小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

『「地の塩」殺人事件』と湾岸戦争の関係

Ⅰ. 概要

 このレポートでは、イスラエル人作家シュラミット・ラピッドによる『「地の塩」殺人事件』(1992)という作品における推理小説という形式と湾岸戦争の描写の関係について考察する。

 まず、『「地の塩」殺人事件』の推理小説としてのプロットについてⅡで説明する。次に、『「地の塩」殺人事件』における湾岸戦争の描写についてⅢで説明する。更に、湾岸戦争そのものについてと、当時有名になったジャン・ボードリヤールによる『湾岸戦争は起こらなかった』(1991)という本についてⅣで確認する。最後に、推理小説という形式が湾岸戦争の真実を伝えるのに効果的に作用していることをⅤで説明する。

 このレポートは、2017年度に慶應義塾大学で開講された総合教育セミナーⅡを下敷きとして作成された。

 

 

Ⅱ. 『「地の塩」殺人事件』の推理小説としてのプロット

 『「地の塩」殺人事件』の推理小説としてのプロットを以下で説明する。

 まず、ベエルシェバ警察警部のアブネル・ローゼン(ロジー)と、その恋人で骨董家具店主であるタミー・シモンの二重葬儀に、記者のリジー・バドゥヒが取材に行く場面から物語は始まる。事件当日、ちょうど空襲警報が鳴っていた8時半に二人は帰宅し、門を開けようとしたタミーが車の外で撃たれ、それからロジーが犯人を目がけて撃ったが外れ、ロジーは運転席で二発撃たれて殺されていたということが分かっていた。

 次に、リジーは、取材を終えて帰宅すると、死んだはずのロジーがソファに横になっているのを発見する。彼は、リジーの義兄でベエルシェバ警察警部であるベンツィ・コレシュに、リジーに匿ってもらうように頼まれたと言う。それから彼によって事件の経緯が語られる。

 約二年前、アメリカの収集家ルイス・ディプルがロシア人作曲家スクリャービンの自筆楽譜とリトアニア系のハイム・スーチンの絵画を国際競売会社サザビーズに鑑定依頼し、本物であることが分かった。しかし、それらはイスラエルを経由して不正に持ち出されたものである可能性があるとサザビーズは考え、イスラエル警察に隠密な調査を依頼してきた。そこでロジーは特別調査班の班長に任命された。調査をしていると、スクリャービンの孫娘のベティ・クヌートがイスラエルに住んでいたことが明らかになった。彼女は「最後のチャンス」というバーを開き、39歳の時に心臓麻痺で急死していた。「最後のチャンス」は売りに出され、タミーの父で、シェセク社の社長であるシャイケ・シモンが買い取った。彼を調査する中で、ロジーはタミーと親しくなった。

 ロジーの話によると、事件当日、実際には、タミーが撃たれたあとにロジーは犯人を目がけて撃ち、命中させていた。タミーを殺そうとした人物にとってロジーは邪魔者だったのだから、自分が死んだことになれば犯人を捕まえやすくなるだろうとロジーは考え、犯人と服を交換し、車の助手席に載せ、顔に一発撃ち込んだ。それからベンツィに頼み、匿ってもらうことにしたと言う。

 リジーはそれから主にイスラエルの人々の戦時対策などを取材しながら、ベンツィ、ロジーと共に事件の捜査を始める。その結果、フランス語の先生であるポーレット・メルニックやその息子のヘズィ・ロドニツキが事件に関わっていることが分かる。ポーレットはベティの親友で、二人で物置にスクリャービンとスーチンの作品を隠していたが、後日作品を取り出そうとしたらなくなっていたのに気づいたことや、ヘズィがタミーの使いとして働いていたり、麻薬をやっていたりしたことが判明する。また、ヘズィがロジーを狙撃しようとした犯人であり、ロジーの代わりに埋葬されたことが判明する。

 ある日、リジーはロジーによってガスマスクの中にフェノールを仕込まれ、殺されそうになる。ロジーは警察に捕まり、事件の真相が明らかにされる。タミーを殺した真犯人はロジーだった。ロジーは不正に絵と楽譜を持ち出し、骨董家具主のタミーに売るように頼んだ。作品を持ち出すのには、タミーの使いであるヘズィも関わっていたが、過去に麻薬の件で彼を捕まえたことのあるロジーは、麻薬常習者は信用できないのを熟知したいたので殺害するのを決意した。事件当日、ロジーはタミーの共にヘズィと会った時にちょうど空襲警報が鳴ったので、銃声を消すために利用しようと考えた。もともとタミーを殺すつもりはなかったが、警報が鳴り止まないうちにヘズィとタミーを殺したということだった。

 

Ⅲ. 『「地の塩」殺人事件』における湾岸戦争の描写

次に、『「地の塩」殺人事件』における主な湾岸戦争の描写について、具体的に説明する。

 まず、葬儀に参列したラビの説教について、リジーが次のように考える描写がある。「ラビは、「悪徳の子らの横行」について説教した。リジーはそれを記事の見出しに使おうと思ったが、そこで、サダム・フセイン軍を相手にした湾岸戦争で逝った兵士たちの冥福を祈って、ラビが同じ表現を使ったのを思い出した」(シュラミット・ラピッド 1997, p. 9)。

 リジーがポーレットに取材に行く前の場面では、訓練を受ける三歳児の子どもたちの様子とその母親の気持ちを取材するリジーの姿が次のように描かれている。

 

三歳児が三十人、足もとに小児用フード(化学兵器攻撃用に開発された小児の頭をすっぽりくるむフードで、呼吸を助けるポンプがついている)を置いて黄色のプラスチックの椅子に腰掛けている。保母のエスティが、「お客さんたちにフードをどんなに早くかぶるか見てもらいたい人?」と園児たちに聞いた。大多数の「やだ!」の叫びに、いくつかの「ハイ」がのみ込まれたのにリジーは気づいた。(中略)ヨナタンの母親が泣き出し、「ひどすぎる」と目をぬぐいながらいった。「三歳の子にガス爆弾から身を守るのを教えるなんてひどい世の中ね!」(中略)「あなたも怖い?」とリジーは聞いた。「もちろん、怖いわ」と、その若い母親はいった。(中略)リジーは、見出しと写真込みで半ページ分、見出しは《わたし、怖い》だと決めた。(ラピッド 1997, p. 58–60)

 

リジーがベティの父親が住んでいた家に取材に行く場面では、以下のような描写がある。

 

散らかっててすみませんといった。大きい子たちがチビちゃんたちを公園に連れてってましてね。わたしも行くつもりなの。ガスマスクやミネラルウォーターを用意してるとこ。子どもたちだけのとこに空襲警報が鳴ったらと思うと、ぞっとするわ。学校に子供をやるっていう文部省の考えはよくないわ。文部省が学校や幼稚園を開いても、わたしは子どもを学校にはやりませんよ。空襲警報が鳴って、生徒四十人に責任を持てる教師なんかいるもんですか。(ラピッド 1997, p. 199)

 

また、ヘズィについての手がかりを探している途中の場面では、リジーが戦時中の助産婦を取材している様子が次のように描かれている。

 

「戦争で、産科はどうですか?」リジーが聞いた。

 助産婦は笑った。「うちじゃ、戦争は八月から始まってるの。イラクがアメリカとイスラエルにジハード(聖戦)を宣言して、みんながただ不安がってる頃から。ガスマスクセットが配布されたり空軍が警戒態勢に入りだしたとたん、わたしたちも警戒態勢なのよ」

(中略)

「市民警備隊や保険省の指導はなかったんですか?」

「あったわよ。でも、乳児をどうしていいかわからないじゃない。いちばんの恐怖は化学兵器。最初にガスマスクをつけて、それから赤ん坊を乳児用バスケットに入れるのか、その逆か? 外で攻撃があったら、父親が面会に来るのを許可していいのか? ミサイル攻撃の最中に、救急車や産婦の家で出産が始まったらどうしたらいいのか?(後略)」(ラピッド 1997, p. 260)

 

以上のように、今作品は、事件の真相を徐々に明らかにしていくプロットと平行して、湾岸戦争に対するイスラエルの人々の戦時対策や恐怖心などが次々に描写されている構造になっていることが分かる。

 

Ⅳ. 湾岸戦争とは

 ここで、湾岸戦争が起こった経緯とイスラエルとの関係について確認する。まず、1990年8月1日に石油問題を巡って、イラククウェートの交渉が決裂し、翌日イラク軍がクウェートに侵攻する。11月29日に、イラククウェートから撤退しない場合武力行使を要因するとの決議を国連安保理が可決し、それに基いて湾岸戦争が1月17日に開戦する。その翌日に、イラクスカッド・ミサイルでイスラエルを攻撃するが、2月27日にブッシュが湾岸戦争勝利と停戦を宣言して湾岸戦争は終了した(ボードリヤール 1991, pp. 5–9)。

 イラクイスラエルを攻撃したのは、争点をパレスチナ問題にし、多国籍軍に加わったアラブ諸国イラク側に引きつけようという意図に基いていたと考えられるが、イスラエルイラクへの反撃を自制し、戦線拡大を避けることができた(酒井 2002, p. 115)。

 ところで、1991年に哲学者のジャン・ボードリヤールが『湾岸戦争は起こらなかった』という本を出した。この本の中で彼は次のように指摘している。「戦争は、合目的性をもつからではなくて、戦争の存在を実証するために、維持されるだろう。(中略)アラブの民衆をべつにすれば、いったい誰がまだ戦争を信じ、そのために熱狂的になれるだろうか? とはいえ、見世物(スペクタクル)としての戦争を求める欲動は、完全なかたちで存在している」(ボードリヤール 1991, p. 35)。彼は、湾岸戦争は従来の戦争とは異なって、戦争そのものが自己目的化され、他国で「見世物」のように扱われた戦争であると主張している。しかしこの主張は、「イラククウェート侵攻によって浮上した深く重要な人間的、経済的、戦略的問題は、彼の容赦なき抽象概念の重圧の下で消滅する」(パイプス online)などと、批判を受けることもあった。

 

Ⅴ. 湾岸戦争描写における推理小説という形式の効果

 推理小説という形式を用いなくても湾岸戦争の真実について伝えることはできる。そこで、単なる戦記ものやジャーナリズムという形式ではなく、推理小説という形式を用いて湾岸戦争を描写することでどのような効果があるのかについて説明する。ここで、戦記ものとは、戦争の事実関係に注目して読むだけでなく、「戦争や軍隊の本質、人間の本性を読み取ろうとする」ことができるものとする(高橋 1988, p. 13)。また、ジャーナリズムとは「客観的に、正確に、公平に事実を報道」するものであるとする (飯塚他 2011, p. 3) 。

 Ⅱで見た通り、今作品では、推理小説としてのプロットの中に湾岸戦争そのものが大きく関わってきているわけではなく、せいぜい湾岸戦争をテーマにした作品ならではのガスマスクや空襲警報という道具を殺人に利用している程度である。しかし、Ⅲより、プロットが進んでいくのに平行して、プロットとは関係なく、当時のイスラエルの人々の戦時対策や恐怖心についても詳しく描写されていることが分かる。こうすることで、推理しながら事件の真相を少しずつ知っていくと共に、湾岸戦争の影響を受けた当時のイスラエルの真実に少しずつ迫っていくように感じられる。これが効果的であることは、湾岸戦争を社会的なテーマとして考えれば、社会派推理小説作家の松本清張の次の記述から明らかである。

 

社会小説を書くのに推理小説的な方法を用いたらどうであろうか。未知の世界から少しずつ知ってゆく方法。触れたものが何であるか、他の部分とどう関連するか、という類推。これを推理小説的な構成で書いたほうが、多元描写から来る不自然、または一元描写から生じる不自由を、かなり救うように思われる。

 少しずつ知ってゆく、少しずつ真実の中に入ってゆく。これをこのまま社会的なものをテーマとする小説に適用すれば、普通の平面的な描写よりも読者に真実が迫るのではなかろうか。(松本2011, p. 390)

 

 次に、このように効果的に湾岸戦争時のイスラエルの真実を伝える意味について考察する。この作品では、主に主人公の記者リジーが記者としての仕事をこなしながら徐々に事件を解明していくという構造がとられている。記者がイスラエルの人々の軍事対策や恐怖心を記事にする様子を描写することで、この作品自体が戦記ものかつジャーナリズムとして、人間性を客観的に読者に伝えられるように機能している。そしてこのことは、『湾岸戦争は起こらなかった』が人間的な問題を捨象していると批判されることと相反している。また、Ⅳで見た通り、『湾岸戦争は起こらなかった』では、湾岸戦争が他国で「見世物」として扱われた戦争であると主張されていた。このことから、自国の視点から見た当時のイスラエルの現実そのものは、他国にとって解き明かされるべき真実として扱うことができると考えられる。そのような真実を、人間的な問題を含めて伝えることに意味があると考えられる。

 

Ⅵ. 参考文献

飯塚他 2011 飯塚浩一, 堀啓子, 辻原登, 尾崎真理子, 山城むつみ. 新聞小説の魅力. 東海   大学出版会, 2011.

酒井 2002 酒井啓子. イラクとアメリカ. 岩波書店, 2002.

高橋 1998 高橋三郎. 「戦記もの」を読む―戦争体験と戦後日本社会. アカデミア出版会, 1988.

パイプス online ダニエル・パイプス. 湾岸戦争は起こらなかったの書評. 綱島(三宅)郁子訳. (2017年1月22日). http://ja.danielpipes.org/article/13038.

ボードリヤール 1991 ジャン・ボードリヤール. 湾岸戦争は起こらなかった. 塚原史訳. 紀伊國屋書店, 1991.

ラピッド 1997 シュラミット・ラピッド. 「地の塩」殺人事件 女記者リジー・バドゥヒ. 母袋夏生訳. マガジンハウス, 1997.