年度末、皆様いかがお過ごしですか。大学に合格して、これからの学生生活に不安を抱きながらも期待する方もいれば、怠惰な生活を後悔して心機一転、新しい活動に参加してみたいとはりきる方もいると思います。勉強、バイトに恋愛と何に注力するかは人それぞれですが、サークル活動はよく挙がる具体例のひとつでしょう。やりたい活動を細かく定めているなら、選ぶサークルもすんなり決まるかもしれません。ただ、なかには「興味あることを、共有しつつ発信したいなあ」とぼんやり考えている人が少ないないのではないかと思います。
ありそうで、そういうサークルは意外とありません(まさしく小学が創設された理由です)。小学は個々人の興味分野のプラットフォームとして、他団体にないような包括性を有すると自負していますが、認知度やどういった活動をしているか、いまいち分かりにくいというのも自認しているところです。というわけで、3月から4月にかけて2018年の活動報告をしたいと思います。遅れたことのていのよい言い訳では、けっしてありません。
今回の散策の舞台は八王子。のんびりとした、でもちょっと鼻がむずがゆくなるような春の3月上旬に実施しました。ちょうど1年ぐらいまえですか。光陰矢の如しという言葉が身に沁みます。
さて、みなさんはかつて八王子に遊郭があったことをご存知でしょうか。けっして現在の繁華街ではありません。川べりの、今は静かな住宅街にです。
交差点の街区案内図を確認すると、不自然に真四角な町が現れました。町内を通る幅の広い道も気になります。目的地へ急ぐこととしましょう。
到着しました。いざ目の前にしてみるとちょっとはずれの住宅街にしては広いですね。なんだか妙な光景です。ここはもともとなんだったかというと、田町遊郭の大通りです。この写真は、かつての大門があった方向から撮りました。「今昔マップ」で確認してみます。
わざわざいうまでもありませんが、「新地」は遊郭が開かれた地域につけられる典型的な地名です。街道沿いの散在していた遊郭が集められ、お墨付きを得たのが明治27年。この地図はそれから10年ちょっと経ったあとに製図されたものです。水田と林のなかに栄えるそれは、まるで性のラスベガスといえたでしょう。現在、当時の雰囲気を留める建物はわずかしか残っていません。
とはいえ、往時を偲ぶ建物をたずねるのがわれわれの本目的ではありません。遊郭の代表格である吉原のまわりを堀が囲んでいたのはご存知でしょうが、あのランドスケープはほかの遊郭も模倣しました。「遊女が逃げないため」なんていいますが、しょうじきその面において機能していたのかというと微妙です。それよりも、「堀に囲まれた空間」による演出という効果がより重要でした。いわば、テーマパーク的な空間のための装置として、堀はつくられたのです。
ちょっと話が逸れました。今回のクルージングは、かつて遊郭を囲んでいた堀を探します。いっしょにアスファルトの上を航行しましょう。
田町町内に入る際、われわれは「橋」を渡りました。
「橋」に流れるのは砂利とアスファルト。そう! 暗渠の入口ですね。
欄干から「川」を眺めます。半端に舗装された道路、排水溝、マンホール……においがプンプンしますね。さっそく飛びこんでいきます。
苔むした道路も階段のうえの勝手口も、暗渠という自己主張がビンビン伝わってきます。
この道を進むと、染色工場がありました。水を大量に使用する職種なので、適材適所といえるでしょう。
いったん戻り、大通りを突き抜けます。ここからは本題の堀をめぐる旅をします。
細い路地を行ったり来たりして、暗渠の糸口を探ります。先述したポイント(完全な舗装がされていない道路、面する排水口が多い、玄関ではなく勝手口が多い)に注目しながら歩いていると、気になる空き地を発見しました。
見たところ駐車スペースのようですが、隣にある駐車場と比較して、舗装状況に明らかな違いがあります。逆旗竿地といえるような、奥に砂利道が続く不思議なスペース。その先にあるのは、灰色の煙突。何があるのでしょう。
八王子食糧という倉庫会社でした。企業のホームページによると、本地で戦前からいくつかの業種を経てから、1969年に倉庫業を始めたようです。「今昔マップ」では、1960年代初頭にはすでに大きな建物が確認できました。また、倉庫の塀を見ると何本も排水口が並んでいます。ここはかつて小川だったのです。
倉庫の入口は鍵型の道になっていて、その脇に今でも水流が少しだけ顔を覗かせています。現在、田町遊郭付近ではっきりと川の流れが分かるのはここぐらいとなっています。
いったん流れから外れて歩くと、ふたたびマンホールが誘う小道が見えてきました。ここで暗渠と合流します。
アンパンマンのキャラクターは暗渠の特徴ではありませんが、思わず撮ってしまいました。さて、ここから曲がりくねった道を歩いて……
見覚えのある橋桁にぶつかりました。歩いていた場所が川だったということがはっきりしましたね。これぞ暗渠歩きの醍醐味です。
今回のルートをマップに示すと、以下のとおりになります。
Aがスタートした橋。Dが遊郭の入口で、かつて大門があったところです。Eは大通りの西端。そこから煙突を見つけたFの地点に向かう途中、道を曲がったところから暗渠の上を歩いています。倉庫の入口であるGからHは暗渠ではなく、2点を結んだ直線を対称にして、川が流れています。HからIはふたたび暗渠。そして橋の遺構にぶつかります。
あれ、と疑問に思われた方がいるのではないしょうか。「これ、堀じゃなくない?」と。田町遊郭は正方形の区画でしたが、どうやらその周囲を水路が囲んでいたわけではなかったようです。となると次に気になるのは、もっとも長い一続きの暗渠(E-F間の曲がり角からCまで)は、かつてどのように流れていたのか、という点です。
「今昔マップ」で大正10(1921)年測図の地図を確認すると、浅川から田町遊郭の南にかけて川が流れていたことが分かります。
当時はまだ街区が発展途上だったので、イメージがつきにくいですね。時代を下って昭和5(1930)年に補正された地図を見てみましょう。
浅川からひかれた件の小川は、昭和41(1966)年改測の地図では確認できず、戦後に暗渠になったと推測できます。ところで、冒頭に掲載した明治39年の地図を見ていただくと興味深い点に気がつきます。なんと、小川はなかったのです。
おそらく、この小川は人工的につくられたものだと考えられます。その用途は分かりません。農業用水だったのか、なんだったのか……ただ、用水の割には短い気がしますし、比較的短期間で、開発により川べりの農地はなくなっています。田町遊郭が造成されてからできたことを考えると、あくまで憶測ですが、遊郭らしい雰囲気、つまり橋を渡って異界へ向かうというランドスケープのためにできたのではないでしょうか。暗渠を探すこと自体、とても面白いのですが、その謎探しが呼ぶ謎もまた、興味深いのです。
これで遊郭にまつわる暗渠の探検は終わりですが、せっかく八王子に来たのなら見ておきたいものはまだあります。それは鋸屋根工場です! ……何それ? 詳しくは次回の更新で。それではまた。