小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

水龍敬は根が真面目? ――そこから痴女とビッチについての一考察

 

 ぽわとりぃぬです。個人的な記憶なんですが、エロマンガないしエロ全般で「ビッチ」という用語が使われるようになったのって、ここ2、3年のことではないかと思うのです。エロに積極的な女キャラ、とりわけ誰とでもセックスをする女キャラの属性といえましょうか。しかし私がエロを見始めた10年以上前、彼女たちのような女キャラには「痴女」というラベルが貼られていたように思います。そこで本稿では痴女とビッチの関係について考察を試みます。ビッチは痴女に取り替わるのか、または下位区分の1つなのか。具体的にとりあげるのがタイトルのとおり水龍敬作品です。現在のエロマンガにおいてビッチといえばこの人でしょう。

 

 

 日本のエロに「痴女」が登場したのはいつでしょうか。このことをずばり研究した本が、安田理央『痴女の誕生 アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』。19歳から30年近くAVに携わってきた著者はこの本で、「アダルトメディアの中で女性は、男性の性欲の対象として、どのように描かれてきたのか、どう変化してきたのかを振り返ってみよう」(p10)と目論見ます。そのために取り上げた5つの属性は、「美少女」「熟女・人妻」「素人」「痴女」「ニューハーフ・男の娘(女装)」。ここからはこの本をもとに痴女の誕生についてまとめていきます。

 

 現在のアダルトメディアで描かれる、淫語を言いながら男を責め、その行為に自らも発情していくという「痴女」像は90年代になって作られました。唐突に登場したわけではなく、プロトタイプが存在します。また、男性の妄想の産物と思われがちですが、作り上げたのはむしろ女性たちでした。女性が作った「痴女」像を男性が受け入れ、そして変更したというながれになります。

 90年代以前、痴女とは本来痴漢の対義語、すなわち男性に痴漢行為をする女性を指す言葉でした。この「痴女」が現在使われる意味を持つようになるのは、前述のように90年代です。安田によると、黒木香豊丸という2人のAV女優と美療系という風俗が80年代後半にプロトタイプを形成します。その後、ゴールドマンというAV監督がAVに「痴女」を定着させ、二村ヒトシというAV監督が「発情する女」という亜種を生み出します。

ここまでで2000年頃になるわけですが、これ以降痴女はもはやマニアックなジャンルではなくなり、いわゆる王道の「清純な」AV女優も痴女プレイをおこなうようになります。これは、痴女というジャンルの「拡散と浸透」を意味します。「乱丸」というメーカーから新たな「痴女像」が提案されもしましたが、とにかくこの「浸透と拡散」を経て、「痴女」は「男が考えた男のための痴女」(p189)へと変質しました。これをふまえて安田は、女性AV監督や女性誌のセックス特集を取り上げ、現実にも「痴女」が浸透していることを指摘し、現在女性たちのあいだでは男性への積極的な愛撫が一般化しており、女性が男性の感じている姿を見て興奮するのは当たり前になったと結論付けています(p189-203)。

 上記に挙げた諸アクターの営み全てを詳述したって誰も幸せにならないので、①プロトタイプのAV女優2人、②美療系風俗とゴールドマンが定着させた「痴女」、③二村ヒトシの「発情する女」、だけにふれることとします。

 

 ①.プロトタイプのAV女優2人に共通するのは、「セックスに貪欲ではあるが、その振る舞いは受け身」であることです。つまり彼女たちは、度を越した淫乱さを見せつけながらも、当時のAVの風潮である「女の子は基本的に受け身」という前提を守っています。

 ②.上記の前提を覆したのが美療系の風俗であり、ここに勤務する女性たちが男を一方的に攻めるというスタイルを確立します。同じ攻めるでもSMと区別される点は、男を感じさせること、快楽を与えることにあります。ゴールドマンの『わたしは痴女』(1995年発売)がヒットしたことでAV業界に「痴女」が定着したと考えられるそうですが、ここで描かれた、淫語を叫び男の身体を触りまくる「痴女像」はまさに美療系風俗のプレイでした。

 ③.①と②の提示した「痴女」は、単に男と女の立場を入れ替えたような存在でした。しかし二村ヒトシの描く「痴女」である「発情する女」は、相手が好きなあまりに押し倒したくなる、あるいは自分のなかの性欲が抑えきれなくなる女です。

 

 以上が『痴女の誕生』まとめになります。①の「痴女」は「セックスに貪欲ではあるがその姿勢は受け身」であるといえます。他方で②と③の「痴女」は「セックスに能動的である」という点が共通しています。この観点から見ると、どちらのパターンであれ「男のための女」であるように思えます。

しかしながら安田は「痴女は女性が作り上げた」と主張します。なぜ女性に作る必要があったのか。どうやらそれは、男を攻めたいという女性の欲求、ひいては女性の性欲そのものを肯定するためであったようです。一見「痴女」は男の妄想の産物に見えます。しかしそれは男性向けポルノである以上必要な側面であり、同時に一側面でしかないわけです。また「痴女」は、「セックスに無欲な、受け身な女性」という常識を、覆しはしましたが、否定はしませんでした。従来の「受け身な女性像」もいまだ生き残ってはいるし、実際そういう人もいるのでしょう。

 

 

 さてビッチにかんする上記のような研究はまだなされていないと思います。そこで本稿では水龍敬を取り上げ、持論を展開してみようかと思います。

 水龍敬は現在ビッチのジャンルを代表するエロマンガ家であるといえます。2005年頃から漫画を描き始め、2014年には初単行本『貞操観念0』が発売。また同人サークル「ありすの宝箱」としても活動し、こちらでは「マリア様がみてる売春」「MC学園」「おいでよ水龍敬ランド」などが人気で、どれもシリーズ化されています。なかでも「おいでよ水龍敬ランド」シリーズは、AVや美少女小説など様々にメディアミックスされ、彼の代名詞にもなっています。9月20日には商業本化もされました。

 水龍敬作品の特徴はなんといってもビッチ度の激しさです。お嬢様学校の生徒も、子を持つ母親も、三つ編み眼鏡の優等生も、はてはセーラームーンにいたるまで、ひとたびセックスが始まれば理性のネジが外れ、淫語を連発しながらちんこを咥え、乱交やアヘ顔は当たり前。コンドームなどもってのほか、中出しは絶対で、その際にはほぼかならず子宮が透けるという始末。しかしながら彼女たちは例えば薬漬けになっていたりはしていません。曰く「ビッチのエロいところはビッチ化前と後のギャップで、ビッチ化する契機に説得力が必要」だから。

 このような水龍敬作品に特異なのは、彼の描くキャラがみな節度を持って「ビッチしている」点です。どうやらビッチはやめることができるのです。

 水龍敬作品の共通点は、セックスする場、言い換えると彼女たちが「ビッチ」へと変貌する場が外と隔絶されていることです。例えば「MC学園」では、文字通りMC学園内がセックスの場となる舞台なのですが、そのきっかけはチャイムが鳴ること。生徒たちはみな催眠をかけられており、チャイムを聴くと「ビッチ」になり、また催眠が解けるとその時の記憶は忘れるようになっています。

 同様に水龍敬ランドは、その名のとおり「性のテーマパーク」です。こちらのほうが境界は明確で、園内で乱交やらエロアトラクションやらを楽しむ彼らも、外では清く正しく暮らしております。なお、水龍敬ランドには男も入場できるのですが、この点は本稿では踏み込みません。

 

 では当事者たる彼女たちは「ビッチへと変貌した自分」をどう解釈しているのでしょうか。セリフやモノローグから、どうやら「本当の自分」と捉えていると考えられます。「MC学園」に登場する平戸優子は学園関係者で唯一催眠にかかっていないヒロインです。厳格な家庭で育った彼女は、その反動としてSEXのことばかり考える「人格破綻者」になってしまいました。この「狂気」を矯正するため、両親によってMC学園に強制的に入学させられたのです。しかしながらMC学園の実態はビッチの楽園でした。これを目の当たりにした優子は、「世界の方が私に合わせて狂ってくれた」と感じました。彼女にとって催眠下のMC学園は「本当の私が受け容れられ、みんなと本当の“友達”になれる」場所です。

 「おいでよ!水龍敬ランド the 4th Day」に登場するヒロイン、ユイも同様です。女子高生である彼女は、普段の学校生活では清楚。しかしランド内では一転し、好みの男に「ちょっとパコってくる!」と走って行くようなビッチへと変貌します。この様子をみた同級生のケータくんは終始戸惑いつつも、「こーゆートコ来ることで普段の自分から解放されて救われる人もいるんだろうな……」と想像します。つまりケータの目には、「清楚なユイ:抑圧/ランド内のユイ:解放」という図式が映っていたと考えられます。他方、2人目のヒロインであるカエデは、委員長である普段の自分とランド内のビッチな自分の関係を「真面目なときは真面目にやる!遊ぶときはとことん遊ぶ!」と捉えています。

 

 これら2人(3人)のヒロインや水龍敬作品により、ビッチはこのように定義できます。「ビッチは遊びであり、そこには男の名指しが伴う」と。端的に言うと、ビッチはやめることができる「役」なのです。

 前半の部分、「遊び」から説明します。ビッチはチャイムが鳴る、ランドに入るというように、境界が明確です。彼女たちが「ビッチする」様子は、まるで休み時間に校庭でドッジボールをするかのよう、休日に遊園地に行くかのようです。そのなかで優子は「ビッチする」ことにのめりこんでしまった人だと考えられます。つまり遊びに本気になりすぎる人だということです。

 後半の「男による名指し」ですが、これは水龍敬作品によくみられるシーンです。行為中に竿役がビッチないしはそれに類する言葉を女キャラにかけるのです。これを女キャラは肯定します。つまり「そうです私はビッチです」とノるのです。あたかもロールプレイングのようではないでしょうか。

 

 

 さいごに本稿のタイトルである訳の解らん問いかけについて説明し、締めとさせていただきます。ここまで引っ張るつもりはなかったんだ、マジで。

 人類学における性行為の研究の1つに、各地の性ないしは性行為のありかたを独自の「性の文化」だと捉えるスタンスがあります。つまりその社会においては何が「自然な」性行為なのかを明らかにするのです。この性の文化の研究は同時に、実践のレベルにおいては人々が「逸脱した」、「正しくない」性行為を楽しんでいることも明らかにしました。そのほうが興奮しますよね。このように性行為には「遊び」の側面が大きいのです。ホイジンガはこの「遊び」を人間の本質の1つと捉え、人間は「ホモ=ルーデンス(遊ぶ人)」であると主張したそうです。彼はまた「遊び」の必要条件として、①役割になりきること、②自分に与えられた役割を徹底的に遂行することの2つをあげました。ならば生殖を目的としない性行為にこそ人間の本質はあるのではないか。人類学者の熊田陽子はこの視点に立ち、SMクラブを研究しました。熊田によると、SMという「プレイ」には客と嬢の信頼関係のうえに成立すること、またプレイ中は相手への配慮を怠らないことが必要だそうです。

 熊田の描いた「おんなのこ」たちはみな、私の目には「真剣に遊んでいる」ようにみえました。仕事である以上、真剣になるのは当然です。とはいえ、ここからは先述したカエデのセリフとの通底が見てとれないでしょうか。「遊ぶときはとことん遊ぶ」というビッチとしての真摯な態度は、普段の「抑圧された(と本人たちは思っている)自分」に支えられているように思えます。視点を変えれば、彼/彼女たちの真面目さが、水龍敬ランドという、新野安心のツイートの言葉を借りれば「ユートピア」、を成り立たせているのではないかと考えられます。

 ともあれ、この自縄自縛ともいえる「真面目さ」を読みながら感じた私は、「この水龍敬って人、ぶっとんだ内容描いてるけど、きっと根は真面目なんだろうな」と思い、そこから痴女とビッチについて疑問が生じ、本稿を執筆したのでした。

 

 

 

参考文献

 安田理央(2016)『痴女の誕生 アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』太田出版

 熊田陽子(2009)「『遊び』としてのSMプレイ―『おんなのこ』の視点から」『セックスの人類学』奥野克己ほか(編).pp197-222.春風社