小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

『放浪記』は古くて新しい

 どうも、つおおつです。あれ?次の記事はカカフカカについてのことじゃないって?HAHAHA!君はなんて物覚えがいいんだ!HAHAHA!

甦れ私の意欲甦れ私の意欲甦れ私の意欲甦れ私の意欲…

 閑話休題。今回は、林芙美子の『放浪記』の作中の詩をとりあげ、それとつおおつの思い出を交えながら、『放浪記』の魅力を伝えられればなと思います。

 

 これが今回の題材の詩です。

裸でころがっているといい気持ちだ。蚊にさされても平気で、私はうとうと二十年もさきの事を空想する。それでも、まだ何ともならないで、行商のしつづけ。子供の五六人も産んで、亭主はどんな男であろうか。働きもので、とにかく、毎日の御飯にことかかぬひとであればさいわいなり。
 あんまり蚊にさされるので、また、汗くさいちぢみに手を通して、畳に海老えびのようにまるまって紙に向う。何も書く事がないくせに、いろんな文字が頭にきらめきわたる。二銭銅貨と云う題で詩を書く。

 

青いカビのはえ二銭銅貨
牛小舎の前でひらった二銭銅貨
大きくて重くてなめると甘い
蛇がまがりくねっている模様
明治三十四年生れの刻印
遠い昔だね
私はまだ生れてもいない。

ああとても倖せな手ざわり
何でも買える触感
うす皮まんじゅうも買える
大きな飴玉が四ツね
灰で磨いてぴかぴか光らせて
歴史のあかを落して
じいっと私は掌に置いて眺める

まるで金貨のようだ
ぴかぴか光る二銭銅貨
文ちんにしてみたり
裸のへその上にのせてみたり
仲良く遊んでくれる二銭銅貨よ。 

 『放浪記』は、1920年代の日本を、林芙美子(当時20年代前半)が職や木賃宿を転々としながら貧しい中をなんとか明るく生きていくのを描いた自伝的小説です。この作品が彼女の出世作となりました。この作品の良さ、貧しい時の気持ち、それでも楽しんでやるぞという気持ち、時にすべてを忘れてあっけらかんとなる芙美子の姿は、むしろ現代でこそ受け入れられるのではないかとつおおつは思います。

 そして上記の詩は、そんな『放浪記』の一番最後のシーンに出てくる詩で、この詩でこの作品は閉じられています。この詩は、誰もが抱くであろうお金を拾った時の感情の推移と、芙美子特有の言葉のセンスや芙美子独特の感性がよく現れた素晴らしい詩であると思います。まず第一連から見ていきましょう。

 青いカビのはえ二銭銅貨
牛小舎の前でひらった二銭銅貨
大きくて重くてなめると甘い
蛇がまがりくねっている模様
明治三十四年生れの刻印
遠い昔だね
私はまだ生れてもいない。

  この連では、拾った銅貨の存在感が、大きくて重いという言葉から感じられた後、小銭を拾った時特有の高揚感と、なめると甘いという感覚の共起を感じ取れます。この独特な共起の後に、視点は小銭を見つめるものなら誰もがやりがちである年号への思索へと進んでいきます。

 ああとても倖せな手ざわり
何でも買える触感
うす皮まんじゅうも買える
大きな飴玉が四ツね
灰で磨いてぴかぴか光らせて
歴史のあかを落して
じいっと私は掌に置いて眺める

  貧しい林芙美子の前に突如として現れた二銭銅貨。それは彼女に著しい多幸感を与えます。何が買えるかを空想する時、出てくる物が、飴玉やうす皮まんじゅうというありふれた物だからこそ、嬉しさが深まるんですよね。

 つおおつも、財布の中のお金が数十円しかなく微妙に豆腐を買えないことに気付いた後、偶然実家から持ってきていた1円玉が数十枚詰まった貯金箱を発見して、豆腐が買えることがわかって幸せになりました。プリウスやクルーザーじゃなくて、うす皮まんじゅうや飴玉が手に入るからこそ、逆にとっても幸せになれるという人の気持ちがよく描けていますね。

 しかしその事だけではありません。ここでその銅貨のあかを落とすことによって、その銅貨で物が買える喜びから、純粋な銅貨をいじるという楽しさに変化するのです。

 まるで金貨のようだ
ぴかぴか光る二銭銅貨
文ちんにしてみたり
裸のへその上にのせてみたり
仲良く遊んでくれる二銭銅貨よ。

  ここで、銅貨から得られる喜びが、物質的な物からそれをいじることによって得られる精神的な喜びに変化していることが読み取れますね。『放浪記』では、あれもほしいこれもほしいと芙美子の物欲が垂れ流しにされている素直なシーンも多いなかで、最後はこのような終わり方をしています。結局は子供ごころに銅貨をいじるような楽しさが大切であるという根底があるからこそ、この作品は当時の世の中の人の心を掴んだのかもしれません。

 最近仮想通貨という物がブームになっています。投機的な需要が大半を占める中で、そのコインを草創期から愛し、そのコインの価格が上がっても決してそのコインを手放さない「コイナー」と言われる人たちも少なからずいます。そのような人たちも、この芙美子のような気持ちなのかもしれませんね。古くて新しい林芙美子の『放浪記』、みなさんも読んで頂ければと思います。