小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

小文化学会の小文化的考察

 平成30年度になりました。とはいえ学生だと休みの方がほとんどでしょうから、そんな気はしないかもしれません。ちなみに、私もそうです。ゆるゆると過ごしています。

 さて、世の中のサークルは新歓に大忙しのようです。新しいメンバーを入れて世代交代するのが、生命体としてのサークルの使命なのかもしれません。また、新たな人間関係の構築のためにサークルを探している方も多いかと存じます。

 サークルとして機能するからには、成員同士が多かれ少なかれ似通った興味を持つ、いわゆる同好の士である必要があります。きっとサークル紹介冊子に掲載される紹介文は、ジンメルのいうところの社会的水準に該当すると思います。だいたいこんな人たちがいるんだな、私はこういう趣味だから、このサークルがよさそうだな……最大公約的な射程に、新しい環境に不安を覚える人はすっぽりと収まるはず、というより、自ら収めるのです。

 ところで、ジンメルは近代化が進むにつれて個性が発達し、それに応じて単一の集団(ジンメルのいうところの社会圏)から脱して複数の集団に関わるようになる、と100年以上前に分析しました。なるほど、確かにひとつの集団で完結した人生を送る人間は、現代社会ではほとんどいません。

 さらにジンメルは踏みこんだ「予言」をしています。すなわち、個性が発達した個人が多くの個人と関わることにより、集団はどんどん拡大するというのです。これが極まるとコスモポリタニズムに辿りつきます。みんな各々を個人として認めあえる。素晴らしい世界です。

 みなさんもご存知のとおり、その「予言」は外れたと言わざるをえません。インターネットにおける集団は、個性の発達ではなく、むしろ画一を求めます。「ムラ社会」という、埃をかぶって仄かに土のにおいがしそうな言葉が輝きを放っているのです。

 単純に個人が多く存在するインターネット空間はどこかを考えてみると、Twitterを挙げることができます。そこでは個人すら分化し、プラナリアのように個人の欠片が「個人」として活動しています。少なからぬ人がそうするのは、個人的な欲求というよりも社会的な要請が大きいと考えられます。パーソナリティのひとつひとつのみを集団内で発揮せよと、社会が個人に求めるからこそ、「個人」は際限なく増えつづけます。

 画一された諸個人によって形成された集団は、ネットにおいて時にひどく幼稚な、尊大な、暴力的な言動を吐きだします。それは一見すると数値化された賞賛や同意によって正論めいたものに見えてしまいますが、集団外からみると冗談にもならない内容なのです。どうして、こんなことが起きてしまうのでしょうか。

 いったんインターネットにおける分化した集団について振り返ってみると、掲示板「2ちゃんねる(現5ちゃんねる)」のいわゆる専門板がそうであると言えます。アクセスしたことがない方は、いちど検索してみてください。その数と分化の度合いに驚愕するはずです。すでにインターネットの主役の舞台をSNSに譲ったかのように思われがちですが、「2ちゃん」こそがもっともモダンなネット空間なのではないかと2010年代も終わりに差し掛かった今になって思います。となるとSNSポストモダン……? ある意味、そう言えるかもしれません。

 さて、検索して板(おおまかなカテゴリ)の一覧を眺めている方は、自分の興味に一致する専門板を探して、実際にアクセスしてみてください。名前に偽りなく、(すくなくとも知らない人間からみるとそう見受けられる)専門的な話を延々としている匿名の人々がいます。多少なりとも興味がなければ口を挟むことはできませんし、そもそもアクセスすることもありません。まさに未知の世界です。

 専門板がどうして入りにくい、関わりにくい集団に思えるのかというと、それは前出の社会的水準が高い集団だからです。高次な属性を持ち合わせていない人間を考慮しなくて済む、もしくは初めから排除した空間のため、心置きなく専門的な話ができるのです。

 翻ってSNSを見てみると、そこはプライバシー設定などを変更しないかぎり万人が相互的に開かれた空間にいます。コスモポリタニズムの体現、といえば聞こえはいいですが、そのなかで構築されるインフォーマルな集団が衝突しあうのは避けられません。先ほど少し触れたTwitterにおける個人の分化は、交差圧力を避けるための解決策といえるでしょう。しかし、個人レベルで葛藤を乗りこえても、集団では限界があります。

 というのも、交差圧力をかいくぐった「個人」が落ち着いた集団は、他集団との妥協を考慮しなくてもよくなります。属した集団の利益――集団の主張がいかに社会に轟き、通用するか――のみを考えた結果が程度を知らない言動とすれば、納得がいくでしょう。さらに性質が悪いことに、インターネットに存在する専門性が高いはずの集団は、感情的な言葉から鑑みるに社会的水準が高いようには見えません。ジンメルも、社会的水準が低い集団にたいする効果的な手段は感情に訴えることと述べています。

 ここから、それらに属する人々は、発展した個性を必要に応じて分化しているというよりは、動物的に消化したい感情を集団に適合化させて発散している傾向が推測できます。TwitterをはじめとしたSNSは、シェアによって受動的に情報をいくらでも得られる空間です。特段興味のない事柄や、背景を知らない話題まで目の前に現れます。それらをポットのような集団に落とし、同質の成員によって同類の意見を増幅させ、集団外の意見を受けつけない環境が、至るところに構築されています。

 このような行為自体に問題があるか否かというよりは、オープンな空間で行われていることが問題なのです。公園は誰にとっても開かれた空間ですが、公共空間だからこそ関係ない他者の存在も考慮しなければなりません。いわば、マナーの社会的水準を守ることが求められます。インターネットは一見、自分以外の存在は見えないか、もしくは一部しか確認できません。しかし、潜在的には開かれた空間なのです。特に同質な他者で構成された集団に属すると、それは完全に理解しがたくなります。

 インターネットによる交流が行われはじめた時、おそらく自由な他者とのコミュニケーションが想定されていたでしょうし、期待されたはずです。しかし、現在ではその理想は行き詰っています。これはとても虚しい結果です。本当にそのような空間の構築は不可能なのでしょうか。

 答えは分かりません。すくなくとも、インターネット全体でそのような交流をするのは、現在の利用のされかたからして困難です。ただ、開きなおって自由な交流を目指し、あえて社会的水準を低次のまま各々の個性の発展を目的とする空間をつくろうと目指すことは、不可能ではないと私は考えています。

 なんらかのカテゴリーを水準とすることも可能でしょう。それによって、集団の性質は分かりやすく、結束もしやすくなるはずです。しかし、たとえ設定した時には小文化、サブカルチャーであったカテゴリーも、いつかは中文化、大文化――つまるところ、メインカルチャーへとなっていきます。これは宿命です。

 小文化学会は、空間ないしは集団の補集合でありたいのです。空間という言葉に着目するなら、サードプレイスにも該当します。家庭や学校といった既存の空間に生きづらさを感じたら、ふらっと寄って立場や信条をいったん置いて普段目につけない事柄を伝えあう、または興味が合う人同士でアクティビティをする。そのためにも、活動の細分化や専門化はしませんし、したくありません。

 ここまで長々と書きましたが、簡潔にいうとこれが小学の勧誘活動です。最後まで読んでくださってありがとうございます。興味を持っていただけたら、TwitterアカウントにリプレイやDMをしてくださって構いません。お気軽にお声がけください。

 この文章を書いていたら夜が終わりました。あなたにとっても、小学にとっても今年度がすばらしい夜明けとなることを願っています。