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小文化学会の生活

Soliloquies of Associate Association for Subculture

近親相姦の描きかた――『私の男』と『相姦の赤い河岸』から

感想(マンガ) 感想(小説) 10nies

 以前、京都大学成年コミック同好会に所属している友人がこんなツイートをしていました。

 彼のすすめもあり、読んでみることにしました。以前より名前とごく簡単な筋書だけは知っており、特にライトノベル畑から一般文芸に進出した桜庭氏の著作というのでいつかは読みたいと考えていたのですがようやく手に取れました。※以下、本編の内容を含む記述となります。

 この物語を簡潔に説明すれば父と娘の近親相姦の話です。当然、成年向け漫画ではないのでそういう売りこみの仕方ではなく、「家族とはなにか」といったありふれた疑問に本書のテーマは集約されるでしょう。あくまでも近親相姦はその問いに対する方針です。その方針が衝撃的であり、また正面から向かいあったので評価されたのだと思います。

 物語はアルバムを最後のページから捲るように腐野花の結婚から遡りつつ最終章で花と養父である親戚、腐野淳悟の出会いを描いて締めくくられます。1粒で2度おいしい構造ですね。実際、1回読了してから2週目に入るとああ、なるほどと納得できる点が多いです。それをいちいち列挙してもしょうがないし、その快感ともいえる経験はぜひご自身で味わうべきだと思うので興味がある方は手に取ってみてはいかがでしょうか(出版社の回し者ではありませんよ)。

 淳悟は親戚、という関係で震災孤児となった花を引きとりましたが、実は親戚ではなく、それどころか彼は花の実父だったのです。これは地の文の説明では断言されていません。しかし切れ長な目、竹中家の兄妹のなかでひとりだけ似ていないことを指摘されるたびに元気をなくす母、そして紋別でなにかと腐野親子を気にかける大塩のおじいさんの発言から察することができます。こんな複雑な関係であるふたりが「親子」になるのを、街のまとめ役である大塩のおじいさんはよしとしませんでした。その反対を押しのけるほど、淳悟は花に固執していたのです。なぜでしょうか。

 淳悟の言葉を借りれば、花が血の人形だったから、となるはずです。淳悟は花と似ています。親子という繋がりだけでなく、生い立ちに重なる部分が多かったのも一因でしょう。花が家族を失ったのとだいたい同年齢で淳悟も父が亡くなっています。それから母は父の厳しさも包括せねばなるまいと奮闘します。残念ながら、この養育が淳悟の欠損を決定づけてしまったのです。後年、花とともに墓参りをした淳悟は母を「いやな、ばばぁ」と形容しています。「悪いときの親父がのりうつったみたい」な母が淳悟は嫌いでした。だからこそ、母性を花に強く求めるようになりました。

血っていうのは、繋がってるから。だからもしも俺の子がいたら、そのからだの中に、親父もお袋も、俺が失くした大事なものが、ぜんぶある。

[私の男:379P]

 淳悟が花の裸体に舌で触れたのは墓参りをした日の夜で、花を引きとってから1ヶ月も経っていませんでした。きっと求めていたものを具現化した花の存在に、堪えられなかったのでしょう。口づけをしたあと、淳悟はおかあさん、と花を呼びます。花もはぁい、と受けいれます。長いながい歪んだ男女の関係はこうして始まりました。

 男性が年下の女性に母性を求める、というシチュエーションはけっして珍しいものではありません。アニメでも特撮でも、ひとつぐらい例を思い浮かべられるかと思います。最近では記号化された「ロリおかん」という属性もありますね。女性は生得的に母性を持っている(としてよい)はずです。男性が持っていないわけではなく、あくまで自然に母性を以て相手と接することができ、また母性を求める対象となるのは女性だろう、ということです。そして少女にそれを求めるのならば、甘えるという行為に性的な内容が否応なしに含まれていきます。もし肉体関係を持ったのならば、その瞬間少女は恋人になるのです。母性を持った少女は母にもなりえます。しかしあくまで少女は少女です。年上の男性から見れば娘という関係が妥当になります。つまり、母性を持ち、母性を求められた少女は娘であり、恋人であり、母でもあるのです。少女から男性を見た場合、なんと呼称すればよいのか。それはもう、「男」としか呼びえないでしょう。『私の男』というタイトルは、花と淳悟の深く複雑な関係を明快に、正確に表した良題だと思います。

 ただし、この作品にはいくつか疑問が残ります。前述の花の初夜は彼女が9歳の時の出来事です。はたしてそれぐらいの女の子に、淳悟の複雑な感情と願望をまがいなりにも理解し、許容するだけの能力があるのか。最初は嫌がるか、そっけなく対応して徐々に受けいれるのならば納得がいくのですが、少々急すぎるような気もします。さすがに第5章(小学6年生)にもなると「貫禄」がつきますね。そこからはすんなりと行為についても納得できます。

 あと、二件の殺人が果たして有意義だったのか、という点です。田岡を殺した淳悟と大塩のおじいさんを殺した花。殺人犯という共通項を持ち性行為で結ばれた親子ほど強い繋がりはないと思いますし、そういう意味で作品には「必要」だったとは思います。ただしこういった劇的な要素を持ちこんだら、どうしても近親相姦というテーマを重視すると不純物になってしまうというのは論点先取でしょうか。大塩のおじいさんが流氷に乗って流されながら海によって花と断絶する光景はとても豊かなメタファーですし、田岡の言動や死体も物語で重要な効果を担っています。ただ、それはあくまで小説の技巧として優れているのであって、前記のテーマにおいて有意義かというと、私にはそうは思えないのです。

 もしかしたら、近親相姦を扱うには、優れて平凡な日常のなかで描写したほうがいいのかもしれない。黒澤R氏の『相姦の赤い河岸』を読んで、そう感じました。この話は『私の男』といくつか類似点があります。分かりやすくするために箇条書きで列挙します。

 ・父親に相当する親戚の男性が両親と離れざるをえなかった女子と同居している

 ・ヒロイン(娘)が就職しており結婚を意識する描写がある

 ・ヒロイン(娘)が父親に相当する男性を名前で呼ぶことがある

 ・父親に相当する男性が自身と離れて暮らすべきだと考える描写がある

 ・結婚(を考えている)相手がエリート

 ・娘が父親に相当する男性と離れたくない素振りを見せる描写がある

 ただし、ふたつの作品内を覆う空気が圧倒的に違うのです。それは地理的な観点から見ても明らかです。『私の男』で淳悟と花が紋別から逃げるようにやってきたのは東京拘置所の近くで、『相姦の赤い河岸』で要と友美が住むのは多摩川沿いのどこかです。おそらく花火大会をマンションのベランダからよく見られる場所なので二子玉川近辺かと思います。六郷土手ではないんじゃないかな。ともかく方角からしてみても正反対な場所に住んでいます。優劣をつけるのは愚かしいですが、住環境として後者を好む方が多いと思います。要と友美はそこでご近所に仲むつまじいカップルとしてみられることもあります。家出をすれば友美には駆けこむあてがあります。花はどうでしょうか。紋別にいるころは友人がいましたが、東京ではその影は見られません。近所づきあいなど尚更です。

 結婚とは娘がもともといた家族から離れることで、近親相姦をする「異常な」家庭から「正常な」家庭に戻るチャンスでもあります。行為に耽りながらどこかで父親は結婚によって娘に正しくなることを望んでいるのです。この描写は『相姦の赤い河岸』のほうが顕著です。対して『私の男』は花が結婚して新婚旅行から帰ってくると淳悟は蒸発していました。パソコンを強制終了するように、淳悟は花との関係を絶ったのです。

 仕事をしているかどうかも対照的です。花が短大を卒業して働くと、入れかわるように淳悟は無職になりました。要は友美が働いてもまだ働いています。当然といえば当然ですが、当然のことをしているふたりが禁忌をするためにより際立って見えるのです。

 近親相姦への捉えかたも違います。花と淳悟は共依存の関係にあり、すでにそれ以外、もしくはそれに準ずる方法でないと愛情を示せないように思われます。近親相姦が、恋人のセックスとほぼ同じように捉えられている。友美はあくまで現実的です。友人で義理の兄と近親相姦をしていたという過去を持つ香奈に家族でそんなことをするのはおかしいと言われ、叔父さんに「変なこと」はされてなかったかを心配されたとき、友美は頷くだけでした。思わせぶりな言動もしないし、取りみだすこともありません。そこで否定するのが当たりまえなのです。あくまでその認識を持ち、そのうえで行為をする。

 要は常識人です。むしろ友美と要の関係のきっかけは友美にあるのです。友美は実父と実母から育児放棄と似たような状況におかれて、半ば捨てられるように要に引き取られます。ちなみに要の家に来た年齢は、明記されていませんが花とほぼ同時期ではないかと思います。要は父親としての役割を果たそうと結婚するまでは所帯を持たないようにして、恋人もふっています。白髪が増える要を見て、友美は罪悪感めいたものを覚えます。ただし行為は償いではない。好意によるものです。そもそも好意を抱くのがこの関係の危うさ、歪みを表しています。

 結婚(を意識する)相手がエリートというのを意識するべきなのかと疑問に思われるかもしれませんが、近親相姦をする娘がそのような男性と結ばれることによって元来の異常さ、普通の家族の正常さが明確になります。ただ、この男性像は女性作家からの視点でつくられた物語であることが大きいかもしれません。男性が女性を要素、もしくは記号に解体して捉えるように、女性も男性を同レベルまで細分化して捉えるのは自然です。結婚相手という生涯の伴侶だからこそ、記号にできない部分はもちろん、その記号が重要になります。

 女性作家の視点からつくられた近親相姦の物語として考えると、父親とはどのように見られているかがわかります。娘が父親に恋人の幻想を見るのは一見ありえない、おかしいように思われますが、2作品に共通する欠損のあるふたりが寄りそった場合、父親はややもすると恋人になりえるのです(実際、そのように娘が思うから物語がはじまり、成立しています)。男性が少女にあらゆる女性から想起されるイメージ、役割を混同させるのと似た事態が起きるわけです。

 さて、友人は『私の男』を読んでLOやコミック高がそれよりもレベルが上の作品をつくれるかを問いていますが、私はその問いにはNOと答えます。そもそも、超える必要がないのです。男性が近親相姦の作品に求める性能はあくまで他ジャンル、性的嗜好と同様にオナニーマシーンとしての性能であって、そこに感情の機微はさして考慮されません。個人的な所感として、近親相姦を男性向けの成年コミックで用いる場合、兄妹か姉と弟という組み合わせが多いのではないでしょうか。これは純粋な恋人に距離感が近いです。もしくは今回とりあげた2作品と同じような関係か。いずれにしても女性が男性を受け入れない作品はあまりないと思います。女性が、というより作品自体が機械として正常に動くことを求められているからです。もちろんそうではない作品もあります。ただ、それを望む層がいるのでおかしくはないです。

 そういう「いかにもな」作品が持つ魅力を私はよく知っているつもりです。しかし、女性作家がつくる話は言葉にしにくい魅力があります。もし拙い語彙でそれを表現するなら、オーセンティシティ(本物性)の高さにあるかもしれません。男性に完全な女性を描くのはいうまでもなく至難の業です。それを前提のうちに可能としていること、それが魅力に繋がるのかもしれません。そして『相姦の赤い河岸』により魅力を感じるのも本物性(ここでは自分の生活から捉えられる、想像できる日常)の高さが一因にあるはずです。物語を読むことを「観光」と捉え、その本物性の如何で物語を見るのは面白そうなので、他作品でもしてみたいと思います。とりあえず今回はここまでとしておきましょう。

私の男 (文春文庫)

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相姦の赤い河岸(1) (エンジェルコミックス)

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