編

  前回に引きつづき、八王子でのフィールドワークについて報告していきます。鋸屋根工場、そして関連する建築物について。見覚えはあるけど、なんだかよく分からないランドスケープの一要素が、これで少しは親しみを持てるようになったら幸いです。

 かつて八王子は、長らく桑都と呼ばれていました。桑を何に使ったのか、というと蚕の餌です。とにかく蚕の幼虫は、蛹化するまでの脱皮する以外の時間を、ひねもす桑の葉を食べるのに費やします。「蚕食」という言葉の語源なだけありますね。とはいえ、蚕の世話、製糸の過程はそのほとんどが屋内なので、第一印象は「めちゃくちゃ桑生えているなぁ」だったんだと思います。桑都と呼ばれるのも納得。

 回りくどくなってしまいましたが、鋸屋根工場は製糸工場の代表的な建築様式だったのです。画像検索してもらえると、ああこれね、と納得していただけるはず。画像検索するのが面倒という方のために、以下に何枚か載せます。

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浅川沿いにて撮影

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住宅街にも静かに残る

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市内に現存するものでは比較的大きい

 ところで、この鋸屋根工場の立地には共通項があります。それは地域や国に関係なく同一なものなのですが、なんでしょうか。別に小学はクイズ研究会ではないので、あっさり書くと鋸歯の地面に対して相対的に垂直な面の方角です。ほとんど北側で、ここに窓を設けました。窓は確認できませんでしたが、上掲の3つの工場は、すべて北にその面が向いています。

 となると、その理由が気になりますよね。答えは工場で行われていた製糸の過程と関係しています。絹糸は繭から数本の糸を一本に合わせてつくるのですが、どれだけ綺麗にできているかを確かめるために、光にかざしていました。工場内には照明があったのでそれを頼りにしていましたが、陽射しは時間によって変化するため、光量は不変というわけにはいかないのです。光量が変わると、基準が変わってしまいます。困りますよね。なので、製糸工場はなるべく日光が入らないようにする必要がありました。北向きにすれば、他の方向よりも1日の光量が安定するので、糸の選別も安定して行えました。もし知らない街で道に迷ったら、鋸屋根工場を参考にすると方角はとりあえずはっきりします。

 日本の養蚕業、製糸業で外せないのは片倉組(現片倉工業)です。長野県で創業し、日本、朝鮮台湾で工場を稼働させ、製糸業では他の追随を許さない成功を築いた企業です。近代以前より養蚕がさかんだった八王子にも、工場を持っていました。業績不振の紡績会社から明治34年に譲渡され、昭和18年に他業種へと所有主が変わりました。

 工場内には入れませんが、その向かいにある建物はかつての名残を残しています。

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養蚕業マニアなら見た瞬間、思わず声が出るだろう

 この建物のてっぺんにある小さな屋根状の構造(越屋根といいます)で、養蚕業に関連した建物と分かります。というのも、越屋根は養蚕の技法である清温育に欠かせない、重要な要因だからです。

 そもそも清温育とは幕末に群馬の養蚕家、田島弥平が発案したもので、湿度調整に重きを置いており、窓の開閉で実現させていました。現在のように空調で管理できないので、越屋根が必要だったのです。田島弥平は自宅を増築し、自ら新しい育成法を実践しました。それからこの建築様式が各地に広まりました。ちなみに、田島弥平旧宅富岡製糸場などとともに、絹産業遺産群として世界遺産に登録されています。

 写真の建築物は大正10年測図の地図にはなく、昭和12年修正の地図ではじめて確認できるため、1930年前後にできたのではないかと思われます。少なくとも戦前のものであることは確実ではないでしょうか。現存する越屋根を持つ住宅は、ちらほらとあるのですが、けっして多くはなく、貴重といえます。

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片倉製糸場の下に見える建築物と推測される

 ところで、なぜ上掲の建物の手前に消防車が写りこんでいるのかというと、火災訓練とかそういう類ではなく、現在の工場を操業している会社がポンプ車をつくっているからです。1枚の写真のなかに100年近い歴史がつまっていると思うと、ワクワクしませんか?

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同様式のものが2棟。おそらく増減はなく当初からこの棟数

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寮として使用されているようだが、現在は不明

 他のものですが、参考程度に屋内の越屋根部分がどうなっているかを見てみましょう(相模原市にある相模田名民家資料館です)。

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屋根裏のようになっている

 ちらっと覗いている民具はいずれも養蚕に用いられたものと考えられます。奥にある輪っか状のは、回転簇(蚕が蛹化する際に用いた、繭の形を自然に整えるための道具)でしょうか。

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民家資料館の外観。越屋根が確認できる

 現在の相模原市相模川沿いでも、養蚕はさかんでした。八王子と関連させると、この2地域はどちらも横浜へ伸びる絹の道の途上にあり、明治維新の外貨獲得に多大な貢献をした、いわば和製シルクロードです。ちょうどこのルートをたどるJR横浜線も、当初は絹糸を運ぶ貨物線としての役割を担っていたのです。

 以上のとおり、遊郭付近の川と製糸業の痕跡をめぐるフィールドワークをしてみました。きっとみなさんの住む街や、通勤通学している街にも、思わぬ歴史が潜んでいるはず。ぜひ興味を持たれたら、探してみてください。もちろん小学も、地道にさまざまな地域の歴史という小文化を探検していくつもりなので、お楽しみに。

 

「路上でクルージング@八王子」の参考サイト

八王子中央図書館,2016,「八王子にあった片倉製糸の工場や片倉製糸について知りたい。」,レファレンス共同サービス,(http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000186077,2019年3月16日取得).

八王子食糧株式会社,2005,「ご挨拶」,営業倉庫の八王子食糧,(http://www.hachiouji-shokuryo.co.jp/message/,2019年3月16日取得).