小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

エロマンガレビュー ―『新堂エルの文化人類学』を文化人類学の院生が読んでみた―

 ぽわとりぃぬです。タイトルのとおり私は現在大学院で文化人類学を専攻しております。そんな私にとって外せないエロマンガが、『新堂エル文化人類学』です。今回の寄稿では、この単行本を文化人類学の観点からレビューしていこうかと思います。

 

 

 文化人類学という学問を聞いたことがあるでしょうか。文化人類学とは人間、特に他者を研究する学問です。19世紀後半から出来上がり始め、1922年をもって確立した比較的新しめの学問分野です。究極の問いは「人類とは何か」。では、社会人類学のほうは聞いたことがあるでしょうか。

 注目するのがモノや生活様式といった文化なら文化人類学、人間集団としての社会なら社会人類学というふうに、一応下位区分されます。とはいいつつ、実際にはほとんど同義語だったりします。「それは文化人類学社会人類学)の領域だよ」なんていうテーマもないだろうし、なんでもありの学問なので、そもそも扱えないテーマなんてないです。というわけで、私が専攻しているという理由から、用語は「文化人類学」で統一します。

 ちなみにもう1つ。アメリカで発展したのが文化人類学、イギリスで発展したのが社会人類学だという分け方もあります。後者の特徴は民族誌を比較分析することです。前者の他者は同じ国の人々(アメリカ先住民)で、後者の他者は海の向こう(各地の植民地)。歴史を背景にした違いです。今もこの違いがあるかはわかりませんが、たぶんほとんどないと思います。誕生から、コントやデュルケームとかのフランス社会学の影響を受けているのがイギリス人類学の特徴でもあります。

 隣接する学問は社会学です。社会学は主に「自分の社会」をみます(フィールドを比較する場合や先行研究だけでは、不十分な場合などに他の社会をみることもあるそうです)。一方で人類学は「さまざまな地域の文化・社会」をみます。「自分にとっての異文化」と言い換えてよいかもしれません。あとは視点が違います。社会学はマクロですが、文化人類学はミクロです。

 

 そんな文化人類学を冠した『新堂エル文化人類学』。著者はもちろん新堂エルという人です。この人、実はアメリカ人。父親が日本人なのでハーフですが、エロマンガを描くために来日したそうです。曰く、「日本はエロ表現に寛大だから」。彼の描くテーマは、触手、障害者、ドラッグ、腹ボテ、出産アクメなど。アメリカじゃ下手すると逮捕されかねないかもですね。てか、アメリカ人だから文化人類学(Cultural Anthropology)のほうに親しみがあったのかな。

 さて本作。発売は2013年12月にティーアイネットから。2011年9月~2013年11月まで月刊MUJINに掲載された話を収録した単行本です。彼は現在までに5冊刊行しており、この単行本は3冊目なのでちょうどキャリアの真ん中に位置しております。収録数は7話(第1話、第2話、第3話前・後、第4話前・中・後)で、それぞれ40P前後とボリュームがあります。この7話、全て一続きのストーリーで、タイトルは「フィールド・ワーク!」です。

 フィールドワークという調査技法は、文化人類学において非常に重要です。核を成しているといってもいいくらいです。これは対象となる地域に長期間(合計1年以上)滞在し、現地の人々と同じ生活を送るという研究方法です。その際の行動原則が参与観察(Participant Observation)と呼ばれるもので、様々なイベントや日常生活に内部の人間として溶け込みながら、同時に外部からの視点で客観的に観察を行うという難しい仕事です。

 

 

 ここからは、このフィールドワークがどう描かれているかに注目しつつ、「フィールド・ワーク!(第1話~第3話)」をみていきます。最終話(第4話)だけはストーリーの流れが異なるので、ここでは割愛します。

 中心となるキャラクターは宮下、さくら、斎教授の3人です。大学教員(おそらく京都大学がモデル)とそのゼミ生の女子大生2人が、不可思議な伝承を研究するために現地を訪れ、研究の名のもとに生徒2人(主に宮下)がエロい目(主に凌辱)にあうというのがだいたいの流れです。ただ斎教授、「現場調査」って言ってるんだよなあ……細かいけど気になる。「現地調査」のほうが用語として正しいような……

 それはそれとして、「現場」となる土地ですが、それぞれ「神衣那村(第1話)」、「とある漁村(第2話)」、「西太平洋のNG島(第3話)」。調査期間は、4日(推定)、1週間、3日~5日(推定)です。神衣那村は架空ですが、山奥の田舎の村です。

 特筆したいのが「西太平洋のNG島」です。曰く、この島は「西太平洋に浮かぶ世界第二の島」であり、「近代的な首都から一歩外れると人の手を知らない豊かな自然が広がり、その中に暮らす数々の部族は、現代社会の認識の外にある」ため、「人類学研究の聖地と呼ばれている」そうです。

 これらの引用から連想すると、1つの島が思い当たります。それはニューギニア島、より限定するならパプアニューギニアのトロブリアンド諸島です。根拠ですが、まずはイニシャルからの推測です。そこから地域を絞れたのは、傑作『西太平洋の遠洋航海者』(マリノフスキー著)のフィールドがトロブリアンド諸島だからです。この本とラドクリフ=ブラウンの『アンダマン諸島民』によって、近代人類学およびフィールドワークの方法論が確立したのです。クラ交換の舞台となった諸島ですね。文化人類学では常識中の常識の島ですが、しかし「聖地」にはなっていません。

 調査対象は日本の田舎と外国の「未開」地域、そして期間は1週間に満たないくらいというわけです。1回最低3か月、合計1年というのが目安であるため、フィールドワークというには短いです。でも宮下もさくらも学部生のようですし、実習と考えれば妥当な長さでしょう。なにより凌辱されるくらい現地に溶け込んでいるので、期間にこだわっても意味ないですね。

 

 ところでなんですが、読み始めたときの私の印象は「ずいぶんとステレオタイプだなあ」でした。調査対象が「田舎の秘密の儀式」に「漁村のオカルト信仰」、そして「『未開』の部族」。いかにもイメージしがちなテーマだからです。なにより、紛らわしいのでしょうがないといえばしょうがないんですが、民俗学とごっちゃになっていしまっています。民俗学文化人類学と異なり、庶民の語りの収集が主で、また文化に注目し社会構造には目を向けません。第1話と第2話は、むしろ民俗学のやり方をとっているようにみえました。

 とはいいつつ、この違いもあってないようなものだったりします。それでも私が民俗学っぽいなと感じたのは、国内の変わった風習を調査している(あと日本神話を引用したりもしている)からなのかもしれません。文化人類学でも変わった風習、奇祭を扱う場合はありますが、そういうときは生業と絡めて考察することが多いと思います。事象それだけを切り離して研究するのは、文化人類学ではまずしないはずです。人間の生活やあらゆる側面を取り上げます。まあ「それこそお前のステレオタイプだ」と言われてしまうかもしれませんが。

 

 

 最後に、文化人類学的に面白かったところを1つ挙げます。それは第3話のオチから「文化の客体化」が読み取れたところです。「文化の客体化」とは、文化を、観光客や統治政府の期待や視線を意識したうえで、自分自身から切り離したものとして演じる操作するものにすることです。ここでは文化は、自身の内側に備わる「本質的」なものではなくなります。外部との接触を経て外来の要素が都合よく取り入れられ、同時に、自分たちの手持ちの要素も取捨選択されます。そのうちに、他者の視線に応えて演じていたはずが、いつの間にか疑いようのない自分たちの文化として、本物になっていくのです。例えばフラダンスがそうです。こんにち私たちがフラダンスと聞いて思い浮かべるあの踊りは、実は19世紀以降に欧米の音楽を取り入れつつ創られてきた、新しいフラなのです。つまり、外部からの視線を意識して創造された「本物の文化」なのです。

 ではどのようにして、第3話で「文化の客体化」が表現されているのでしょうか。ストーリーが進行するにつれて(つまり宮下とさくらが現地の部族に凌辱されるにつれて)、NG島のとある部族にはかつてカニバリズムが存在していたことが明らかになります。「それは昔の話、現在では行われてはいない」という斎教授の推測とは裏腹に、宮下とさくらも最後には食べられてしまうのではないかと思わされます。あわや2人も餌食になるかというところでオチの種明かし。実は、凌辱も含むカニバリズムの儀式めいた一連の流れはパフォーマンスだったのです。この部族、実は頼まれて演じていただけだったのです。宮下とさくらを役者だと勘違いしていたとのこと。さらに彼らは「現代社会の認識の外にある」どころか、日本人研究者と頻繁に交流しており、日本語がペラペラ。また「伝統的な」家屋には薄型テレビが置かれ、床をルンバが走り、村長は萌えTシャツを着ています。このパフォーマンスも村にWi-Fiを設置してもらい、日本のエロマンガを快適に読みたいがために引き受けたとのこと。

 つまり、自身に貼られた「カニバリズムを行う部族」というイメージを利用して、利益を得るためにパフォーマンスとして実践しているのです。このパフォーマンスはおそらく「本来の」カニバリズムとはかけ離れたものとなっていることでしょう。しかしながらそれでも今となっては彼らの「文化」なのです。

 よくあるパターンのオチといえばそうかもしれませんが、文化人類学の名のもとに描かれた作品が、「文化の客体化」を端的に表現していたというのは、私には少し鳥肌が立つ思いでした。

 

 

 以上、今回は『新堂エル文化人類学』を文化人類学の観点から読んでみました。どうしても無視するかたちになりましたが、この単行本でも、腹ボテ、出産アクメ、アヘ顔、触手など新堂エルの持ち味はいかんなく発揮されております。文化人類学を知っていなくても楽しめる、シコれる単行本なのはもちろんです。しかし、文化人類学を少しでもかじると、より作品を楽しめるようになるというのも事実です。この本をきっかけに文化人類学に興味が湧いたという珍奇な人に届くことを願って、本稿を結びたいと思います。ありがとうございました。