小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

考えすぎのJK、あるいはクレーマーへのベストな対処法

 ある日。私ぽわとりぃぬがいつもようにスーパーでレジのバイトをしているとバイト仲間(JK)の苛立った声が聞こえてきました。「こっちはさあ、お客様が神様だとか思ってないんだけど」。そう言いながら陳列棚の間を歩くバイトJK(以下JK)の隣には同じくバイト仲間(以下A)がいました。AもJKと同じくムカついているようです。どうやら2人はお客様にクレームを付けられたらしく、しかも直接言われたようで、JKのほうはかなりご立腹の様子でした。

 またある日。おじいさんがレジのバイト(以下B)に尋ねました。「飛騨高山の〇〇〇はどこにいったんや」。ジジイの滑舌さえよければ、肝心の商品名は私の耳にも届いたでしょう。何となく良い酒かなんかだろうとは思えました。ともあれ、レジのましてやバイトが商品の配置を把握しているわけはありません。それが分かってないこと、そしてボケに伴う社会性の消失が声の感じから察せられること、この2つによってすでにバイトの間には緊張感が生まれはじめていました。しかしこういう質問への返答は決まっているのです。地雷を踏むことを確信したうえで次の一歩をだすように、Bは定型句を答えました。「申し訳ありません、お客様が探してなかったらないですね」。

 

 

 Twitterなどでしばしばバズるネタの1つに、「クレーマーにこう切り返してやった」というのがあるかと思います。非常識なクレームに対し痛快な返答を浴びせるというカタルシスを得られるアレです。本稿で問題化するのは、これが現実的な解決方法じゃないという点です。何も私はこうしたツイートが全て創作だと言いたいのではありません。即座にうまい返しをしてクレーマーを退散させることももちろんできるでしょう。私が指摘したいのは、現実として、クレーマーの前にもお客様はいたし、クレーマーの後にもお客様はやってくる、接客はシフトの長さだけ続くという事実です。つまりこの気持ちのいい世界は、1ツイートのエピソードとして完結しているからこそあり得るということです。

 では痛快な返答ができない、すなわち相手を言い負かしてストレスを解消できないのだとしたら、現実問題としてクレーマーにはどう対処すればいいのでしょうか。その答えはこうなります。「バイト仲間と仲良くする」。誤解しないでほしいのですが、これはなにも一緒になってクレーマーを言い負かそうとしてくれるからということではないのです。話を私のバイトに戻します。

 

 まずはJKのほうから。どうやら流れはこんな感じのようです。まずJKとAは、仕事中ですが、立ち話をしていました。するとやってきたOLが「お客様の前で立ち話をするな!!」と激怒したらしいのです。その剣幕はかなり激しかったようで、Aは「あんなに切れることないやろ~」とJKおよび私に何度も言いました。JKとAの感情は一致しており、理不尽な目にあってムカつくというものです。休憩に入ってもAの怒りは収まらないようで、弁当と蕎麦、レモン酎ハイなどを入れたカゴを私のレジにおきながら「今夜はもう暴飲暴食」「今日寝れるかなあ」と言っていました。私のほうから話を振ったわけではありません。「言われても俺おらんかったしなあ」というのが当時の私の素直な感想でした。同様にJKのほうも休憩中、店内をうろつきながらピョンピョン飛び跳ねまわっていました。あとで聞くとストレス解消の地団駄だったということでした。

 

 つづいてジジイのほう。Bの踏み出した足は見事地雷を踏みぬきました。「おいてないってなんであんな人気なもんなくすんや。客のこと考えんかい」。客が老害に生まれ変わった瞬間です。ハッピーバースデー。「はい、申し訳ありません」。機械的に謝るBにまだ文句を言いつつ老害は一度去りました。そうこの老害、店を出たわけではないのです。数分後にまたレジに帰って来てこう言いました。

「殻付きピーナッツがない」

 Bの返答はまたしても同じです。できるだけ柔らかい言い方をするしかありません。いちいちレジを閉めて探してあげるわけにもいかないですからね。「飛騨高山の〇〇〇もないし、殻付きピーナッツもないって、この店はどうなっとるんや~」と、老害は先ほどよりも激しく、そして長くクレームをつけ始めました。

 しかし、ここである重要な変化がもたらされました。品出しバイト(以下品出し)というアクターの参加です。背後で起きていた出来事なので、私はその瞬間を見ていないのですが、いつの間にか品出しが近くに来ており、Bは彼に老害を託しました。老害と一緒に売り場を見に行ってくれというわけです。品出しはレジに拘束されていません。ゆえに自由に動くことができます。つまり、品出しは老害の存在に他の客をも関わらせることができるのです。老害は品出しの後に続きBのレジを離れます。すると、2人は他のレジやサッカー台の間を通ることになります。無視できない距離に老害がくるわけですから、他のお客様たちや他のレジバイトは、老害に対して何らかのレスポンスを迫られることになります。この時点で私もネットワークに参加せざるを得なくなりました。私のレスポンスは他のアクターと同様、呆れた笑みを浮かべて互いに顔を見合わせるというものでした。厳密にいうとバイト同士のつながりはもう少し強固で、「あんな客はじめてみた」など互いに一言を交わしました。

 やがて老害と品出しが帰ってきました。老害の手に握られていたのは落花生。有ってよかったねで済まないのが老害です。「殻付きピーナッツが落花生のことやともわからんとは、ここの店員は勉強が足らん!」とBに再び絡みました。しかし先ほどとは打って変わって緊張感はありません。俺を含む他のレジバイトは老害から見えないところで、顔を見合わせて笑い合っています。Bは老害のクレームを無視してとっととレジを打ち、品出しは「はーい、大学で勉強しまーす。殻付きピーナッツについて」とぼそっと呟いていました。そして最後、会計が終わってもレジを離れずクレームを言い続ける老害に対しBは「他のお店に行かれたらどうですか」と対抗しました。もちろん火に油を注いだわけですが、次の客が並び始めています、老害もレジを離れざるを得ません。サッカー台で殻付きピーナッツを袋に詰めながらBを睨んでいたジジイはやがて店を後にしました。

 再びレジを通った品出しに対してBは品出しに「ごめんな」と声をかけ、それに対して品出しは「全然大丈夫っす」と答えます。このやり取りを他のバイトはもちろん見ていました。

 

 

 この2つのエピソードから何がいえるのでしょうか。それはバイトないし接客は、なにも客と店員という当事者同士1対1の関係に閉じているわけではないということです。周りの店員や周りの客など、その場にいるアクター全てに開かれているのです。この言われてみれば当然の事実をうっかり(少なくとも私は)見過ごしてきました。

 ではこれを再発見して何のメリットがあるのか。この事実は私たちを「お客様は神様か否か論争」から解き放ってくれるのです。現在、接客サービスはどんどん「過剰な接客をやめよう」「店員も非常識な客には抗してもいいじゃないか」というスタンスへとシフトしていっているように感じます。つまり従来の、まるで神のように客が優越していた一方的な関係から、互いに対等な関係への移行です。これ自体に反対するわけではありませんし、いい流れだと思います。むしろ私の心配は、「対等な関係で止まってくれるのか?」ということです。勢いのついた振り子が真下で静止するでしょうか。当然反対の同じ高さまで振り切れるに違いありません。振り子のように近い将来、神のように店員が優越するようになったら?同じように振り子は動くでしょう、かつていた位置に向かって。

 

 JKのエピソードにおいてJK(とA)と客の関係は3人で完結していました。客は当然クレームを言ったらとっとと帰ります。しかもJKとAは、同じクレームを受けたという点で同質です。つまりJKは「クレーム(を受けた)」というストレスをほぼ1人で解消せざるを得ないわけです。この弱い関係においてクレームは、JKの頭の中で反響します。何度か反芻を重ねた結果、彼女の思考は飛躍しました。今やお客様という主語は「さっきクレームをしたあいつ」ではなく、「客という存在」全てを含みます。そうして発せられたのが「こっちはさあ、お客様が神様だとか思ってないんだけど」。この発言そのものでストレス自体は軽減されたでしょう。この点は暴飲暴食を選んだAも同様です。しかしこれらの、特にJKの解決法の良し悪しはどうでしょうか。愚痴にせよ酒にせよどちらも一度は自分自身がストレスを吸収する必要があります。つまり解消しても体内に残留する。かつ思考の飛躍は認知の歪みをまねきます。この飛躍の厄介さは、「ここまで頭が回る自分って賢い」というナルシズムを伴うところにあります。だから自覚が遅れるわけなんですが、ともあれこの解決法はあまり良くはなさそうです。

 老害のエピソードにおいて関係は、Bと老害のみの間で完結しませんでした。他のバイトがいることに加え、客も味方でした。老害というストレスは品出しが老害を連れて歩いたことでその場のアクター全員に分散されたのです。そして重要なのはレジというモノの特性です。レジは客に一方向の動きを強制します。レジに客は留まれません。レジというモノのエージェンシーをくらった以上、客は流れに乗らなければいけないのです。それは老害にも当てはまりました。つまり彼がクレームを言い続けることよりも、レジの持つ力のほうが強かったのです。こうした多くのそして多様なアクターの参加する強い関係において、老害の発したストレスはBのもとに静止することなく、そして誰のもとにも留まることなくやがて霧消していったのです。

 私が先ほど「バイト仲間と仲良くする」と言ったのは、こういうことです。なにかストレス源があったとして、それを真正面から潰しにかかるのではなく、むしろ強い関係でもって対処する。真っ向勝負は勝てれば大きなカタルシスを手に出来ますが、負けたときのリスクが大きい。ならばそもそもそんな勝ち負けの二分法なんて無化してしまえばいいのです。この方法は客と店員に限らず使えそうです。みなさんのいるコミュニティでも効果を発揮してくれるかもしれません。これが私の提示するクレーマーへのベストな対処法。ただし対処療法ですけどね。

 

 

補足。本稿のテーマは自分のバイト先にアクターネットワーク理論を用いてみた、でした。あと、これって小文化か? と書いてて何度か疑問に思ったんですが、まあその辺はこう「小文化的行為」ってことでなんとか、ね?