小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

アンチ就活アンチ

 こんにちは、ぽわとりぃぬです。あなたは就活嫌いですか、好きですか。やりたくないけどやんなきゃいけないからリクスー買ったりインターンシップ行ったりしてますっていう人多いですよね。

 何であれ物事にはアンチが存在します。そろそろ就活アンチが元気になる季節です。本稿は彼らの批判を批判してみようと思います。果たしてアンチのいう通り、周りと同じ格好に身を包んだ就活生はヒツジでしかないのか(逆に、アンチはオオカミなのか)。なお、本稿で扱う就活とは(文系)大学生が参加する新卒一括採用のことです。概要とか専門用語の解説は紙幅の都合で割愛しちゃいました。ごめんね。

 

 

 ではこの就活への嫌悪感は何に由来するのでしょうか。パッと思いつく「みんな同じ格好して気持ち悪い」という決まり文句。それってつまりどういうことでしょうか。

 

 双木(2015)によれば就活を嫌悪する理由は「大人に媚を売って気に入られようとすることへの抵抗感とそれを選択せざるをえない自分への失望を同時に味わうから(p85)」であり、それを象徴するのがリクルートスーツという画一的な外見だそうです。

 彼女によるとこういうことです。就活には客観的な基準(テストの点数のような)が存在しないため、高い評価を得るためには面接官や採用担当者に媚を売るしかありません。同時に、就活生は就活を自分の意志で選んだとみなされます。「やるべきこと」として強制される風潮はあるものの、あくまでも選択の責任は本人に帰せられるのです。

 こうして就活生は、したくもない就職のために意欲的な風を装い、大人に媚を売らなければならなくなります。また、そんな彼らに傍観者である大人たちは、優越感や冷やかしの視線を向けます。「ダサくてかっこ悪い自分(p89)」に葛藤しつつ就活を続けているから、就活生は自分と同じような格好をしている周りの就活生たちに嫌悪感―いわゆる同族嫌悪―を持つ。「みんな同じリクルートスーツを着ていて気持ち悪い」という言明は、就活生であることへの不快感を象徴したものなのです(双木 2015: 79-97)。

 みなさんが一度は聞いたことのある「就活生はみんな同じ格好で気持ち悪い」という言葉の因果関係が、双木によってきれいに整理されました。現在の就活においては、髪は黒、スーツも黒、ネクタイは青、就活バックも黒、ワイシャツは白の無地というように外見が画一化され、服装自由の場合でもスーツ着用は絶対といった暗黙のルールがはびこっています。

 これらが大人ないし社会への降伏を象徴してるから、気持ち悪く感じるというわけです。双木は就活生同士にのみ限定してますが、それ以外の立場の人もこの気持ち悪さは感じるでしょう。上への屈伏なんてみんな大なり小なり経験してますからね。

 

 さて、そんな気持ち悪さをかたちにした作品があります。『就活狂想曲』というアニメーションです(1)。この作品はYouTube上にアップロードされており、現在(2020年1月17日)468万回再生を超えております。この作品に描かれているのは就活生たちの異様さです。彼らはみな同じような笑顔を顔に張り付け、一様に黒髪黒スーツという外見で、採用担当者に気に入られようと振る舞う。主人公である女子大生は周りの就活生と同じようにできず、就活も順調ではないようです。ですが主人公のほうが表情は豊か。現代の就活を皮肉った作品と言えるでしょう。まあ一番の皮肉は作者が東京芸大の大学院生という、確実に就活とは無縁な立場であることですが。

 その他に紹介したい活動として、就活アウトロー採用(2)(3)という採用形態があります。これはNPO法人キャリア解放区が運営する就活サービスであり、2012年度からスタートしました。既存の就活システムに違和感をもつ人、つまり上っ面な企業説明や駆け引き満載の面接に嫌気がさした層を対象としたサービスだそうです。

 このサービスはリクルートスーツを着てエントリーシートを書き、面接で自己PRをするという現在主流の画一的な就活を強く否定し、採用担当と就活生がそれぞれのやり方でマッチングすることを推しています。29歳までの就職経験のない若者(中退や第二新卒既卒も可)が対象なこと、そして、サイトに掲載されている参加者イメージの想定や参加者の声から考えるに、このサービスは現在の就活システムから広い意味でこぼれ落ちた人を対象としているようです。

 とはいえ、自分が実際に参加したわけでもないし、身近に参加した人もいないし、大学の就活支援課の人も知らなかったしで、紹介しておきながら私個人は慎重な態度で見ています。でも「就活 気持ち悪い」でググったら上の方に出てきたし、知らないと思われるのも嫌だし。

 

 このように就活とは大人―つまり社会人―というよくわからない鋳型に自分を押し込める「通過儀礼」といえるでしょう。その不自然さを掬い上げた作品もあれば、オルタナティブなサービスを作った人たちもいる。

 こういう風に書いていると、まるで私が就活アンチのように思われるかもしれないので、ここで軽く否定しておきます。上記に紹介した作品やサービスを全面的に否定するつもりはありませんが、「就活は根本的に変革されなければならない(あるいは就活なんて廃止)」という意見に、私は同調できません。なんなら今の就活に合理性さえ見いだしているのです。例えば画一的な外見は、服装に興味のない私にとってむしろ効率的で心地よかった。

 さらに外見を統一することでかえって内面の差異が際立つようにも就活中は思えました。この意味において画一的な服装と人物重視の採用システムとは矛盾しない。むしろ同じような見た目をしてもらわなければ面接官は中身を判断できないだろうと思います。「人柄を重視するのだから、好きな髪形や服装を選択していいじゃないか」と反論されそうですが、面接官が見たい人柄とはそのような表面的な趣味趣向ではなく(もちろん装飾された外見は雄弁に内面を語るけれども)、態度や口調の奥に潜む根本的な性質のように面接を受けて感じました。つまり服装で「個性」を出すなんて時間の無駄・コスパが悪いと個人的には思います。

 

 さて、話を本筋に戻しましょう。就活(生)には「みんなおなじことをしている気持ち悪さ」がありました。就活生は自分の意志で就活を選択したと見做され、大人たちに気に入られるよう必死に振る舞っています。その結果、外見だけでなく面接での振る舞いやひいては自己PRの内容までもが画一化されているそうです。石渡・大沢(2008: 32-36)によれば面接には「テニスサークルの代表」が大量に現れ、一方で「珍しい学生」も同様に大量に現れるそうです。

 就活は「通過儀礼」のようで、就活生がまるでヒツジのようにみえます。「そうすると決まってるからする」という姿勢の彼らからは、主体性が見えません。主体性を回復するには就活をとっとと終えるか、ドロップアウトする―院進、起業、就活以外の就職方法を探す等―かしかないように思えます。

 就活批判の抱える問題点がまさにここに存在するのです。就活批判において就活生はシステムの被害者として語られ一切の主体性が捨象されます。換言すれば、就活批判は就活生を「体制に従うだけの彼ら」としてキャラ化してはじめてなされるのです。そのスティグマは同時に、キャラ化した側―就活アンチ―に「しかし体制を疑える俺たちは賢い」という自覚をもたらします。というより、アンチはそうした自覚が欲しいからこそ彼らに一義的なスティグマを押印し、物事を批判するといえます。

 果たして本当にそうでしょうか。就活生は大人の評価に左右されてばかりの馬鹿なのでしょうか。

 

 

 ケニアの首都ナイロビに暮らす都市住民を研究した人類学者の松田素二は、デモや暴動といった構造そのものへの大きな抵抗だけでなく、個々人が日常で実践する微細な抵抗にも注目すべきと主張します(松田1999)。

 松田は日常における微細な抵抗実践を「ソフトレジスタンス」として注目します。彼によるとデモや暴動といったハードな抵抗は、ときに打倒すべき構造を補強し再生産してしまうそうです(e.g. 植民地政府を打倒した政権が特定のカテゴリーの人たちを抑圧する政治をする)。彼によれば、実は根源的な変革の力は「ソフトレジスタンス」にこそ宿っているとのことで、「ソフトレジスタンス」とはハードな抑圧をいったんは受容し、その内側の日常で実践していく抵抗なのです。

 なんせナイロビに暮らす人たちが闘う相手は西洋近代により強制されたシステム―国民国家や民族分節、キリスト教―であり、これらに正面きって抵抗するのは分が悪い。だからその隙間をかいくぐって抵抗するのです。その隙の突き方が創発的なため、いつしか構造は内部から変質させられていく。例えばキリスト教や民族カテゴリーといった押しつけられた規範をナイロビの人たちは名前をそのままに中身を別物へと変質させました。また政府を批判したい時にはそれをほのめかす歌を口ずさんだりバスで流したりすることで意思を表明しかつ連帯し、しかし警官の前を通る時は沈黙するそうです。

 

 植民地支配の痕跡が残るナイロビを強かに生き抜く彼らとのんべんだらりとした日本の就活生を同じ俎上に載せるのはかなり気が引けるのですが、とはいえ松田の論は本稿に一定の示唆を与えます。「ソフトレジスタンス」は一見無秩序で非合理だと思われていた人々の日常実践に一定の価値を与え、弱者の抵抗として評価しました。とはいえこの「ソフトレジスタンス」、既存の体制を熟知してないと使えないように思えます。

 就活に援用して考えてみると、就活デモやそれに類する行動と同じくらい個々の就活生が実践する「マニュアルから外れた就活」にも価値がみいだせます。たとえ就活マニュアルに「履歴書は手書きで修正液はNG」、「面接会場には30分前に到着しておく」、「内定辞退は直接会社に出向いて伝えるべき」など書かれてたとしても、就活生は全てを遵守していません。「確かにしたほうがいい」「これはやらなくてもいい」というように自身の価値観でマニュアルを選別しているのです。

 また面接が東京や大阪でおこなわれる際、地方学生は面接時間と帰りの電車を調節して観光の時間を捻出するし(交通費を企業が出してくれるので観光を楽しむ絶好のチャンスでした)、なんなら行きの電車でエントリーシートを書く強者もいます。企業説明会の間は意欲的に振る舞っていたのに、帰りの電車で話してみたら「あんま行きたくねえな」と暴露したり。「公務員試験の勉強はしたくないが、公務員のような安定は欲しい」という思惑から準公務員の職種を受けてみたり。

 このように私が出会った就活生はみな、就活生であることを適度にサボっています。つまり押しつけられた規範をところどころ逸脱しているのです。その不真面目な態度はマクロな視点からすればたしかにただの怠惰でしかありません。しかし個々人の日常というミクロな視点からすれば、辛い就活を乗り越える狡猾さという意義があるのです。

 まとめます。就活生は就活というハード(ウェア)はたしかに受容しているが、就活実践においてそのソフト(ウェア)には抵抗し、個々人の価値観に合うものへと作り変えている。それらには就活を内部から変質させていく力が秘められている……かもしれません。

 

 

 と、このように就活生のサボりを礼賛してみました。やや過剰です。私は別に就活生を気持ちよくさせるために、この原稿を書いたわけではありません。とにかくアンチのシニカルな面が気に食わない、その動機だけでwordを開きました。この目的を達成するには就活生が「馬鹿な被害者」でないことを示さなければならない。だから彼らの就活実践に「ソフトレジスタンス」のような狡猾さを見いだしました。本稿において就活生はヒツジではなくなりました。就活生ひいてはその未来の姿である満員電車のサラリーマンの大群も、自分の人生を主体的に切り拓かんとする人間に変わりありません。

 就活生に主体性があるのは、就活アンチにとっては都合が悪いでしょう。就活アンチは彼らが無知蒙昧でいることを前提とした存在です。この意味において就活に一番依存していたのはアンチのほうでした。

 一方、馬鹿な被害者でなくなったことで就活生にも苦しみが訪れるでしょう。弱者だからということで免除された様々な義務や責任が彼らに課せられるからです。ナイロビの都市住民も投獄されながら、「ソフトレジスタンス」を継続していたのです。

 就活生の主体性を「発見」したことにより、就活から被害者や悪人といった均一な人間像が消えました。就活に関わる人間はどんな立場であれ目の前の仕事をこなそうと頑張っています。某市役所の採用担当者は「落とすつもりで面接してない」とインフォーマルな場で私に語ってくれました。葛藤と決断、真面目と不真面目、理不尽と必然、批判と称賛。就活ないしその参加者はあらゆる要素が集合したダイナミクスなのです。

 だから就活は問題だらけ? なのに就活は問題だらけ?

 だから就活はすばらしい? なのに就活はすばらしい?

 あなたの見たい現実はどれですか?

 

 

 

参考文献

石渡嶺司・大沢仁

 2008 『就活のバカヤロー』光文社新書

双木あかり

 2015 『どうして就職活動はつらいのか』大月書店.

松田素二

 1999 『抵抗する都市 ナイロビ移民の世界から』岩波書店

 

参考URL

(1)アニメーション「就活狂想曲

https://www.youtube.com/watch?v=M6rb6kknj3A&feature=emb_title (2020年1月17日閲覧)

(2)就活アウトロー採用2020

https://outlaw.so/ (2020年1月17日閲覧)

(3)キャリア解放区 “就活アウトロー採用”

https://career-kaihohku.org/outlaw/ (2020年1月17日閲覧)