小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

電子感想戦 第1回 田山花袋『少女病』(1)

 秋本番となってきましたね。食欲もスポーツも魅力的だけど、小文化学会としてはやはり読書の秋です。そんなわけで、シャレというわけでもないですが文化の日に初の試み、電子感想戦を行いました。事前に課題作を読み、ネット上で意見を交わす挑戦にどうなるかと心配しましたが、結果的に予想以上の盛りあがりを見せ、話は2日間にわたりました。長くなってしまったので分割し、順次アップしていきたいと思います。記念すべき第1回は、1907年発表の田山花袋少女病』。100年以上前の作品ながら、いまでも新鮮な作品。読めば読むほど新しい発見がありました。

 

参加者:10nies(以下10)

    エチゴ二ア(以下ヱ)

    モロトフ・カクテル(以下モロ)

 

プロローグ
     10:みなさんいますか? いる方はコメントしていただきたく
   ヱ:こんにちわ
   モロ:にちわ
   ヱ:三人かな?
   10:そのようですね
   10:今日は文化の日ということで、文化的なことをしようじゃないかと読書会をしたいと思います。まあ、後付けですが……
   ヱ:ネット上で読書会をするのは初めてなので楽しみです
   10:僕もです。今回は田山花袋の『少女病』を取り扱いたいと思います。みなさん花袋を読んだことは?
   モロ:ないです
   10:名前を聞いたことは?
   モロ:ないですね。というか物語を読みません
   ヱ:私も『少女病』以外は未読ですね
   10:物語ではなく、普段は学術書とかってことですか
   モロ:中公新書岩波文庫ですね
   ヱ:田山花袋といえば私小説家ですよね?
   10:ええ、自然主義の文学者です。フランスで生まれた本義の自然主義とは、だいぶずれてますが……
   ヱ:フランスと日本の自然主義の違いは客観性の有無でしたっけ?
   10:はい。ゾラとかは科学のように小説を書こうとしたのですが、どういうわけか日本では自己完結な世界を書く方向に向かっていきましたね。こういうのは日本の常なんでしょうか(笑)
   ヱ:西洋での主観的vs客観的の構図が、日本では外面的vs内面的と捉えられたのでしょうか?
   10:日本人は本質的にそういう捉えかたが好きなのかもしれません。第3の新人にしろ、内向の世代にしろ……

    『少女病』も、結局のところあくまで少女との交流ではなく少女を観察する自身の観察に留まっているように読みとれました。ひどく内向的ですよね。みなさんはどう思いましたか
    ヱ:前半、とくに初めの方の描写は後半の内向的な描写に対しちぐはぐな印象を受けました
    10:最初の描写は風景と共に主人公杉田を客観的に描写していますもんね。やや荒削りな気が
    ヱ:後半の電車内での描写が主題なのだとしたら、前半の客観的な描写は役割を持たないように思えるんですよ。私が見落としている面白い揶揄などがあるのでしょうか
    10:揶揄……といっていいかは分かりませんが、全体的な構造としては杉田の外面――いかめしく近寄りがたい――を通りすがる人の視点から見て、中盤以降の杉田の内面を書き、私たちが読者の視点でそれを窃視することにより近代以降の個人の不透明さが浮き彫りになっているかもしれません
    ヱ:なるほど
      10:いわば「パラレル的視覚」ですよね。対象を自己から引き離している


主人公≒わたしの世界
       ヱ:話題が全く変わるんですが、私は小説家を主人公(或は重要人物)とする作品がどうも好きになれないんです
    10:それは自己投影が過ぎるからでしょうか
    ヱ:そうですね、何というか、入れ子構造というか……
    10:ポップカルチャーに宿命的ないわゆる「俺TUEEE」系ともまた違う感じですよね
    ヱ:何というか、ずるくないですか? だって少し無理な設定があっても「これが小説家の実態なんだ!」と言われてしまえば「そうですか」としかもう言えないじゃないですか
    10:ある意味主人公が小説家の小説ってプリミティブな二次創作ですもんね
    ヱ:書きやすい設定なのは分かるんですけどね
      モロ:僕は好きですよ、自分が主人公になったような感じで
    モロ:少なくとも恋愛体験は自分と似たようなものでしたから
    10:それは主人公に自己投影できる、ということですよね
    モロ:そうですね。「わかるわかる〜」って感じで読めました
    10:ということは、自身もまたただ見るだけでお終い、という体験をなさったということでしょうか
    モロ:いや、僕は告白して終わらせましたよ。しっかりフラれてきましたw
    10:ははは。電車に轢かれるよりはずっといい終わりかたですよ

 

デカダンの標本」の異常な愛
      モロ:高校の先輩とも話したんですけど、恋愛には二種類の捉え方があると思うんですよ
   10:それはどのようなものでしょうか
   モロ:端的に言うと、内向き的と外向き的
   ヱ:それは受動的か能動的か、ということですか?
   モロ:多分違います。つまり、恋愛の発生を自己と捉えるか、と両者の関係性と捉えるか、って感じです 僕は前者なので後者は正直うまく言えないのですが
   ヱ:前者は恋愛感情で、後者は交際関係、ということですか?
   モロ:そんなイメージで大丈夫です。前者は「僕はあの人のことが好きで好きでたまらない。これは自己の内面から生まれた感情なのだから、自己の内面に対する対処を外界に生み出そう」とします
      後者は「僕はあの人のことが好きだ。それを高めるには両思いになる必要がある。ならファッションや関係性を重視することで外界を満たし、互いの内面に対処しよう」と捉える…と推測してます

  10:花袋より後の世代になりますが、横光利一は学生時代に恋人を友人に寝取られた際、嫉妬は恋愛に必須の副産物しか生まれえないといっています。翻ると杉田は不器量な女子に歯がゆさこそ覚えていますが、嫉妬はしていませんよね。仮想の許嫁の類さえ、考えていない。純粋な鑑賞物と少女を捉えている
  ヱ:そうですね、杉田は「自己の内面に対する対処を外界に生み出そう」という段階には至ってないように思えます
  10:妻子がいるから当然といえば当然ですが……にしても本当に純粋な鑑賞ですよね
  モロ:ちなみにみなさん、恋愛経験は?
  10:私はあくまで少女病患者ですから(笑)。なので杉田に同感できるところはありました
  ヱ:私も電車内で他人を見ることはよくあるので、分かる部分が多かったです


帝都に潜むデウス・エクス・マキナ
  ヱ:なぜ杉田は最後に死んだんでしょうか?
  10:テクストをそのまま物語の一連の続きとして読むなら、死ぬ必要はなかったと思います。ただ個人的に最後の描写はもっとアレゴリックなものだと思います
  ヱ:だとしたら、何を寓意しているのでしょうか。完結なんですかね…
  10:杉田が電車から落ちたのは混雑した電車の扉に半分身を乗りだす形で、急発進した際に手すりをうっかり離してしまったからです。で、なんで電車が混んでいたかというと博覧会帰りの客が多かったから。この博覧会は上野で開催していたそうです。それはさておき、博覧会というのはすぐれて近代的なイベントですよね。とりあえず単純なアレゴリーを提示するなら、博覧会という「近代」が遠因となって個人が殺される。そういう読解も可能ではないかなと
  ヱ: 東京府勧業博覧会のことですね。私は1900年代初頭の国内の様子をあまり知らないのですが、自由に対する阻害という背景があったのでしょうか?
  10:自由の阻害、とはちょっと違いますね。この場合の対比は個人対集団、それに付随する記名性対匿名性だと思います
  ヱ:集団的な協調圧力などによって内面が阻害される、ということでしょうか?
  10:僕はそう考えています。ちょうど花袋自身、自然主義で内面を見つめるのを方針としていたのでこういう形の答えを出すのは物語としては納得がいかないけど、なんとなく分かる気がします。内面を見つめるというのがちょっと違うなら、ありのままを書くことにより自己の内面をごまかさないというか
  ヱ:協調圧力などによって内面が阻害されうることはあるのでしょうか。内面の発露が阻害されていると主張したいのだとすると、つまり、杉田は作中で少女を眺めていただけですが、実際には行動に移したかったし、それを良しとする社会を示唆している、ということになりませんかね
  10:うーん、ちょっと待ってください。社会が良しとしなかったからこそ、行動に移さずただただ観察するに留まったといえるのではないでしょうか。観察するに留まったからこそ、「内面の発露が阻害」されたと思います
  ヱ:それを寓意的に示す、ということは観察にとどまるべきではない、という主張になると考えました。もしくは人間の感情と理性はこういう関係にある、ということをただ単純に提示したかったのでしょうか。あと、内面の発露が阻害されたのは決して近代に入ってからではないと思います
  10:確かに内面の発露の阻害は近代以前からありましたね。なんというか、近代の集団の発生により外面の層が厚くなって、内面を圧迫していると思いました。やや比喩的な指摘ですが……
  ヱ:確かにそうですね。それに対する反発の表明であるとすれば納得できました。
  モロ:僕は告白と同様、自己完結したかったのではと思ってます
  ヱ:死因が完全に外的要因ですから、自己完結はできているのでしょうか?
  モロ:自己完結出来ず、このままだとどうにかなってしまう。相手に迷惑をかけたくない。なんでもいいからこの気持ちを止めてくれ、って時ありますあります。
  10:それはデウス・エクス・マキナ的ですよね
  モロ:なんですかそれは
  10:どうにもならない場面を神的な力でどうにかしてしまう手法です。夢落ちなんかが好例かな
  モロ:僕の場合の告白ですね。現実的に考えて相手という外的要因に頼らざるを得ない。告白って言っちゃ悪いんですけど、自分の気持ちを抑える為に相手を利用してるんですよね
  ヱ:それはふられることを前提としているように感じます。もしそうでないなら、全ての行動は自己の気持ちを抑えるために利用されていることになりませんか?
  モロ:例えばどういった?
  ヱ:何かしらの思考の結果として行動が起こされるのだとしたら、全ての行動はその原因となった思考を抑えるために利用されているのではないか、と考えました。例えば、食事をするのは食欲を抑えたい、あるいはおいしい物を食べたいという感情を抑えたい、という目的の為に利用されている、といった話です
  モロ:え? しません? お腹が空いた。腹が減っては作業が進まないので食べよう。お腹の空き具合はこの程度だからこの程度にしよう。美味しかったらなお良いからこれにしよう…と
  10:しません? というのは気持ちを抑えるために相手を利用しないかということでしょうか。杉田はその点を「自己解決」していますよね。作中でもぼやかして書いていますが
  ヱ:や、すると思いますよ。ただ、だからこそ、告白が特別視される理由はありませんし、告白をするという行為自体は外的要因にたよっていないように思います
  モロ:なるほど。確かに告白以外でも同じやり方をしますね。しかし告白には一過性の食事と違って永久性があると思います。今まで積み上げた気持ちを捨て、自己本位な行動を制限するわけですから、それは時間的に大きなリスクだと思います。
  ヱ:一過性・永久性は程度の違いな気がします。そして結局その点がどうであろうと、告白はデウス・エクス・マキナ的ではなく、杉田の死はデウス・エクス・マキナ的である、ということですかね
  モロ:告白が普段の行動の延長上にあるというなら、そうなりますね
  ヱ:普段の行動と特別な行動を分けるとしても、例えば食事でさえ特別な行動となりえるはずです。また、そういう意味ではなく、結局デウス・エクス・マキナは外因ですから、告白が感情の結果の行動ならば違う性質ですよね
  10:告白は能動的ですもんね。デウス・エクス・マキナは受動的

 

オナニズム的展開
  10:杉田の行為は告白ではないですよね。少女の鑑賞、そこからの2次的な行為、そして見惚れた結果の死も、すべて自己完結的。一過性・永久性も何も始まってすらいない
  モロ:普通その上を目指そうとしそうなもんですけどねぇ……
  10:これこそオナニズムだと思いますよ。鑑賞すべき世界があって、それから干渉されることなく自分のみで出来事を完結させる
  ヱ:ところで、前半部の後半あたりで、少女と杉田の関係が描写されますよね。あれって、何なんでしょうかね
  モロ:話しかけるあたりですか?
  ヱ:Ⅱの部分です。あれのせいで単純なオナニーとは言い切れない気もします
  10:留針を拾う場面ですね。あの行為を発端として交流が始まれば、この物語は自己完結的でもないし、杉田のオナニズムでもなかったと思います。ただ、そのあとに少女とはなんの関わりもないのです。「男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの娘、己の顔を見覚えたナ……と思う。これから電車で邂逅かいこうしても、あの人が私の留針を拾ってくれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、娘が今少し別嬪で、それでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめもないことを種々に考える。」
    この引用部分からもわかるように、出来事を発端としてむしろ杉田のオナニズムは加速していると捉えられませんか
   ヱ:確かにそうですね
   モロ:ゲームで言うところの分岐点なのかも。拾わなければ死ぬことはなかった的な。鑑賞に対する芯みたいなものがあって、それに反するか否かで自分のしたかったことを強調するような
  ヱ:なるほど
  10:恋愛AVGという捉えかたは面白いですね。この場合杉田はバッドエンドが確定して、ハッピーエンドやトゥルーエンドを回想、もしくは夢想している

                      (2017年11月3日)