小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

人工知能は世界の論理を解明出来るか

 医学系の大学に入学してはや二か月。毎日の学習や定期考査など、学問が軌道に乗ってきた頃である。文系脳の僕にも理解できるような、素晴らしい理系の授業をなさる先生方にはとても感謝している。同時に、人間関係も多様となった。良好な関係の者もいれば、未だによくわからない者もいる。自分がその人でない以上、完全にその人の気持ちを推し量ることは出来ない。

 ついでに六年間男子校出身の僕が女性の気持ちを推測するのは至難の業である。仲の良い友人と話すことのない同期との差は、経験論的な交流の頻度の差なのであって、大事なのは人間関係に完全がないということを踏まえたうえで不断の努力をすることなのだ。不完全でもその人を知れば新たな発見があるかもしれないし、役立つことだってあるかもしれない。そんなことを考えながら、今日も僕は近くの人とのコミュニケーションを図る。

  さて、人とコミュニケーションをとるといってもいざやってみるとなかなか難しい。特に大学ではそれまでの世界とは違って、他者との交流は社会との交流の第一歩と考える節がある。人間が社会を理解する際、一人ひとり理解するわけにもいかないから人々の動きを現象と捉えて大まかに理解することが多いが、これは自然科学における人間の学習に通ずるものがある。ショウペンハウエルが言うように(実際はカントなのだが僕は未だカントの著作を全て読んでいるわけではないので読了したショウペンハウエルを引き合いに出させていただく)、我々は空間及び時間という制約の下、因果性を以て物を認識するのであって、我々の技術がいくら進歩しようとも完全な絶対性を認識することは不可能である*1

 

 このような話を聞いたときに僕はこう思う。「人に理解することが出来ないのなら、人ならざる人工知能であれば人間の枠にはまることなく、世界を観察することが出来るのではないか?」と。

 人工知能について様々な言説が飛び交っている。職業と関連の深い大学受験の頃はよく「これから生き残る職業・淘汰される職業」といった特集がメディアによって報じられ、学校でも話題となった。

 人工知能と聞いて貴方は何を思うだろう。我々の世代からするとやはり一番に思い浮かぶのはドラえもんだろうか。個人的には小学生の頃よく青い鳥文庫を読んでいたのもあって、はやみねかおる先生の傑作、「怪盗クイーン」に登場する人間味あふれる人工知能・RDを想起する。

 ドラえもんにしてもRDにしても、我々には人工知能というのは機械でありながら自律的な思考を持つ、人間にとっての良きパートナーと考えるのが一般的な見解ではないだろうか。しかし、自律的な思考を持つということは、それが人間並みのものだとしても超越的な高次元のものだとしても、いつ人間と敵対するかわからないということを意味する。機械が人間を超えるというシンギュラリティ仮説が現実味を帯びてきている今、歴史を振り返りながら人工知能に関する真偽を考えてみようと思う。

 

 コンピューター、並びに人工知能の発想が生まれたのは19世紀後半のことである。

 当時、ダーフィト・ヒルベルトによる「数学基礎論(数学を論理学に包含する試み)」とそれに基づく「記号計算万能(対象を記号で表し、記号を論理規則にもとづいて形式的に操作することによって対象についての正確な知識を得ることが出来るという考え)」や、ゴットロープ・フレーゲによる「述語整理(諸概念を正確に記述表現する言語)」、バートランド・ラッセルの「数学原理」やルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」といった、論理主義な発想が西洋で盛んとなっていた。

 こうした時代背景から英国の数学者アラン・チューリングが現在のコンピューターの作動の理論的基礎をなすプログラムを、ユダヤ系の数学者フォン・ノイマンがプログラム内蔵型方式と0と1の二進法を採用したコンピューター設計図をまとめた。

 特筆すべきは、彼らが目指したのはただの高速計算機ではなく人間のように思考する機械であったということである。機械に数値計算だけでなく公理を論理的に組み合わせ、プログラム通り形式的に高速操作することで正しい思考による人間の一般的な問題を解決する機械、すなわち人工知能を彼らは夢見たのだった。

 しかし、結果として当時の人工知能では高速論理処理に長けるパズルゲームのような小さな世界ならいざ知らず、広大で錯綜とした現実世界に応用することは出来なかった。

 以上が人工知能の第一次ブームとなる。

 

 人工知能の第二次ブームが起きたのは1980年代のことである。

 これは現実の問題を解決する際、我々は論理よりも常識や知識を優先することを踏まえ、論理のみに依存した第一次ブームに比べて人間が獲得した知識を詰め込んだほうが、大局的な判断ができるのではないかという発想によるものであった。

 技術的な話にすると、当時集積回路の規模と密度が向上し、かなり大きな記憶装置と強力な処理装置が出現していたことも一因である。

 ついでに言えば、このブームの中心はアメリカであった。これは人間の代わりに人工知能に法学や医学の知識を記憶させる「エキスパート・システム」が、高額な費用負担を軽減するのではないかと期待されたからである。

そのアメリカで作られたのがインターネットとパソコンである。原理としては、多様な人々を結ぶことで人間同士の相互協調的なコミュニケーションを通じて論理処理を行うといったものだったが、これはつまり人工知能の自律性を疎かにしているともとれる。何より、第一次ブーム以来の厳密な論理に対して曖昧な知識が埋め込まれたため、本来あるべき「正確な思考を実現するための論理機械」とはならなかった。こうして第二ブームは挫折を迎えることになる。

 

 第三次ブームが起きたのはここ最近のことである。最も大きな要因はビッグデータパターン認識だろう。ビッグデータとは桁違いのデータ量、桁違いの種類、有機的に連結することが可能といった特徴を持つ、全体の傾向を知るのにはもってこいの膨大なデータで、近年の先進国における財政圧迫に対するイノベーション対策や、消費者個人に合った商品やサービスの提供、社会的安定性に寄与するとして注目を集めている(この文章を書いている最中、米グーグルが利用者の受信トレイをスキャンし、マーケティング目的で使用することを停止すると発表した。ビッグデータにおけるプライバシーの問題は、その性質上はっきりした対策がとれないぶん、深刻である)。

 パターン認識とは、画像や音声を大雑把に識別・分類する作業である。人間でいうところの「見当」であるといったほうがわかりやすいかもしれない。

 いずれにしても、“膨大な量を”、“全て”、処理せねばならず、人工知能が打開策となるのではないかとされた。

 しかし、従来の厳密な論理を引きずっていては第二次ブームとそれほど変わらない。そこで開発者達は遂に厳密な論理を放棄してしまった。これが第三次ブームの大きな特徴である。

 では、論理に代わって何が台頭したのか。それは数学にも関わらず曖昧さを絶えず保ち続ける特殊な学問。そう、統計学や確率論である。

 医学系の大学生らしく医者に例えてみよう。来診した患者が高熱と腹痛を訴えてきたとする。医師はその症状から何の病気かを推定し、薬を処方する。患者が食べたものや持病といった条件を考慮することでどのような病気なのかある程度絞ることは出来るが、医者が演繹的に病名を言い当てることは出来ない。このように、一般ルールと個別事実から個別条件を導く証明方法を仮説推量という。

 パターン認識というのは、結局のところビッグデータをもとにその情報の特徴を見つけ出し、その相関関係から個別条件を導くものである。何しろ量が膨大なのでよく当たる。流れだけ見ると“現在の人工知能のデータは質より量だ”と言ってもよい。最近よく言われる、人工知能の学習というのはこのパターン認識に由来する。確かに学習といえば学習と言えなくもないのだが、どうも違和感を覚える言い方だなと思っているのも事実である。

 その違和感に気が付いたのは、何年も前に読んでいた星新一ショートショートの一作品、「神」を久々に動画サイトで視聴してからであった。まだ読んでいない方にネタバレするのは申し訳ない気もするが、つまるところ「世界中の“神”に関する情報をコンピューターに入力したら本当の神が完成した」という話である。

 そもそもコンピューターや人工知能が作られるよう模索されるようになったのは「正確な思考を実現するための論理機械」を生み出すためであって、その為に厳密な論理や知識、統計という手段が用いられるようになっていった。確かに、手段はどうあれ守備範囲は広がっているし、これからさらに広がっていくだろう。しかし、それは我々人間の論理や見方の範囲内であり、決して規定されたプログラムを超えることはないのである。よって、膨大な情報を取り入れたところで人工知能が真に(人間らしく直感的に)概念を理解することは不可能である。概念と化して荒れ狂う高次元の存在はSF特有のフィクションだったわけだ。

 

 人工知能が人間の枠を超えることはなく、「正確な思考を実現するための論理機械」の“正確”はあくまで人間の認識を基にした、世界のごく一部における正確さであったと僕は結論付けることにする。しかも機械の論理より人間のコミュニケーション、ひいてはビッグデータを重視する第三次ブームの流れが衰えることは、一応の挫折が起きるまでしばらくはやって来ないだろう。

 むしろ、人工知能が概念を理解出来ないとわかったところで人と人とのコミュニケーションが再評価されるかもしれない。人間が世界を理解するには人間の認識が不可欠であり、人間の被造物たる機械が出来ることではないからである。

 最初に述べたように、人間は社会であれ自然科学であれ、そして人間同士であれ、大雑把にしか理解できない生き物なのだ。ならば人間らしく、不断の努力を続けるしかないではないか。

 際限のない人間の欲求による世界の理解の限界が先か、人間という種そのものの絶滅が先か。それは神のみぞ知るところである。

 

・参考文献 

ショウペンハウエル(斎藤信治訳)『自殺について』1979年 岩波文庫

ウィトゲンシュタイン野矢茂樹訳)『論理哲学論考』2003年 岩波文庫

中谷宇吉郎 『科学の方法』1958年 岩波新書

西垣通 『ビッグデータ人工知能』2016年 中公新書

 

*1:例えば人間が完全に物を測るということ。人間は物差しを使って物を測るが、これは人間がその物差しの精度に依存することと同義であり、㎜まで長さを測れる物差しはそれより先の正確な数値を出すことは出来ない。自然の絶対的な真理というのはまさに神のみぞ知るところである。